無かった事には出来ない
好きな人とのキス。事故であれ意図的であれ、その行為は事実として幸福となる。
それが今、かえって私を苦しめている。私には事情がある。家の事情が。私は親が決めた台本を無視してアドリブを続けている。それはいずれ指摘され、修正される。
欲張った。今まで私には自由が無かったんだから、ちょっとくらい、恋くらい自由にしても良いと。だけど、それは現実逃避と同義。家に戻って、両親から今後のシナリオと駄目だしを受け、ようやく解放された。部屋のベッドに倒れこみ、思い出したのはカナタ君とのキス。
「無かった事に……」
無かった事にしたくない。
けど、カナタ君の為を思うと無かった事にしなければいけない。
最近、ずっと泣いてばっかだ。このおかしな家の事情に邪魔されてばかりだ。
「……明日になれば、忘れててくれないかな」
カナタ君の為にも、今日の出来事は無かった事にしたい。でも、自分から無かった事にしたくない。
私は、他人を不幸にする疫病神だ。
次の日、学校へ行ってもカナタ君はいなかった。どうやら風邪をひいてしまったらしい。クラスではカナタ君の友達のタケシ君がソワソワしてるだけで、誰も気にしていなかった。
昼休みになると、あの子、リンちゃんがお弁当を持って教室にやってきた。
「あれ? カナタ先輩は?」
一緒に昼食を食べたからか、リンちゃんは私に聞いてきた。
「えっと……風邪をひいてしまったみたいです……」
「へぇ。カナタ先輩でも、風邪ひくんだ」
そう呟くと、リンちゃんは空席になっているカナタ君の席に座った。
「せっかくですし、僕と食べませんか?」
「え? え、ええ……」
分かっている。リンちゃんには何の裏も無い。たった一度だけ一緒に昼食を食べたくらいの仲だけど、裏表の無い人間だという事は分かり切っている。
私が不安になっているのは、この子の底知れない器の大きさ。この子について私は何も知らないはずなのに、私がどんなにワガママを言っても、それを許容してくれる安心感がある。どうしてそう思ってしまうかは、理屈では説明出来ない。そういう人なんだという直感。
だからこそ怖い。この子には既に私を許容する準備が出来ている。それはつまり、私の恐れや不安を見透かしてるような気がするからだ。
「花咲先輩って、分かり易い人ですよね?」
「ッ!? な、何が?」
「この前、三人で昼食をとった時、私を邪魔者扱いしてましたよね」
「そ、そんな事ないわよ! リンちゃんは良い子だから、邪魔者だなんて―――」
「カナタ先輩にキスしたみたいですね」
一瞬だけ、心臓が止まった気がした。
見られた?
聞かされた?
どちらにせよ、それを利用して脅すつもりはこの子に無いようだ。むしろ、脅すつもりなら良かった。じゃないと、心の準備が出来ない。この子は何が目的で先日の話をしてきたんだ?
「僕は、カナタ先輩が好きです」
「ッ!? そ、そうなの……そうだよね……」
「花咲先輩は?」
「……私は……私には―――」
「……良かった」
「―――え?」
「遊びでカナタ先輩の初めてを奪ったわけじゃないなら、これ以上この話をする必要は無くなりました。花咲先輩にも事情があるんですね」
そう言って、リンちゃんは私に微笑みかけてくれた。それは苦し紛れの笑みでも、ましてや見下すような嘲りでもない。それはまるで、怖がる子供を安心させる母親のよう。恋敵である私に対して、リンちゃんは心配している。
この後の事はよく憶えていない。リンちゃんとどんな話をしたのか、何から食べて何を最後に食べたのか、午後の授業とか。長い間、目を瞑っていたかのよう。
そうして気付けば、私はカナタ君の家の前に立っていた。どうしてこの家がカナタ君の家だと分かるのか不思議に思っていると、答えは昼休みのリンちゃんとの会話の断片にあった。
『申し訳ないのですが、花咲先輩にお見舞いに行ってほしいんです。場所は―――』
「―――私、何やってるんだろう」
家の事情を気にしてるくせに、それを無視してカナタ君を好きになって、結局後悔して。挙句、恋敵のリンちゃんに背中を押される始末。悪い人にも、良い人にも、振り回されてばかり。
しかし、このまま帰るのはもっと駄目だ。せっかく来れたのだから、顔だけでも見よう。そう自分に言い聞かせ、インターフォンのボタンを押した。
すると。
「来んなって言ったろ」
玄関の扉が開くなり、言われた言葉。訪ねてきたのがカナタ君が想像していた人物じゃなかったのか、すぐに撤回した。
けれど、その言葉は本心に聞こえた。カナタ君は私を迷惑がってる。弱った今だからこそ、配慮していた優しさが削がれ、本心が口に出た。きっと、そうなんだ。
逃げたい。でも逃げれば、本当に迷惑を掛けにきた人になってしまう。何か理由をつけて、誤魔化さないと。そう思いながらカバンの中を探すと、今日配られた夏休みの日程表が書かれた紙を見つけた。これを渡せば、少なくとも目的のある訪問になる。
そうして紙をカナタ君に差し出し、カナタ君が紙を受け取った時、焦りが出た。安堵した所為で気が抜け、手を引いてしまった。その所為で、カナタ君の指を切ってしまった。瞬間的な痛みを訴える声を耳にした後、カナタ君の指から傷口が開き、血が出てくる。
傷付けてしまった。
嫌われてしまう。
不幸になってしまう。
光の速さで駆け巡った思考が、私の体を無理矢理動かした。了承も得ずに家に上がり込み、病人のカナタ君を引っ張って、キッチンで傷口を洗った。適切な処置というには乱暴で、カナタ君の為というより自分の為。私は無かった事にしたがってる。
けれども、そうはならない。インクを水で洗い流すのとは違い、傷はすぐに無かった事にならない。
「花咲さん。絆創膏ありがとね。もう大丈夫だよ。だから、自分が悪いとか思わないで。あれは事故だったんだし」
優しい声色。優しい慰め。
それが、私の中にある悪い私を引き出した。
「……わざとやりました」




