第64話 入院の日の朝
母には、10時の入院に間に合うように、8時には家に行くと伝えていた。
しかし、「口紅しか持っていかないから別にいい」とだけ言われたので、結局、迎えには行かず、病院で待ち合わせることになった。
息子には母が入院することを伝えようとしたが、今朝はかなり機嫌が悪かったため、伝えるのを諦めた。
夫もけろっとした顔で、いつもどおり出社した。
恐れていたよりもあっけなく、入院の日は訪れてしまった。
手続きもスムーズに進み、母は入院して早々、治療を受けることになった。
まずは放射線治療からだ。
放射線治療は、がんの三大治療の一つと言われているらしい。X線や粒子線などの高エネルギーの放射線をがんの病変に照射し、がん細胞のDNAに損傷を与えることで、細胞を死滅させたり、増殖を抑えたりする治療法だそうだ。
難しいことはよくわからない。
ただ、かさぶたのようになると聞いたこともある。
放射線治療には、臓器を温存できるというメリットがある。また、がんを完全に消して治すことを目指す「根治的照射」と、骨転移による痛みなどの症状を和らげる「緩和的照射」があるそうだ。
母の場合は、前者だった。
放射線治療についての説明を受ける母を、私はじっと立ったまま眺めていた。
改めて、母はがん患者なのだなぁと思い知った。
病室は大部屋だった。
カーテン一枚で区切られたその向こうには、3人の人がいる。
男性も女性もいる。
あまり話す気になれなかった。
言葉を選ばなければならない。
誰かが鼻をかむ音が聞こえる。
カーテン一枚しか隔てていないせいか、まるで母に会いに来た人がもう一人いるのではないかと錯覚するほど、すぐ近くに人の気配を感じた。
「どう? 緊張する?」
「いやぁ、別にぃ」
そう言うと、母はバッグから口紅を取り出した。
真っ赤な口紅だ。少し酸化したようなにおいがする。
「えっ、お化粧なんていいの? てか、それいつ買ったの……?」
「いいのよ。たとえ病院でもね、自分が女であることを忘れてはダメよ。自分のテンションが上がるからね。それから……」
なんだか嫌な予感がする。
「将来有望な医者の卵を見つけるのよ」
やっぱりなー。大体そんなことだろうと思ったよ。
そう思い、呆れて天井を見上げた。
周りの空気はシン……と、完全に静まり返っている。
聞こえただろうな。




