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20.その名はキール


最近、体がおかしい。


最初は気のせいだと思っていた。

歩けばすぐに息が上がるようになり、荷物を持つだけで腕が重い。以前なら何ともなかった距離なのに、今は数歩進むだけで足が鉛のように動かなくなる。


山賊の記憶を継承したあの日からだ。

能力を継承する代償。

馬車のあの男は確かにそう言っていた。


(……ただの疲れ、だよね)


自分にそう言い聞かせるように拳を握る。

だが、思うように力が入らない。指先に力を込めても、握り締めた感覚がどこか遠い。

胸の奥で、小さな不安が静かに膨らんでいった。


「この森を抜けたところに、小さな街があるみたいだよ、ナクト」


前を歩くウルリカが振り返り、木漏れ日の向こうから笑顔で手を振る。


「あ、うん……」


返事をしたつもりだったけれど、自分の声がひどく遠く聞こえる。


「もう、ナクトってほんと体力ないんだから」


ウルリカは困ったように笑い、歩幅を少しだけ緩めた。


「そんなんじゃ、そのうち倒れちゃうよ?」


「だ、大丈――」


最後まで言えず景色がぐらりと揺れる。

木々の緑が滲み、足元の地面がゆっくりと遠ざかっていく。


(あれ……)


膝から力が抜け身体は支えを失い、そのまま前へ崩れ落ちる。


「ナクト!」


ウルリカの叫びが聞こえたけれど、その声はまるで深い水の底から届くように遠く、意識はゆっくりと暗闇へ沈んでいった。


△▽△▽△▽△▽


「……気が付いた?」


柔らかな声に導かれ、ナクトはゆっくりと目を開ける。

木陰に寝かされていたらしく、葉の隙間から差し込む陽射しがぼんやりと視界を照らしていた。


「いきなり倒れちゃうからびっくりしたよ。一応、治癒魔法はかけたけど……今日はちゃんと休まないと駄目だからね」


安心したように笑うウルリカだったが、その表情には隠しきれない心配が浮かんでいる。


「ごめん……」


身体を起こし、もう一度拳を握ってみる。

やはり力が入らない。


(やっぱり、おかしい)


この違和感は、疲れなんかじゃない。

ナクトは胸の奥で芽生えた不安から目を逸らすように、小さく息を吐いた。


「ナクトが集めてくれた薬草、いっぱいあるんだけどさ」


ウルリカは荷袋を抱え、困ったように笑う。


「私、どれが何の薬草なのか全然分からなくて」


その言葉にナクトもかすかに笑みを浮かべた。


「……行こうか」


ウルリカに肩を借りながら立ち上がり、二人はゆっくりと森を抜ける。


やがて小さな街が見えてきた。

だが、その光景に二人は思わず足を止める。


静かすぎる。


昼間だというのに店はほとんど閉まり、人影もまばらで窓という窓は固く閉ざされ、道には誰もいない。

風だけが石畳を撫で、乾いた音を響かせていた。


「……なんだか変な街ね」


ウルリカは杖を握り直し、小さく呟く。


「ああ……」


ナクトも街を見つめる。

胸騒ぎがした。



△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽



「うーん……診たところ、ただの過労ですね」


白髪の混じった老医師はナクトの手首から指を離すと、丸眼鏡の奥で小さく目を細めた。


「熱もありませんし、大きな異常も見当たりません。ここ数日、無理を重ねたのでしょう。今日はゆっくり休めば、明日には動けますよ」


その言葉を聞いた瞬間、ウルリカは胸を撫で下ろすように大きく息を吐いた。


「よかったぁ……」


張り詰めていた表情がふっと緩み、ようやくいつもの笑顔が戻る。


「じゃあナクトはここでゆっくり休んでて! 私はその間に、手頃な依頼がないか見てくるね」


軽やかに振り返り、そのまま病室の扉へ向かう。

その後ろ姿を見つめた瞬間、ナクトの胸が小さく痛んだ。


まただ。


また、自分だけ休んで。


また、ウルリカだけを危険な場所へ向かわせる。

山での出来事が鮮明によみがえる。

血に濡れた左腕。痛みを隠して笑っていた横顔。


「依頼は終わったよ」


何でもないように笑っていたあの姿が、今になって胸を締め付ける。

あの時、自分は何をしていた。守るどころか、傷つけたのは自分だった。

それなのに、また一人で行かせるのか。


「……ぼくも行くよ」


気が付けば、身体は勝手に動いていた。ベッドの縁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。

足元はまだ少し頼りない。それでも、その一歩だけは迷わなかった。


「えっ?」


ウルリカが驚いたように振り返る。


「でも、無理しちゃ駄目だよ? 先生も休めって言ってたじゃない」


心配そうな瞳がナクトを映しは小さく笑った。


「大丈夫」


その一言に力はないが、そこにははっきりとした意思だけがあった。


「もう、ウルリカ一人に任せたくないんだ」


静かな病室に、その言葉だけがゆっくりと落ちる。

ウルリカは少し目を丸くした。そして困ったように笑う。


「……そういうこと言われると、断れないじゃん」


肩をすくめながら近寄ると、ナクトの腕をそっと自分の肩へ回した。


「でも今日は無理禁止。歩けなくなったら、今度は私がおぶって帰るからね」


「それは……恥ずかしいな」


「じゃあ倒れないこと」


「努力します」


二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

病室に流れていた重苦しい空気が、その笑顔とともに少しだけ和らぐ。だが、ナクトの胸の奥に残る違和感だけは消えない。


老医師が「過労」と言ったその症状は、本当に疲れだけなのだろうか。


拳をそっと握る。やはり以前のように力は入らない。

誰にも気づかれないよう、その手を静かに握り締めると、ナクトは胸の奥に芽生えた不安ごと押し込めるように病室の扉へと歩き出した。




冒険者への依頼掲示板は街の中央広場にあると聞き、二人は人通りの少ない通りを抜けて足を運んだ。

街は相変わらず静まり返っていた。店先には「本日休業」の札が下がり、窓という窓は固く閉ざされ、人々は足早に行き交うだけで誰も長居をしようとしない。


――その広場だけは別世界だった。


「うわ……」


ナクトは思わず息を呑む。

掲示板を囲むように、数十人もの冒険者たちが肩をぶつけ合っていた。

背丈ほどもある大剣を背負った戦士。弦を張り直す弓使い。深く被った魔法帽の奥から鋭い視線を向ける魔法使い。鎧と武器がぶつかり合う金属音と、依頼について語り合う怒号が広場中へ響いている。

さっきまでの静かな街並みが嘘のようだった。


「すごい人だね……」


人混みに圧倒され、ナクトは思わず一歩後ずさる。


「ぼーっとしてたらいい依頼なくなっちゃうよ!」


ウルリカは楽しそうに笑うと、ナクトの手をぐいっと引っ張った。


「ちょっとごめんねー! 失礼しまーす!」


小柄な身体を器用に滑り込ませ、人と人の隙間を縫うようにして掲示板の最前列へたどり着く。


「えっと、どれどれ……」


依頼書が隙間なく貼られていた。


【薬草採集 報酬三千ギルム】


【荷馬車護衛 報酬五千ギルム】


【魔獣討伐 報酬一万ギルム】


どれも冒険者にはありふれた依頼ばかりだが、その一番下に貼られた一枚だけは異様な存在感を放っていた。


【龍魔獣討伐 報酬五十万ギルム】


「これ!」


ウルリカが勢いよく依頼書を指差す。


「五十万ギルム! これ受けようよ!」


「いやいやいや!」


ナクトは慌てて首を横に振った。


「龍なんて、ぼくたち二人じゃ勝てる相手じゃないよ!」


「そんなことないって!」


ウルリカは胸を張る。


「私は未来の騎士団所属魔法使いなんだから!」


そのやり取りを聞いていた近くの冒険者たちが、一斉に吹き出した。


「ははっ、威勢だけは一人前だな、お嬢ちゃん」


髭面の男が豪快に笑う。


「金に目がくらんで何人も挑んだが、誰一人戻っちゃいねぇ」


「悪いことは言わねぇ。命が惜しいならやめときな」


別の男も腕を組みながら苦笑する。


しかし、その中の一人がぽつりと呟いた。


「……まあ、あいつなら話は別かもしれねぇが」


その場の空気がわずかに変わった。笑っていた冒険者たちが、どこか言いづらそうに顔を見合わせる。


「あいつ?」


ウルリカが首を傾げる。


「誰それ?」


髭面の男は広場の隅にある木製のベンチへ視線を向けた。


「さっきまで、あそこに座ってたんだけどな」


ベンチには誰もいない。


「またふらっと消えたか」


男は肩をすくめる。


「あいつは気まぐれだからな。依頼を受けるかどうかも、その日の気分次第だ」


「名前は?」


ウルリカが尋ねると、男は少しだけ黙り込む。まるで、その名を口にすること自体をためらうように。



「……キールだ」



その名が広場に落ちた瞬間、不思議と誰も言葉を続けなかった。

ただ一人の冒険者が、小さく笑って肩をすくめる。


「会えたら運がいい」


すると別の男が首を横に振った。


「いや――」


その表情から笑みは消えていた。


「あいつに会うような状況なら、むしろ運が悪いと思った方がいい」



その一言だけが妙に胸へ引っかかり、ナクトは誰も座っていないベンチを見つめる。

風が吹き抜け、吸い殻が静かに石畳の上を転がっていった。





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