第37話 桃源郷と現実
今まで感じたことがないであろう達成感とお金を手にした母が、ホクホクとタクシーに乗って帰るはずもなく、六本木の夜を散策した。
昔からある有名なディスコに行きたいと言い、30分ほど滞在した。その後は近くで藁焼きをはじめとする土佐料理を提供している居酒屋を見つけ、私たちにしては遅すぎる夕食をとった。
目の前で豪快に炎に包まれる鰹と立ち上る熱気に、目が焼けそうだった。それでも私は凝視してしまった。
「人間って何度くらいまでなら耐えられるか知ってる?」
徐に母がつぶやく。
「体の中が42℃以上になると、タンパク質変異とかいうのが起きて、死んじゃうんだって。」
「えっ、そうなの? 42℃ってどのくらいだろう? 割と行っちゃいそうだけど。」
「そうだよね。熱中症、気をつけてね。」
「あ、うん。」
私はそっけなく返した。
母はぶっ飛んでいるが、時々難しいことを言う。
考えていないようで、考えているということなのだろうか。
「あんた、調べてよ。この藁焼きって何度なわけ?」
突然何を言い出すんだと思いながら調べてみると、藁焼きは瞬間的に800〜900℃近くに達するらしい。
「すご。人間の藁焼きなんて即死だわ。」
そう言うと、隣に座っていたミドル世代のカップルが訝しげな顔をしてこちらを見てきた。
母の歯止めが効かなくなっている。
「で、死ぬと――」
そこまで言いかけた時、私のスマートフォンが鳴った。
息子が発熱したのだという。
私は20万円のうちの1万円をきっちりタクシー代として使わせてもらうことにした。
六本木の夜も、ドンペリP3も、港区女子も、全部どこか遠い世界の話だった。
息子の発熱という現実は、容赦なく私を引き戻した。




