第76話 大人のおもちゃプレゼント。母の第一声。
病室に入ると、母はベッドの上でスマートフォンをいじっていた。
私が入ってきたことに気づくと、こちらをちらりと見た。
「遅っ。ちゃんとシャンパン買ってきた?」
第一声がそれか。
こっちは大変だったんだぞ。
秋葉原で何階もある大人のおもちゃ屋をさまよい、店員さんに助けられ、挙げ句の果てには病院の近くのカフェで紙袋を忘れかけた。
そして今、警備員に止められ、看護師さんにも怪しまれながら、ようやくここまでたどり着いたのである。
「……買ってきたけど。なに見てるの?」
「アラン様。いやぁ、この人普通に話せるのね。」
なんだか知らないが、インフルエンサーとか、芸能人とか、そういう類の人の動画を見ていたらしかった。
「それで、シャンパンは?」
「買ってきたよ」
私は右手に持っていた赤い袋を掲げた。
母の目が、ぱっと輝いた。
「おおー。流石、私の娘だわ。」
流石って。私はがん患者の入院初日にシャンパンを差し入れるなんて私の案じゃないし、反対ですよ。
「何?もう一個あるの?」
黄色い包装紙とリボンに包まれた、もうひとつの紙袋を母は指差す。
「あぁ、これね。はい、どうぞ。」
なんの迷いもなく紙袋を私は母に差し出す。
母は袋を受け取り、黄色いリボンを丁寧に剥がし、包装紙を剥がし、中身の「ソレ」を見た。
母は「ソレ」じっと見た。
そして、首をかしげた。
「……何これ?」
何これ、じゃない。
あなたが欲しいと言ったものだ。
正確には、あなたが欲しいと言った「欲求を満たせそうなヤツ」を、私が勝手に解釈して買ってきたものだ。
「ほら、前に言ってたじゃない。欲しいものがあるって」
「言ったかしら?」
言ったよ。
ものすごく言ったよ。
私は、母の記憶力に期待してはいけないことを、またひとつ学んだ。
しばらく沈黙が続いた。
私は母の顔を見た。
母は商品をまた見た。
もう一度、私の顔を見た。
「……あんた」
「はい」
「変な形のブラシだね?」
「違うよ。なんか使い方わかんないけど、ちゃんと読んで。」
店員さんの説明も、半分くらいしか理解できなかった。
それでも、母が欲しいと言ったものだと思い込んで、必死に買ってきたのだ。
こんなに懇願していたなら、きっとこれが何かわかるはずだ。
「私、こんなの欲しいなんて言った?ブラシいらないよ。…てかあんた、これブラシじゃなくない?」
言った。
いや、言っていない。
どっちだ。
もう、私にも分からなくなってきた。
母は商品を持ち上げ、角度を変えながら眺めていた。
そして、ぽつりと言った。
「……これ、病院で使っていいの?」
知らない。
本当に知らない。
私は主治医に確認するつもりなど、最初からなかったのだから。
「……先生に聞いてみたら?」
「なんで私が聞くのよ」
いやいや、なんで私が聞くんだよ。
そう言いたかったが、私はもう何も言わなかった。
母は、黄色い包装紙をきれいに畳んで、枕元に置いた。
そして、赤い袋に入ったシャンパンを見て、満足そうに笑った。
「よくわかんないし、あとで先生に使って良いか聞くわ。」
シャンパンは聞かないけど大人のおもちゃを使って良いかどうかは医師に確認するらしい。
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく理解した。
今日一日、私が必死に悩んでいたことは、母にとっては、たぶんその程度のことだったのだ。
私はベッド脇の椅子に腰を下ろした。
疲れた。
本当に、疲れた。
けれど、母はいつもどおりだった。
いつもどおり、勝手で、遠慮がなくて、こちらの苦労など少しも気にしていない。
私は母の顔を見た。
まぁ、思ったより喜んでもらえなかったが、シャンパンを美味しそうに飲んでいる。
バレて怒られるのは時間の問題だろう。
母は棚からシャンパングラスをもうひとつ取り出して、私に飲むように促した。
私は丁寧に断った後、目の周りをマッサージしながら天井を見上げた。
深いため息が、自然と溢れ出た。




