15.虚無の馬車
ガラガラガラ――。
揺れる馬車の荷台で、ウルリカはぐったりと横になっていた。
「う、うえ~……」
顔色は真っ青で、焦点の合わない目が虚空をさまよっている。
「だ、大丈夫? ウルリカ」
ナクトが心配そうに覗き込むと、御者台に座る運転手の男が肩越しに振り返った。
「なんだ、酔ったのか? じゃあ少し休憩でもするかい」
馬車は道端で止まり、ナクトは慌ててウルリカを抱きかかえて近くの木陰へ運ぶ。
「ウルリカって乗り物酔いひどいんだね」
「克服したと思ってたんだけどね……」
力なく笑うウルリカを見て、ナクトは首を傾げた。
いつ、どうやって克服しようとしたのだろう。気にはなったが、今はそれどころではない。
木にもたれかかったウルリカの顔は見るからに苦しそうだった。しばらくすると御者が苛立ったような声を飛ばしてくる。
「ほら、もう行くぞ」
ナクトは立ち上がり頭を下げた。
「ウルリカ、行けそう……?」
するとウルリカは、
「むり……」
と言わんばかりに首をぶんぶん振る。
「あの……もう少しだけ待ってもらえませんか?」
ナクトが腰を低くすると、男は露骨に眉をひそめた。
「ああ? こっちは急いでるんだよ。ついでだから乗せてやっただけだ」
そして手綱を握り直しながら吐き捨てる。
「おれはもう行くぜ」
「えっ……」
「じゃあな」
男は後ろ手にひらひらと手を振り、そのまま馬車を走らせて去っていった。遠ざかる車輪の音が荒野へ吸い込まれていく。
取り残されたナクトは呆然と立ち尽くした。
どうしたものか。
周囲を見回しても見えるのはどこまでも続く荒れた草原だけ。馬車道の周囲には背の低い野草が広がり、まばらに木が立っている程度で、洞窟や廃屋のような雨風を凌げる場所も見当たらない。
この状態では無理に移動するより休ませた方がいい。
そう判断したナクトはウルリカを木陰に寝かせ、水と食料を探しに向かった。
しばらく歩くと小さな池を見つけたため、そこを仮の休憩場所に決める。
集められたのは果物らしきものと、干からびかけた木の実だけだった。
狩りなどできるはずもないので肉はない。魚も捕れない。けれど不思議なことに薬草だけは何故か見分けることができた。
夕方になり、ウルリカがゆっくりと目を覚ます。
「……うん、ここは?」
「どこだろう。ぼくも分からない」
ナクトは苦笑しながら手に持っていた物を差し出した。
「あ、これ」
「ん?」
ウルリカが受け取った瞬間、首を傾げる。
「花飾り?」
「うん」
「……え?」
「花飾り」
「なんで?」
「な、なんでだろ」
二人は揃って目をぱちぱちさせた。いつ作ったのか。そもそも何故作ったのか。渡した本人すらよく分かっていなかった。
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翌日。
荒野を進む一台の馬車が目に入った。
ナクトは飛び上がるように立ち上がる。
「た、助かった……!」
ウルリカを背負いながら馬車へ駆け寄り、御者へ声をかけた。
「あの! 少し乗せてもらえませんか!」
手綱を握る痩せた男は、じっと二人を見下ろした。どこか生気の薄い顔だった。
「……」
男はしばらく黙り込んだ後、
「なるほど、そういうことか」
と呟いた。
「乗っていけ」
それだけだった。
ナクトは深く頭を下げる。男の表情は変わらない。笑っているようにも見えるし、無表情にも見える。どちらとも言えない不気味さがあったが、今は気にしている余裕はなかった。とにかくウルリカを休ませる方が先だ。
ガラガラガラ――。
馬車は再び動き出すけれど妙だった。
やけに遅い。まるで急ぐ気がない。いや、それどころか目的地そのものが存在しないかのような走り方だった。車輪が地面を擦る音だけが単調に響き続ける。
その時になってナクトは気付く。
荷台に荷物が一つもない。商人なら商品があるはずだ。旅人なら荷袋くらい持っている。
だが何もない。
御者の男も手ぶらだった。
この男は一体何を運んでいるんだろう。
そんな疑問が胸に浮かぶ。
すると横になっていたウルリカが薄く目を開けた。
「あれ……私……馬車降りたはず……じゃ……」
そこまで言うと気を失い再び眠りに落ちる。
そしてしばらく進んだ頃――。
不意に馬車が止まった。
ギシッ。
車体が軋む。
御者台から男が降りてくる。その足音は妙に静かだった。
男は荷台の前まで歩くと、虚ろな瞳でナクトを見つめる。
「ど、どうかしましたか?」
喉が渇く。
「あの……ここで降りた方がいいでしょうか」
昨日追い出された記憶が蘇る。
しかし男は答えない。ただ見つめる。
じっと。どこまでも。
やがて男の口がゆっくり開いた。
「……やはり」
低い声だった。
「おれのことが見えているようだな」
ナクトは冷やりとし、心臓が大きく跳ねた。
「な、何が言いたいんですか……」
乾いた声が漏れる。
「なんのことですか……」
認めたくなかった。目の前の男が何者なのか。自分だけが見えている存在なのだと。
だが男は表情を変えない。死人のような顔のまま告げた。
「外へ出ろ」
そして僅かに目を細める。
「危害は加えない」
少し歩いた先にあった大岩へ腰を下ろし、男は静かに空を見上げた。
夜風が吹く。
男の輪郭は闇に溶け込み、まるで最初からそこに存在していないかのようだった。
「座れ」
短く言い、隣の岩を指差す。ナクトは警戒しながらも腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
虫の鳴き声だけが辺りに響いていた。やがて男が口を開く。
「お前は冥族だな」
ナクトの肩がびくりと震えた。
「め、冥族……?」
聞き慣れない言葉だった。
「何ですか、それ」
男は小さく鼻を鳴らす。
「知らんのか」
呆れたような声音だった。
「死者が見える」
男が一本指を立てる。
「死者と話せる」
さらに一本。
「普通の人間には見えないものが見える」
そこで男はナクトへ視線を向けた。
「違うか?」
ナクトは息を呑む。何も答えられない。否定できなかった。
男はそれを見て小さく頷いた。
「なら冥族だ」
夜風が吹き抜ける。
「冥継術師を含めた連中の総称だな」
男はどこか懐かしむように目を細めた。
「もっとも、お前みたいに何も知らずに力だけ持ってる奴は珍しいが」
「冥継術師……」
男は足元の小石を拾い上げる。
「冥族の術は様々だ」
小石を放る。
「死者の未練を晴らして力を受け継ぐ者」
ぱしっ。
掴む。
「死霊を現世に留める者」
再び放る。
「獣を死霊へ変える者」
小石が砕けた。
「他にもあるらしいが、おれも全部は知らん」
ナクトは言葉を失う。
男の話は荒唐無稽なはずなのに、不思議と嘘には聞こえなかった。むしろ。胸の奥に引っ掛かっていた違和感が、一つずつ形になっていくようだった。
「未練を晴らす……能力継承……」
ナクトは呆然と呟いた。
胸の奥で散らばっていた欠片が、一つずつ繋がっていく。
森で出会ったルーナ。
彼女の未練を晴らした後から、見たこともない薬草の名前や効能が何故か分かるようになっていた。
そして宿場村のミナ。
花飾りなど作ったこともなかったはずなのに、気づけば手が勝手に動き、当たり前のように編み上げていた。
どちらも説明がつかなかったけれど今なら分かる。
あれは偶然ではなかったのだ。
「……そういうことだったんだ」
思わず自分の手のひらを見る。
何も変わっていない。
だが確かに、この手の中には自分以外の誰かが残したものが宿っている。
「何か心当たりがあるようだな」
男が前を向いたまま呟く。
「はい」
ナクトは小さく頷いた。
「この旅で、二人の死者と出会いました」
夜風が草を揺らす。
「ぼくは、その人たちのやり残したことを少しだけ手伝ったんです」
そこで言葉を切る。
「その後から、今までできなかったことが自然とできるようになりました」
男は静かに耳を傾けていた。
ナクトは握った拳を見つめる。
「その人たちが得意だったことを、ぼくもできるようになったみたいで……」
沈黙。
やがて男が口を開く。
「二つか」
「え?」
「継承した力の数だ」
男は淡々と言った。
「今のお前には二人分の力が宿っている」
ナクトはゾクリとした。
二人分。その言葉が妙に重かった。
「いい力だろう?」
男は小さく鼻で笑う。
「使い方次第じゃ、そこらの魔法使いなど相手にならん」
月明かりが男の横顔を照らしたが次の瞬間には再び闇に沈む。
「もっとも――」
男の声が低くなる。
「いいことばかりじゃないがな」
ナクトは思わず息を呑んだ。
男の声は静かだった。
だがその一言だけで、夜の空気が急に冷たくなった気がした。




