第80話 病院は孤独死の心配がない?
「病院っていいわね。だって、孤独死しないじゃない。」
私は思わず「は?」と言ってしまう。
「病院には山ほど人がいるしさ。だからこそ、誰もいない病院は怖いんだろうね」
……朝から何を言っているんだ、この人は。
「いや、まぁ、そうかもしれないけど」
「でしょ?」
何が「でしょ?」なのかは分からない。
母は電話の向こうで、さも当たり前のことを話すように続けた。
「家で一人で死んで、何日も誰にも気づかれないとか、嫌じゃない?」
「そりゃ、まぁ……」
「でも病院なら、誰かしらいるじゃない。看護師さんもいるし、お医者さんもいるし。何かあったら、誰かが気づいてくれるわけよ」
確かに、そうだ。
ただ、病院に入院したからといって、必ずしも孤独を感じないわけではないだろう。
同じ部屋に人がいても、寂しいときは寂しいだろうし、誰かに囲まれていても、一人ぼっちだと感じることだってある。
それでも、母が言いたいことは、なんとなく分かった。
「……まぁ、そういう意味では安心かもね」
「そうなのよ。だから私、病院っていいなと思って」
母は満足そうに言った。
いや、待ってほしい。
あなた、ついこの間まで病院に入院することを、どこか他人事みたいに話していなかっただろうか。
それが、入院してまだ一日しか経っていないのに、もう病院の良さを発見している。
適応力が高いというか、何というか。
いや、もともとこの人は、どこにいても自分なりの楽しみを見つける人だった。
病気になっても、入院しても、それは変わらないのかもしれない。
「でもさ」
母が、ふと思い出したように言った。
「病院にいると、いろいろ考えるわね」
その声は、さっきまでとは少し違っていた。
「何を?」
「今までのこととか、これからのこととか」
私は黙って聞いていた。
母がそんなことを口にするのは、珍しかった。
もちろん、今までだって何も考えていなかったわけではないだろう。
ただ、この人は、考えたことをいちいち人に話すタイプではなかった。
思いついたら行動する。
言いたいことがあれば言う。
やりたいことがあれば、周りが何と言おうとやる。
そんな母が、病院のベッドの上で、これまでの人生を振り返っている。
それが、少し不思議だった。
「……何か、後悔してることでもあるの?」
そう聞くと、母は少し間を置いてから答えた。
「そりゃ、あるわよ。いくらでも」
あっさりしていた。
あまりにもあっさりしていて、私は思わず笑いそうになった。
「あるんだ?」
「あるわよ。あんた、私を何だと思ってるの?」
いや、何だと思っているかと言われれば、なかなか説明が難しい。
とりあえず、普通の母親ではないことだけは確かだ。
「でもね」
母は続けた。
「後悔したって、もう戻れないじゃない」
……そうだね。
それは、そうだ。
「だから、これからのことを考えるのよ」
私は、返事をしなかった。
電話の向こうで、母はきっといつものように天井でも眺めているのだろう。
入院したばかりの母が、何を考え、何を感じているのか。
私には、まだ分からない。
ただ、母は病気になってから、少しずつ変わっているような気がした。
いや、変わったというより、今まで見せなかった部分が表に出てきたのかもしれない。
人は、死を意識すると変わるのだろうか。
それとも、今まで後回しにしていたことを、後回しにできなくなるだけなのだろうか。
「ねぇ、あんた」
母の声で、私は我に返った。
「はい?」
「今度来るとき、何かおいしいもの買ってきて」
……。
「お母さん、病院食は?」
「食べてるわよ。でも、たまには違うものが食べたいじゃない」
さっきまでの話はどこへ行った。
私は、思わずため息をついた。
「はいはい。考えておきます」
「よろしくねー」
そう言って、母は電話を切った。
私はスマートフォンを見つめたまま、しばらく動かなかった。
病院は孤独死しないからいい。
母はそう言った。
けれど、きっとそれだけではないのだろう。
人がそばにいること。
自分のことを気にかけてくれる人がいること。
そして、これからのことを考える時間があること。
母は今、そんな当たり前のことを、ひとつずつ確かめているのかもしれない。
……いや。
次に会ったら、何を買っていけばいいのか。
それを考えるのが先かもしれない。




