第60話 次の通院はいつですか?
「そういえば、この間通院予定だった日って、大雨で行けなかったよね。次はいつなの?」
母はきょとんとした顔をしながら言った。
「え? 明日だけど。」
私も思わずきょとんとしてしまう。
「え? 私、何にも準備してないよ。待って。何時?」
「13時。」
「13時か……。じゃあ息子も保育園に行ってるし、大丈夫だな。」
「うん。それで今日さ、この入院の手続き書類を書いてもらおうと思って。」
そう言うと、母は百貨店の紙袋を二つ、エレベーター前の椅子に置いた。
そして突然、バッグの中をガサゴソと探り始める。
「あー、どれだっけ。字が見えん。」
そう言いながら書類を探していたはずの手は、いつの間にか別の場所をガサゴソしていた。
近くにいた若いカップルが、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「大丈夫ですか? 落とし物ですか?」
ほわほわした雰囲気の優しそうな女性が声をかけてくれた。
「違うのよ、違う違う。老眼鏡がないのよ。字が読めなくてさぁ。もうどの書類探してたのかも分かんなくなっちゃって。いやーねぇ、もう。」
私は女性に向かって、
「すみません、すみません。」
と、なぜか謝った。
カップルは苦笑いを浮かべながらエレベーターへ乗り込んでいった。
すると母がぶつぶつ言い始めた。
「何、あのアベック。感じ悪いわね。『あ、そうですかー。じゃあさようならー。』とか言えないのかしら。」
いやいや。
もし本当に
「あ、そうですかー。じゃあさようならー。」
なんて言われたら、今度はそれはそれで怒るだろう。
優しさで声をかけてくれた二人に申し訳なく思いながら、私は少しだけ母にがっかりしてしまった。
でも、がっかりするということは、どこかで母に期待しているということなのかもしれない。
あ、いけない。
そんなふうに考えてはいけない。
「お母さん、手伝おうか。」
「あー、お願いお願い。あんたに見てもらった方が早いわ。」
そう言ってバッグの中身を一緒に確認していると、見慣れたものが目に入った。
「……ねぇ、お母さん。なんで回覧板持ってきてるの?」
「は?」
母は固まった。
「え? 回覧板……?」
数秒後。
「あーっ!! 大変!! 私、忘れちゃったんだわ! 回覧板回さなきゃ!!」
「分かった、分かった。回覧板は帰ったら回そう。」
私はそう言いながら書類をめくる。
「あ、これじゃない?」
「見せて。」
母は書類を覗き込んだ。
「あー! そうそう、それそれ! 助かったー。」
そして当たり前のように続ける。
「明日必要だから、ちゃちゃっと書いちゃって。」
「え?」
私は固まった。
「明日出すの?」
「そうよ。」
母は不思議そうな顔をしている。
「何とぼけてるの、あなた。明日でしょう、入院。」
私は思わず叫んだ。
「聞いてないーーーーーーー!!」
へなへなぁ……。
まるで昭和の漫画のワンシーンみたいに、私は椅子へ崩れ落ちた。
「はぁ? お母さん、明日入院するの?」
「そうよ。しっかりしてよ。」
いやいや。
あんただろうがッ!
呆れと怒りでどっと疲れた。
でも今思えば、がんだと告知されてから三か月以上が経っていた。
ようやく治療が始まる。
そう考えると、良かったのかもしれない。
たまたま私は明日時間を作れるし。
不幸中の幸いだった。
でも、母がついに入院するのか。
これから忙しくなるなぁ。
そんなことを考えながら、私は入院に関する書類とパンフレットを一枚ずつめくった。




