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19.優しい嘘の味


ふらふらとした足取りでナクトはウルリカの方へ歩き出した。

その歩幅はゆっくりなのに、獲物へ近づく獣のような妙な威圧感がある。


「……いい杖を持ってるな」


ナクトは口元を歪めた。


「それ、高く売れそうだ」


笑っているが、目だけは笑っていない。

光を失った瞳はどこか遠くを見ていて、ウルリカの知るナクトの優しさは影も形もなかった。


「な、何言ってるの……?」


ウルリカは思わず一歩下がり、胸がざわつく。

目の前にいるのはナクトのはずなのに、別人を見ているようだった。


「変な冗談やめてよ、ナクト……。やっぱりそうなの、ナクト……」


声が震え、足がもつれて小石に躓いてその場にしゃがみ込んだ。

ナクトは構わず近づいてくる。短剣を握る手には一切の迷いがない。


「全部置いていけ」


低い声だった。


「金も武器も、その杖も……全部だ」


一歩。

また一歩。


「そうすれば命だけは助けてやる」


その言葉は優しさではなく獲物をいたぶる山賊の、それだった。


「……ナクト」


ウルリカは震える足を立たせた。


「なんだ?」


ナクトは首を傾げる。


「ああ、おれのことか」


まるで自分の名前を初めて聞いたような顔だった。

ウルリカは息を呑む。

違う。目の前にいるのはナクトなのに、ナクトじゃない。


「……ナクト、あなたは違うわよね……」


ナクトの心へ声を投げかける。


「さっさと言うことを聞け!」


怒号が山に響き、鳥たちが一斉に飛び立つ。

ウルリカは小さく息を吸った。

そして震える足で、一歩だけ前へ出る。


「……刺してみなよ、ナクト」


胸にそっと手を当てた。


「死にたいのか?」


ナクトが笑う。


「ああ、殺してやるよ」


短剣が振り上げられ振り下ろされる。


その瞬間。


「……え」


ナクトの膝が崩れ落ちる。


ぽた。


ぽた。


赤い雫が地面を濡らした。


ナクトは呆然と顔を上げると目の前にはウルリカが立っていた。左腕から血を流しながら、それでも倒れずに。


「ナクト……大丈夫?」


痛みに顔を歪めながらも、ウルリカは笑ってみせた。


「ど、どうしたの……その怪我」


ナクトの声が震える。


「忘れたの?」


ウルリカは傷口をそっと隠した。


「私たち、魔物退治に来たじゃない」


「……え?」


「ナクトが気を失ってる間に倒しちゃった」


そう言って杖を軽く持ち上げる。


「へへっ、私って結構強いでしょ?」


「そ、そうなんだ……」


ナクトは力なく笑った。


「ごめんね……あれ、ぼくの剣は?」


「ああ、あれ?」


ウルリカはできるだけ明るく答えた。


「ナクトが怖がって思いっきり投げちゃったじゃない」


「投げて……気絶して……」


ナクトは頭を押さえる。

何かがあった、何か大事なことを忘れている。

胸の奥がざわつき、思い出そうとするたびに霧がかかったように記憶が遠ざかっていく。


「依頼も終わったし、今日は帰ろっか」


ウルリカは右手を差し出した。


「私も、この腕じゃさすがに病院行かなきゃだし」


「あっ、そうだ!」


ナクトは慌てて立ち上がる。


「早く治療しないと!」


そのままウルリカの手を掴み、山を下り始めた。

温かい手だった。

ほんの少し前まで、その手が自分に向かって短剣を振るっていたことなど、ナクトは何も覚えていない。ウルリカは隣を歩くナクトをそっと見つめた。

優しくて、人の痛みを自分のことのように悲しむ少年。

そんなナクトが、どうしてあんな目をしたのか。どうして自分を殺そうとしたのか。


答えは分からない。


分からないまま、それでもウルリカは笑った。

ナクトには気付かれないように。小さく震える左手を、そっと袖の中へ隠しながら。



△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽



「大丈夫?」


病室の扉をそっと開け、ナクトは顔だけを覗かせた。


「大丈夫だよ。でも、しばらく安静にしててってさ」


ウルリカは吊った左腕をひらひらと揺らし、困ったように笑う。

傷そのものは浅かったらしいが、思った以上に血を流してしまったらしく、医者からは無理をするなと念を押されていた。


「そっか……」


ナクトは小さく俯く。


「何か食べたいものある?」


「なあに? お見舞いしてくれるの?」


ウルリカはくすりと笑った。


「じゃあ、りんごが食べたいなあ。……なんてね」


冗談半分で少しからかってやろうと思っただけだった。


「分かった」


ナクトは立ち上がる。


「え?」


「すぐ買ってくる」


「ちょ、ちょっとナクト!」


返事をする間もなく、病室の扉は勢いよく閉まった。

静かになった部屋を見渡し、ウルリカはぽかんと口を開ける。


「……ほんとに行っちゃった」


そして小さく吹き出した。


「えっと……りんご買ってきてくれるのかな。は、はは」


 



「どのりんごがいいんだろう……」


八百屋の前でナクトは腕を組んだ。


赤いもの。少し黄色いもの。丸いもの。細長いもの。

思っていた以上に種類がある。


「うーん……」


悩んだ末。


「全部一個ずつ買おう」


そう結論づけた。

選べないなら全部買えばいい。我ながら名案だった。

会計では少しあたふたしたものの、どうにか買い物を終えたナクトは、大事そうにりんごを抱えて病院へ向かう。


その途中だった。


「あの山にいたの、魔物じゃなくて山賊だったらしいぞ」


「山賊? 本当かよ」


「街まで降りてきたらたまったもんじゃねえな」


「もう大丈夫だって。冒険者が退治してくれたらしい」


山賊。

その言葉を聞いた瞬間ナクトの足が止まった。


どこかで聞いた。いや、知っている。

胸の奥がざわつき、喉が妙に乾く。そして頭の奥で誰かが笑った気がした。


(山賊……?)


冒険者? それって。


(ぼくたちのこと……だよね)


でもあの山にいたのは魔物だった。ウルリカもそう言っていた。

なのに。


(……待て)


思い返す。


魔物。牙。角。血。倒れた姿。


どれだけ考えても肝心なところだけが霧の中だった。


(おかしい)


確かにウルリカは魔物を倒したと言ったけどあの場所に魔物の死体なんてあっただろうか。


(もしかして……)


頭が痛い。思い出そうとすればするほど、記憶が遠ざかっていく。

ナクトは自分の両手を見つめた。

この手は何を掴んだ。何を斬った。何を――。


ぽと。


りんごが一つ転がった。


ぽと。


また一つ。


ナクトはそれに気づかずただ手のひらを見つめていた。


「あららー」


聞き慣れた声がした。


「割れちゃったじゃない」


ナクトははっと顔を上げると、そこには片腕を包帯で吊ったウルリカがしゃがみ込み、落ちたりんごを拾っていた。


「ウルリカ!?」


「やっほー」


「どうしてここに?」


「ナクトのはじめてのおつかいを見たくてね」


得意げに笑う。


「お、おつかいってなんだよ」


ナクトは慌てた。


「買い物くらい一人でできるよ」


会計で少し慌てたことは秘密だ。


「ふーん」


ウルリカは割れたりんごを持ち上げた。


「でも、りんごは落としちゃったんだね」


「これは……その……」


言い訳が思いつかない。

しょんぼりと肩を落とすナクトを見て、ウルリカはりんごを籠へ戻した。

そして、ぽん、と右手でナクトの頭を軽く叩いた。


「でも味は一緒」


そう言って笑う。


「帰って二人で食べよ」


「……うん」


ナクトも小さく笑った。

胸の奥で渦巻いていた黒い感情が、少しだけ静まっていく。


山賊。魔物。血。

さっきまで頭を埋め尽くしていた嫌な記憶が、霧の向こうへ遠ざかっていくようだった。





ナクトは知らない。

その暗闇を追い払っているのが目の前で笑うウルリカなのだということを。





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