17.侵食
「あれ、ナクト? どこ行ってたのよ」
街の宿の前で腕を組んだウルリカがじろりと睨んでくる。どうやらしばらく探し回っていたらしい。
「ごめんごめん、ちょっと猫がいてさ」
ナクトは頭をかきながらへらりと笑った。
「猫?」
ウルリカの眉がぴくりと動く。
「ナクトってそんな猫好きだっけ?」
「え、いや、ほら。可愛かったし」
「ふーん……」
疑いの目だ。
言えるはずもない。ウルリカが起きる前、街外れで農家の死霊に追い回され、半ば強引に未練を聞かされ、そのまま晴らしてしまったことなど。
昨晩あの男から能力継承の危険性を聞いたばかりだというのに、気づけばまた継承していた。我ながら学習能力がない。
(農家だったし……農具の扱いでも上手くなるのかな)
そんなことを考えていると、
「ほら、行くわよ!」
ウルリカがナクトの腕を掴んだ。
「え?」
「買い物!」
そのまま強引に引っ張られる。
宿を出てすぐの商店街は朝から活気に満ちていた。威勢のいい呼び込み。焼きたてのパンの香り。行き交う人々の笑い声。
旅を続けているとこういう賑やかな場所が少し懐かしく感じる。
「何買おうかな~」
ウルリカは目を輝かせながら店を見回した。
「あのさ、ウルリカ……」
「分かってるわよ!」
ビシッと指を突きつける。
「買うのは食料! ……がメイン!」
「メイン?」
「いやいや! こっちの話!」
誤魔化すのが下手だった。ナクトは小さくため息を吐く。
絶対に余計なものを買うつもりだ。そんな予感しかしない。
案の定、ウルリカは商店街のあちこちを飛び回り、気になる品を見つけるたびに立ち止まった。その後ろをナクトが慌てて追いかける。
するとふと、一軒の八百屋の前で足が止まった。
視界の隅に積み上げられた野菜が映る。
その瞬間だった。
不意にそんな考えが頭へ浮かぶ。
葉の色。茎の張り。根の状態。
目につく野菜の良し悪しが手に取るように分かる、ような気がした。
胸の奥がざわりと波立つ。昨晩の男の言葉が蘇った。
――死者の力も。
――死者の記憶もな。
「ナクトー!」
遠くからウルリカの声が飛んできた。
ナクトは慌てて顔を上げる。
「なにぼーっとしてるの!」
「ご、ごめん!」
考えすぎだ。
そう自分に言い聞かせながらウルリカの後を追った。
それからしばらくして。
「まあ、これくらい買えば大丈夫かな?」
ウルリカが満足そうに頷く。
リュックの中にはパンや干し肉、野菜に保存食など旅に必要な物がぎっしり詰め込まれていた。予想していたほど無駄遣いはしていない。少しだけ安心する。
「じゃあ荷物よろしくね!」
「え?」
ドスン。
返事をする前にリュックが押し付けられた。
「ちょっ――」
「じゃあ私はもうちょっと見てくるから!」
ウルリカは笑顔で手を振り、そのまま人混みの中へ消えていく。残されたナクトは重たいリュックを抱えたまま空を見上げた。
無駄遣いだけはしないでほしい。今の願いはそれだけだった。
先に宿へ戻って休もう。
早朝から死霊に追い回され、その未練まで晴らしたナクトの身体は思った以上に疲弊していた。
部屋へ戻ると背負っていた荷物を隅へ下ろし、そのままベッドへ倒れ込む。柔らかな寝具に身体が沈み込んだ瞬間、意識は糸が切れたように闇へ落ちていった。
夢を見た。
どこまでも暗い場所だった。
空も地面も分からない。ただ黒だけが広がっている。足元の感覚すらなく、身体はゆっくりと深い海の底へ沈んでいく。もがこうとしても腕は動かず、叫ぼうとしても声は出ない。
そんな闇の中で、不意に誰かの笑い声が聞こえた。
『泣くな』
男の声だった。
『たかが一人死んだだけだ』
ぞくり、とした。
聞いたことのない声なのに、妙に耳へ馴染む。
『次の村へ行くぞ』
複数の笑い声に、酒の匂い、そして血の臭い。誰かの悲鳴。
そして――。
『金になるもんは全部持っていけ』
その瞬間、ナクトは更に深い闇へ沈んだ。
ハッ!
勢いよく身体を起こす。息が荒い。全身に脂汗が滲み、寝間着が肌へ張り付いていた。
夢か。
荒い呼吸を整えながら窓へ視線を向ける。カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋を明るく照らしていた。
「おはよ! ナクト!」
勢いよく扉が開く。もちろんノックはない。
「……あ、うん。おはよ」
「どしたの?」
ウルリカが首を傾げる。
「顔色悪いけど」
心配そうな瞳がこちらを覗き込んだ。
「具合悪いの?」
「いや、大丈夫だよ」
ナクトは無理やり笑顔を作る。
「それより今日はどうする? 次の街へ行く? それとも資金稼ぎでも――」
「ナクトは寝てなさい」
即答だった。
「近くで魔物討伐の依頼が出てるから私一人で行ってくる」
「だめだよ」
ナクトは慌てて立ち上がる。
「危ないし、ぼくも行く」
ウルリカは呆れたようにため息を吐いた。
「見るからに体調悪い人が来ても足手まといになるだけだって」
そう言うと杖を床へ突き立てる。
「それに私、強いからさ!」
にやりと笑う。
「へへへ、殺されたりしないから大丈夫だよ!」
――殺す。
ナクトの思考が止まった。
……殺す。
……殺す。
……殺す。
……殺さないと。
頭の奥で誰かが囁く。
「ナクト?」
「えっ!?」
肩が跳ねた。
「今、すごく怖い顔してたよ」
ウルリカが眉をひそめる。
「悪人面だった」
「そ、そうかな……」
冷や汗が背中を伝った。
馬車の男の言葉が脳裏をよぎる。
死霊の能力だけじゃない。記憶も継承する。
今朝助けた死霊は農夫だった。
少なくともナクトにはそう見えた。
畑を耕し。家族を想い。穏やかに笑う。どこにでもいる普通の男だった。
なのに夢の中で聞こえた声は何だ。
人の命を何とも思わない声。誰かの悲鳴。血の臭い。
あれが本当に死霊の記憶なら自分はいま、人殺しの記憶を抱えていることになる。
胸の奥がざわつく。
農家だと思っていた男は、本当は何者だったんだ。
そして。
能力を継承し続けた先で、自分はどうなってしまうんだ。
ナクトは頭を抱えた。
「ナクト!?」
視界が揺れる。頭の奥で誰かが笑う。
『やれ』……違う。
『殺せ』……違う。
『奪え』……違う。
「……殺す」
「……殺す」
次第に声が漏れ、拳が震える。
「……殺してやる!」
「ナクト!!」
その声で意識が引き戻された。
ハッと顔を上げる。目の前にはウルリカがいた。
「おれ……何か言ってた?」
震える声だった。
ウルリカは一瞬だけ目を伏せる。けれど次の瞬間には、いつもの笑顔を浮かべていた。
「ううん」
優しく首を横へ振る。
「何も言ってないよ」
そう言いながらベッドの傍へ腰を下ろす。そして細い指で、そっとナクトの手を包み込んだ。
温かかった。
それだけなのに、ただそれだけなのに。
胸の奥で渦巻いていた黒い感情が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。




