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18.消えゆく輪郭


街の酒場の隣には、冒険者向けの依頼掲示板が設置されていた。

木板いっぱいに紙が貼られており、薬草採取や荷運び、魔物討伐まで様々な依頼が並んでいる。


「へぇ……たくさん貼ってあるんだね」


ナクトは感心しながら掲示板を見上げた。


「もう、ついてきちゃダメって言ったのに」


背後ではウルリカが腕を組み、不満そうに頬を膨らませている。


「いや、でももう平気だしさ」


そう言ってナクトはその場で軽く跳ねてみせる。さらに腕を振り回しながら走る真似までした。


「ほら、元気元気」


「全然説得力ないんだけど」


ウルリカは呆れたように額を押さえた。


「昨日のナクト、自分で覚えてないの?」


「え?」


「覚えてないならいい」


「気になるんだけど」


「気にしなくていいの」


ぴしゃりと言われてしまい、ナクトは肩を落とした。

そんな様子を見てウルリカは小さく笑う。


「とにかく無理は禁止。私の後ろに隠れててね」


「ぼくだって戦えるよ」


「昨日寝ぼけてた人が何言ってるの」


即答だった。

ナクトが反論を諦めると、ウルリカは満足そうに頷きながら依頼書を一枚剥がした。


「魔物の出没で人が帰って来なくなった、かあ」


紙を読みながら視線を上げる。


「場所は――あの山の道中だって」


街の外れに見える山を指差した。


「ああ、あの山ね」


何気なく答えた瞬間だった。

ウルリカが不思議そうに首を傾げる。


「知ってるの?」


「え?」


ナクトは固まった。


知らない。

この街へ来たのは昨日だ。あの山へ行ったことなど一度もない。

それなのにどうして自分は当然のように答えたのだろう。


「あ、いや……なんとなくそうかなって」


慌てて誤魔化が胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感が残った。


その時だった。

脳裏に見覚えのない光景がよぎる。

鬱蒼とした山道。踏み固められた獣道。木々の隙間から見える焚き火。血の付いた斧。


そして、誰かの悲鳴。


「――っ」


ナクトは思わず頭を押さえた。

一瞬だった。

本当に一瞬だが妙な生々しさがあった。まるで自分が実際に見た景色のような。


「ナクト?」


ウルリカが顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「う、うん」


ナクトは無理やり笑った。


「なんでもない」


本当は何でもなくなかった。

あの光景は何だ。あれは夢で見た山賊の記憶なのか。それとも自分の想像なのか。


分からない。


分からないはずなのに胸の奥では確信に近い何かが囁いていた。

あの山を知っている。自分は知らない。だが、誰かが知っている。

ナクトは知らず知らずのうちに拳を握り締めていた。


「まあ、行ってみよっか!」


そんな空気を吹き飛ばすようにウルリカが笑う。そしていつものようにナクトの手を掴んだ。


「置いてくよー!」


「あ、待って!」


引っ張られるまま歩き出しながらも、ナクトは一度だけ山へ視線を向ける。

山頂付近を流れる雲はどこか黒く見えた。



△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽



山のふもとへ辿り着いた頃には、空からぽつり、ぽつりと雨粒が落ち始めていた。


「うわぁ、ついてないね」


ウルリカは手のひらを空へ向けると冷たい雨粒がぱちりと弾けた。


「さっさと終わらせて帰ろうか!」


いつも通りの明るい声。


「う、うん」


ナクトは頷きながら空を見上げた。

つい先ほどまで青空が広がっていたはずなのに、いつの間にか灰色の雲が山を覆っている。風もどこか冷たい。まるで山そのものが二人を拒んでいるようだった。


その時。


ずきり――。目の奥に微かな痛みが走った。


「っ……」


思わず目元を押さえる。

一瞬だけだが妙に気味が悪かった。

胸の奥がざわつく。

理由の分からない不安がじわじわと広がっていく。まるで何かが近くにいるような。あるいは何かが自分を呼んでいるような。



△▽△▽△▽△▽



「ナクト?」


先を歩いていたウルリカが振り返る。


「どうしたの?」


「いや……なんでもない」


そう答えたものの、違和感は消えない。

雨粒が頬を伝ち、その冷たさとは別の寒気が背筋を這い上がっていた。


山道は思っていたより歩きやすかった。魔物が棲みつく前は、猟師や薬草採集の人間が頻繁に出入りしていたらしく、細いながらもしっかりと道が残っている。


「ねえ、ナクト」


先を歩いていたウルリカが、くるりと振り返った。


「魔物と獣の違いって分かる?」


「えっと……」


ナクトは腕を組んだ。


「凶暴か、そうじゃないか、とか?」


「ぶっぶー」


ウルリカは人差し指を左右に振る。


「獣は普通の動物。馬とか牛とか猫とか、私たちの身近にいる生き物のこと」


そう言って道端を跳ねていく野兎を指差した。


「で、魔物は魔力を帯びた獣」


少し得意そうに胸を張る。


「つまり、ああいう子だって魔力を浴びれば魔物になる可能性があるんだよ」


「そんなことあるの?」


ナクトは思わず聞き返した。

ある。

知っている。

知っているからこそ、平静を装うのが苦しかった。


「あるよ」


ウルリカは真っ直ぐ前を向いた。


「魔導士の仕業だったりするの」


山を吹き抜ける風が、二人の間を通り過ぎた。


「魔導士の?」


「うん」


ウルリカは小さく頷く。


「"冥継術師"、"冥族"って呼ぶ人もいるかな」


ナクトの足が、ほんの一瞬だけ止まった。

魔力、冥継術師、冥族。

馬車の男の言葉が頭をよぎる。

魔物は冥族の力によって生まれる、自分だけが知っているはずの真実。


「でも、そんなの聞いたことないよ」


できるだけ自然に何も知らないふりをして。


「普通はね」


ウルリカの声が少しだけ低くなった。


「扱えるのは、ごく一部の特別な魔法使いだけなんだって」


そう言うと不意に足を止め、くるりと振り返り視線が真っ直ぐナクトを映す。

まるで何かを確かめるように。


「……ナクトは知らない?」


「え?」


胸がどくりと鳴る。


「し、知らないよ」


少しだけ声が上ずった。


「そうなんだ」


ウルリカはそれ以上何も聞かなかった。

ふっと笑う。


「じゃ、行こっか」


何事もなかったように歩き出すウルリカをナクトは慌てて後を追った。

胸の奥がざわついていた。ウルリカは、本当に何も知らないのだろうか。


それとも知っていて、知らないふりをしているだけなのだろうか。



△▽△▽△▽△▽



「そろそろ目撃地よ。気をつけてね、ナクト」


ウルリカが杖を握り直した。

降り始めた雨が葉を叩き、山の空気を湿らせていく。


「う、うん」


ナクトも短剣を抜いた。

その時だった。


ドクン。


胸が大きく脈打ち、視界が揺れた。目の前の山道がどこか懐かしく見える。


(……知ってる)


そんなはずはない、初めて来た山だ。

なのに。


(少し先に岩場がある)


(その陰に二人隠れられる)


(旅人が来たら前を塞いで)


(後ろから回れば逃げられない)


知らない。

知らないはずなのにナクトの足が勝手に岩場へ向いた。


「ナクト?」


ウルリカが不思議そうに声をかける。


(女が一人)


頭の奥で誰かが呟いた。


(細いな)


(武器は杖)


(先に腕を折れば楽だ)


「違う……」


ナクトは頭を押さえた。


(何が違う)


(今までそうしてきただろう)


(泣こうが叫ぼうが関係ない)


脳裏に知らない景色が浮かぶ。


荷馬車、血、火、笑い声。

そして、震えながら親を呼ぶ子ども。


「やめろ……!」


ナクトは叫んだ。


「ナクト!」


ウルリカが駆け寄ろうとする。

その姿を見た瞬間。


(逃がすな)


と思った。


(あいつを捕まえろ)


(荷物もある)


(売れば金になる)


「……え?」


ナクトは息を呑んだ。

今何を考えた。ウルリカだ……、大切な仲間だ。

なのに。


(首は細い)


(片手で掴める)


(簡単だ)


「違う!」


ナクトは頭を振る。


「ぼくは……!」


(ぼく?)


声が笑った。


(お前は誰だ?)


心臓が激しく鳴る。


(農夫か)


(山賊か)


(冥継術師か)


(ナクトか)


(……誰だ?)


「ナクト!」


ウルリカの声が聞こえるけれどその声さえ遠かった。

ナクトはゆっくりと顔を上げる。

片方の瞳が、雨空を映したような紫色へ染まっていた。


口元が、ふっと緩む。


「ああ……」


小さく笑う。


「そうか」


短剣を握る手に力が入った。


「ここなら」


雨が強くなる。


「誰にも見つかりはしないじゃないか……!」


「ナクト!!」




ウルリカの叫びが、静かな山に響き渡った。




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