第8話 思考停止
考えすぎる娘と、考えることを放棄した母がリビングにいた。
私は母に、今の癌の状況や治療法について話した。
最新の論文で見つけた内容や、他の治療の選択肢についても伝えた。
調べられることは調べたし、少しでも生き残る可能性があるなら知っておきたかった。
だが、母は聞いていないようだった。
いや、正確には聞こえてはいるのだろう。
ただ、その内容を受け止める余裕がなかったのかもしれない。
母は私が話し終わる前にすっと立ち上がった。
そしてキッチンへ向かい、焼酎のロックを慣れた手つきで作る。
氷を入れ、焼酎を注ぐ。
その一連の動作だけは妙に滑らかで、きっと身体が覚えているのだろうと思った。
そうして観察していると、グラスを持ったまま母は自室へ戻っていった。
少し開いたままの扉の向こうで、またテレビがついた。
テレビをつけると、バラエティ番組が流れている。
俳優なのかコメディアンなのか分からないが、若い男性が絶叫し、スタジオからは大きな笑い声が響いている。
テレビは賑やかだった。
それなのに、その部屋だけが妙に静かに感じた。
聞こえてくるのは、グラスの中で氷がカラカラと転がる音だけだった。
その音が妙に寂しく聞こえた。
しかし、少し離れたところに、私はいて、母を見守っている。
話しかければ返事も返ってくる距離だ。
それなのに、母はひどく孤独な場所にいるように見えた。
きっと一人の世界に閉じこもっているのだろう。
私は母が生き残ることを前提に動いていた。
情報を集めて、整理して、可能性を探した。
Aパターン。
Bパターン。
Cパターン。
「さあ、どれを選ぶ?」
そんなふうに選択肢を並べ、自分では随分役に立っているつもりだった。
まるで仕事のできる社員にでもなった気分だった。
だが、どうやら上司は机に座ったまま動こうとしない。
資料を渡しても読まない。
説明しても反応が薄い。
仕事に取り組む気配もなく、ただぼんやりしている。
そんな上司には、そもそも私が優秀かどうかを判断する知識すらない。
おそらく母から見れば、私はただうるさく喋り続ける何かだったのだろう。
私からしてみれば、防音室の外から必死にノックしているような気分だった。
「もしもーし! 聞こえますかー!」
そう叫んでいるのに、中の人には届いていない。
少し聞こえたとしても、その意味までは理解できない。
「何か音がするなぁ」
その程度の反応に見えた。
それでも私は話しかけ続けることにした。
今は届かなくてもいい。
今日理解してもらえなくてもいい。
同じことを何度も伝えていれば、いつかどこかで耳に残るかもしれない。
「あれ、前にも聞いたことがあるな」
そう思う日が来るかもしれない。
そこから少しずつでも興味を持ってくれればいい。
だから私は、この思考停止した人に声をかけ続けることにした。




