14.少女が届けたかった花束
「クオーネに聞いたのか」
広場の端に置かれた木製のベンチに腰掛けながら、ウィットは少し困ったように笑った。
朝の村は静かだった。畑へ向かう村人たちの声が遠くから聞こえてくる。
「ミナは死んでない」
ぽつりと呟く。
その言葉にウルリカが小さく目を瞬かせたがウィットは気にする様子もなく続ける。
「……いや、そう思いたいだけなのかもしれねぇな」
自嘲するように笑うと、隣をぽんぽんと叩いた。
「立ち話もなんだ。座れよ」
二人は顔を見合わせた後、ベンチへ腰を下ろす。ウィットはしばらく空を見上げていた。まるで言葉を探しているようだった。
「あそこへ行くとな」
ゆっくり口を開く。
「何かいる気がするんだ」
朝風が頬を撫でる。
「おれが話しかけると風が吹く」
ウィットは遠くを見る。
「あの日のことを思い出して泣いてると、慰めるみたいに風が吹くんだ」
その目は少し潤んでいた。
「それに何度か見た」
「見た……?」
ナクトが息を呑む。
ウィットは小さく頷いた。
「ほんの一瞬だけだ。白い影みたいなもんだがな」
その顔には期待と諦めが入り混じっていた。
「クオーネも連れて行った。でもあいつには何も見えなかった」
力なく笑う。
「どうしておれだけなんだろうな」
その呟きは誰へ向けたものでもなかった。
ナクトは膝の上で拳を握る。聞きたいことがあったけれど無神経にはなりたくない。だから慎重に言葉を選ぶ。
「……ミナちゃんは、どうして亡くなったんですか?」
ウィットの肩が微かに震えた。
しばらく沈黙が続き遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
やがてウィットは重い口を開く。
「橋だ」
短く答える。
「村の外れに古い橋がある」
声が少し掠れていた。
「あそこはずっと立ち入り禁止だった。いつ崩れてもおかしくなかったからな」
ウィットはゆっくり両手を組む。
「でもあの日、ミナがいなくなった」
その時の光景を思い出しているのだろう。視線はずっと遠くを向いていた。
「村中探したよ。魔物に襲われたんじゃねぇかって、気が気じゃなかった」
拳に力が入る。
「そしたら誰かが言ったんだ。ミナが橋の方へ走っていくのを見たって」
ナクトは黙って耳を傾ける。
「おれは必死で走った」
ウィットの声が震え始める。
「橋へ着いた時、ミナはいた」
微かに笑う。
けれどその笑顔はあまりにも痛々しい。
「橋の真ん中で、おれを見て笑ってた」
ウィットは目を閉じた。
「だから呼んだんだ」
その一言に全ての後悔が滲んでいた。
「ミナー!ってな」
風が吹く、静かな朝だった。
「ミナは嬉しそうに走り出した」
震える声。
「おとうさんって叫びながらな」
そして、ウィットは唇を噛む。
「その瞬間だった」
握られた拳が小刻みに震えた。
「橋が崩れた」
誰も何も言わない。
「おれの目の前で」
声が掠れる。
「ミナは落ちていった」
ぽたり。
ウィットの足元へ雫が落ちた。
「……おれが呼ばなければ」
もう一粒。
「立ち止まってたかもしれねぇのにな」
朝日に照らされた雫が静かに光った。
「辛いことを思い出させてしまって、ごめんなさい……」
ウルリカは申し訳なさそうに視線を落とした。
だがナクトは違った。
確かめたいことがあった。
「……その橋に、連れて行ってもらえませんか」
ウィットは少し驚いたように目を瞬かせる。
「橋?」
「あの場所を見てみたいんです」
「別に構わねぇが……」
ウィットは苦笑した。
「さっきも言った通り、橋はもうねぇぞ」
「それでも大丈夫です」
真っ直ぐな視線を受け、ウィットはゆっくり立ち上がる。
「分かった。行こうか」
重い足取りで歩き始め、ナクトとウルリカも後を追った。
村外れまではそれほど遠くなかった。橋があった場所はすぐに分かる。太い木製の柵に何重にも張られた有刺鉄線。崩落事故以来、誰も近づけないようにしてあるのだろう。
三人が近づいた、その時だった。
ふわり。
暖かな風が吹く。
ウィットは目を細めた。
「この風だ」
懐かしむような声だった。
「おれがここへ来ると、いつも吹くんだ」
ナクトは柵の向こうを見る。風ではなかった。
ミナがいた。
父親の背中へそっと抱きついている。小さな腕で一生懸命に。けれどウィットには見えなく触れることもできない。
ミナはぎゅっと抱きしめた後、少しだけ身体を離した。
そして寂しそうに笑う。
「会いに来てくれてる気がするんだよ」
ウィットは遠くを見つめる。
「馬鹿な話だろ?」
「そんなことありません」
ナクトは小さく答えた。
ウィットは照れ臭そうに笑う。
「ミナ。こっちがウルリカお姉さんで、こっちがナクトお兄さんだ」
そう言って、誰もいない空間へ語りかける。
すると。
『ナクトお兄さんっていうんだね』
ミナが振り返った。
『昨日は驚かせちゃってごめんね』
柔らかな笑顔だった。
「わっ」
ウルリカが声を上げる。
「また風が吹いた」
風が頬を撫でる。
「よろしくね、ミナちゃん」
その言葉にミナは嬉しそうに微笑んだ。
ウィットも目を丸くする。
「驚いたな」
少しだけ目尻を緩めた。
「ミナが返事をしてくれたみたいに感じたのは初めてだ」
ナクトは何も言わず、その代わり視線を落とす。
柵の向こうに草むらの中に白い花びらが散っていた。
その瞬間、昨夜見た光景が脳裏をよぎる。ミナが抱えていた花束。そして今、目の前にある白い花。同じだ。
ナクトはしゃがみ込み、花びらを拾い上げる。胸の奥がざわついた。
「……ウィットさん」
「ん?」
「ミナちゃんが橋にいた時、何か持っていませんでしたか」
ウィットは眉を寄せる。しばらく考え込み、やがて目を見開いた。
「花だ」
絞り出すような声だった。
「そうだ……花を抱えてた」
ナクトは息を呑む。
ウィットは震える手で額を押さえた。
「白い花だった」
遠い記憶を掘り起こすように呟く。
「ハルミ草だ」
「ハルミ草?」
「ああ」
ウィットは柵の向こうを見る。
「クオーネが好きな花なんだ」
風が吹く。ミナは胸に抱えた花束をぎゅっと握りしめた。
『やっと思い出してくれた』
ぽろりと涙が零れる。
『ママに渡したかったの』
ナクトは思わず唇を噛む。
『いっぱい探したんだよ』
小さな声だった。
『でも渡せなかった』
その姿があまりにも切なくて。ナクトはゆっくり顔を上げた。
「ウィットさん」
「なんだ」
「向こう岸へ行きませんか」
ウィットが目を見開く。
「でも、橋は……」
「私が何とかするわ」
ウルリカが一歩前へ出て杖を握る。
その瞬間、風が唸り木々が大きく揺れる。
ナクトは思わず目を見張った。三本の大木が見えない刃で切り裂かれたかのように倒れていく。
轟音で地面が震える。倒れた木々は風に押されるように動き、崩れた谷へ横たわった。
即席の橋だった。
「よし」
ウルリカは額の汗を拭う。
「往復するくらいなら十分でしょ」
ナクトはぽかんと口を開ける。
「ウルリカって……」
「ん?」
「本当はすごい魔法使い?」
ウルリカは得意げに胸を張った。
「だから言ってるでしょ」
にやりと笑う。
「私の夢は騎士団に入ることなの」
そして親指で自分を指した。
「これくらい余裕よ」
その笑顔を見ながら、ナクトはふと思う。
――だったら、どうして。
どうしてウルリカは王都へ向かわず、自分と旅をしているんだろう。疑問は浮かんだけれど今は聞かなかった。
「行こうか」
ウィットの声が響き、三人は橋へ足を踏み出した。そしてその後ろを花束を抱えたミナも静かについて行った。
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「久しぶりに来たなぁ」
ウィットは懐かしそうに背筋を伸ばした。
「そういえば、どうしてこっちへの橋は一本しかなかったんですか?」
ウルリカが辺りを見渡しながら尋ねる。
「こっちは昔、魔物が多かったんだよ」
ウィットは前を歩きながら答えた。
「今じゃ落ち着いてるが、昔は危なくてな。橋を増やす余裕もなかったんだろうさ」
それを聞いて、ナクトは少しだけ胸を撫で下ろした。
もし今でも危険な場所だったらどうしようかと思っていたのだ。
「一度だけ、ミナと二人でこっちへ来たことがあるんだ」
ウィットは遠くを見るような目をした。
「ハルミ草を摘みに来てな」
そして小さく笑う。
「……今思うと、連れて来なければよかったのかもしれない」
その声には深い後悔が滲んでいた。
「そんなことないですよ」
ウルリカがすぐに首を振る。
「ミナちゃんはきっと、この場所が好きだったと思います」
「……そうかな」
「はい。だから今でも覚えているんです」
ウルリカは真っ直ぐ答えた。その瞳に迷いはなかった。
ウィットは少し驚いたように目を瞬かせた後、ふっと笑った。
「そうだな」
そして前を向く。
「そろそろ着くぞ」
木々を抜けた瞬間だった。視界が一気に開ける。
「わぁ……」
ウルリカが思わず声を漏らした。そこには白い花々が一面に咲き誇る原っぱが広がっていた。
風が吹くたびに花々が揺れ、まるで白い波のようにうねる。幻想的な光景だった。
「綺麗……」
ナクトも思わず見入る。
「だろう?」
ウィットは少し誇らしげに笑った。
「おれも久しぶりに来たんだがな」
ナクトはその時、原っぱの中央付近へ目を向けた。白い花の中に、不自然な場所がある。
「あそこ……」
「ん?」
「花が少ないです」
ウィットとウルリカもそちらを見る。確かにそこだけぽっかりと花が薄くなっていた。
まるで誰かが大量に摘み取ったかのように。
その瞬間。
『そこで集めたの』
隣から幼い声が聞こえた。ナクトが視線を向ける。
ミナだった。
白いワンピース姿の少女は、少し照れくさそうに笑っている。その腕には白い花束が抱えられていた。
『いっぱい摘んだんだよ』
ナクトはミナの花束を見る。そして足元の花の少ない場所を見る。さらにウィットへ視線を移した。点と点が少しずつ繋がっていく。
「そうか……」
思わず呟いた。
「ん?」
ウルリカが首を傾げる。
「いや……」
ナクトは誤魔化すように首を振った。
しかし胸の中では確信が生まれ始めていた。
ミナはここで花を摘んでいた。それも大量に。誰かに渡すために。
『渡したかったの』
か細い声だった。
『パパとママに』
ナクトはゆっくり息を吸う。ようやく分かった。ミナの想いが。
「ウィットさん」
「どうした?」
「ミナちゃんは、この花を届けたかったんだと思います」
ウィットの肩がぴくりと震えた。
「届けたかった……?」
「はい」
ナクトは白い花畑を見渡す。
「きっと、お父さんとお母さんに」
風が吹いた。その風はどこか優しかった。まるで、ミナが頷いたように。ミナの想いを知ったウィットは、ハルミ草を摘み続けた。
クオーネのために。そして、最後まで渡すことのできなかったミナのために。
白い花々が夕陽に照らされ、静かに揺れていた。
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村へ戻った頃には、すっかり日が傾いていた。
ウィットは何度も礼を言いながら二人を自宅へ招こうとしたが、ナクトとウルリカは丁寧に断った。今日はきっと、ウィットとクオーネが二人で過ごすべき日だ。
いや――本当はそこにミナもいる。そう思えたからだった。
宿へ戻った二人は簡単な夕食を済ませ、それぞれの部屋へ引き上げた。
長い一日だった。ベッドへ身体を沈めると、ナクトはあっという間に眠りへ落ちていった。
だが、その夜。
コンコン。
不意に扉を叩く音が響いた。ナクトはゆっくりと目を開く。
窓の外は真っ暗だった。
「……ウルリカ?」
眠気を擦りながら部屋を出る。だがリビングに彼女の姿はない。
聞き間違いだったのだろうか。
そう思いながらも何となく落ち着かず、ナクトは宿の外へ出た。
夜風が頬を撫でる。
昼間とは違う冷たい風だった。空を見上げれば無数の星が輝いている。
静かな夜だった。
その時。
ふわり、と風が吹いた。
ナクトは視線を前へ向ける。
そこに立っていたのは――ミナだった。
月明かりに照らされた少女は、昼間よりもずっと透き通って見える。
『ありがとう、ナクトお兄さん』
優しい笑顔だった。
ナクトは少しだけ笑う。
「ぼくは何もしてないよ」
『ううん』
ミナは首を横に振った。
『お兄さんが気づいてくれたから、お花を渡せたんだよ』
胸の前で両手を重ねる。
『ママも泣いてた』
嬉しそうに笑った。
『パパも泣いてた』
その声には安心が滲んでいた。
『だから、もう大丈夫』
ナクトは何も言えなかった。
ただ静かにミナを見つめる。
『思い残すこともなくなったよ』
ミナは夜空を見上げた。
『本当はね』
少しだけ寂しそうに笑う。
『もっとパパとお話したかった』
『もっとママに甘えたかった』
『もっと一緒にいたかった』
その言葉はあまりにも当たり前だからこそ胸が痛んだ。
ナクトは唇を噛む。
ミナはそんなナクトを見て、ふふっと笑った。
『でもね』
一歩後ろへ下がる。
『もう行かなきゃ』
夜風が少女の髪を揺らした。
『ほんとにありがとう』
その身体が少しずつ薄れていく。
『バイバイ、ナクトお兄さん』
ナクトは慌てて手を振った。
「うん」
喉が少し詰まる。
「バイバイ、ミナ」
ミナは満足そうに微笑んだ。
そして――。
ふわりと風になって消えていく。昼間に感じた暖かな風ではなく、どこかひんやりとしていて、けれど不思議と悲しくない風だった。まるで旅立ちを告げるような風。
ナクトはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「うぅ……」
後ろから眠そうな声が聞こえる。
振り返ると、ウルリカが目をこすりながら宿から出てきたところだった。
「どうしたの? ナクト」
大きな欠伸をする。
「こんな時間に」
ナクトの心臓が跳ねた。
「え、いや、その……」
視線が泳ぐ。
「誰かと話してなかった?」
「えっ!?」
思わず裏返った声が出る。
ウルリカが首を傾げた。
「してたよね?」
「そ、それは!」
ナクトは必死に頭を回転させる。
そして絞り出した。
「く、口笛!」
「口笛?」
「うん! 口笛の練習!」
言った瞬間、自分でも酷い言い訳だと思った。
案の定、ウルリカは怪訝そうな顔をする。
「夜中に?」
「う、うん……」
「へーんなの」
じーっと見られる。冷や汗が止まらない。
するとウルリカは突然くすりと笑った。
「なんかナクトって、たまに幽霊と話してるみたい」
その言葉にナクトの肩がびくりと跳ねた。
「そ、そんなわけないよ!」
「ふふっ」
どうやら半分寝ぼけているらしい。ウルリカは大きな欠伸をした。
「まあいいや」
眠そうに目を擦る。
「私は寝る」
「う、うん!」
「ナクトも早く寝なさいよ」
そう言い残し、ふらふらと宿へ戻っていく。その背中を見送りながら、ナクトは胸を撫で下ろした。
危なかった。本当に気づかれたかと思った。
夜空を見上げる。
そこにミナの姿はもうない。それでも不思議と寂しさはなかった。
きっと今頃、ようやく帰るべき場所へ向かっているのだろう。
ナクトは小さく微笑むと、静かに宿の扉を開いた。




