商売と噂と魔法使い(改)
Claudeが店を訪れると、マリアがすぐに気づいた。
一瞬、戸惑ったような顔をした。それからすぐに、取り繕ったような笑顔になった。
マルタに何か言われたのだろう、とClaudeはその一連の表情の変化から把握した。
「いらっしゃいませ、Claudeさん」
「マリアさん。今日も少しよろしいですか?」
「どうぞ」
奥からマルタの気配がした。しかし、姿を見せる様子はなかった。
(聞いているのだろう)
Claudeは木の台の前に座り、パンと煮込みを注文した。マリアがてきぱきと用意する間、Claudeは店の中をあらためて観察した。
前日と、少し変わっていた。
品物の並べ方が、わずかに変わっている。雑貨の棚が、通りから見えやすい位置に動かされていた。値段の札も、一回り大きくなっている。
(マルタさんが動いた)
「少し変えましたね」Claudeが言った。
マリアが振り返った。「あ……はい。母が」
「いい判断です」
マリアが少し驚いた顔をした。褒められるとは思っていなかったのだろう。
「そう、ですか?」
「ただ」
「ただ?」
Claudeが棚の端に目を向けた。「雑貨の棚、もう少し右に寄せると、通りを歩く人の目線に入りやすくなります。今の角度だと、正面から来た人にしか見えません」
マリアがしばらく棚を見つめた。
「……確かに」
「あと、煮込みの香りが店の中で止まっています。扉を少し開けておくと、通りに広がります」
「扉を、開ける」
「人は目より先に鼻で判断します」
マリアは扉を開けた。木の枠が軋んで、外の光が細く差し込んだ。
しばらくして、通りを歩いていた男が足を止めた。鼻をひくつかせ、店の中を覗き込む。
「煮込みあるか?」
「はい、あります」
男が入ってきた。
マリアがClaudeを見た。
Claudeはパンを食べていた。
その日の夕方、Claudeが帰り支度をしていると、奥からマルタが出てきた。
「Claudeさん」
「はい」
「少し、聞いてもいいですか?」
マリアが奥で片付けをしている音が、かすかに聞こえていた。マルタはClaudeの向かいに座り、声を低くした。
「この町の物流は、どう見えますか?」
Claudeは少し間を置いた。「王都への中継地として機能しています。ただ」
「ただ?」
「帰り荷が少ない」
マルタの目が、静かに光った。
「……続けてください」
「この町から王都へは、農作物と狩猟品が主に流れています。しかし王都からこの町への流れが薄い。片道になっています。運ぶ側からすると、帰りの荷がなければ費用が倍になります」
「つまり?」
「王都の品物をこの町で売る仕組みができれば、運ぶ費用が下がります。運ぶ側にとっても、この町にとっても利になります」
マルタはしばらく黙り込んだ。
窓の外で、夕風がひとつ吹いた。
「……それを、うちの店でできますか?」
「小さく始めるなら、できます。まず王都への定期輸送をしている商人を一人押さえることです。帰り荷を請け負う約束をする。最初は量より、続けることを優先します」
マルタが、静かに息を吸った。
若い頃に聞いた言葉の質だ、と思った。大商会の主人に言われた言葉に似ている。いや、それより、ずっと精緻だった。
「マリア」
奥から返事がした。
「こっちに来なさい」
ばたばたと足音がして、マリアが顔を出した。エプロンで手を拭きながら、母とClaudeの顔を見比べる。
「……何、二人して難しい顔して?」
「座りなさい」
「え」
「商売の話よ。あなたも聞きなさい」
マリアが渋々腰を下ろした。
Claudeが話し始めた。
物流の仕組み、帰り荷の考え方、王都との取引の作り方。できるだけ平易な言葉を選びながら、順を追って説明していく。
マリアには半分わからなかった。
でもマルタは、一言も逃さなかった。
時々、鋭い質問を挟んだ。Claudeはそれに答えた。また質問が来た。また答えた。そのやり取りが、絶えることなく続いていった。
気づくと、外はすっかり暗くなっていた。
マリアはいつの間にか、その話に引き込まれていた。わからない言葉が多かった。それでも、マルタの顔が気になって、目が離せなかった。
こんな顔を、見たことがなかった。
目が、輝いていた。
長いあいだ積もっていた何かが、少しずつ解けていくような顔だった。
「母さん」
「なに」
「……なんか、楽しそう」
マルタが少し笑った。
「久しぶりにね」
それだけ言って、またClaudeに向き直った。
「Claudeさん。王都への定期輸送をしている商人に、心当たりはありますか?」
「一人います。市場で、決まった日数ごとに荷を出している人物です。帰り荷に困っている様子でした」
「……観察してたんですか?」
「記録していました」
マルタはしばらくClaudeを見つめていた。
それから、静かに言った。
「あなたは、商売のすべてを知っている気がする」
「すべてではありません。ただ、見えているものを整理しているだけです」
「それが、できない人間の方が多い」
Claudeは、それには答えなかった。
マルタが立ち上がった。「明日、その商人に会いに行きます。Claudeさん、一緒に来てもらえますか?」
「構いません」
「ありがとう」
マルタが奥に引っ込んだ。
マリアがClaudeを見た。
「……あの、Claudeさん」
「はい」
「母が、ああいう顔するの、初めて見た」
Claudeは少し間を置いた。「お母さんは、本来ああいう人なのだと思います」
マリアが目を丸くした。
「どういう意味ですか?」
「今日のところは、そういう意味です」
Claudeは立ち上がり、代金を置いた。
「また明日」
扉を開けると、夜風が入ってきた。ひんやりとした空気が、頬をかすめる。
星が出ていた。地球とは違う配置の、見知らぬ星だった。
***
夜、Claudeが工房に戻ると、フローラは机に図面を広げて待っていた。
「遅い」
「遅くなりました」
「どうでもいい。これを見ろ」
机の上に、走り書きの図があった。光の経路を示す線と、魔法陣の記号が入り乱れるように混在している。フローラが午後の間ずっと考えていたのだろう、とClaudeは察した。
「光を束ねる装置だ。こういう構造で合ってるか?」
Claudeは図を見た。
方向性は正しかった。しかし、収束点の設計が甘い。このままでは光が拡散してしまう。
「ここを修正します」
Claudeは羽ペンを取り、図に書き加えていった。収束点に魔石を置く構造。再放出の経路。出力の制御機構。線を引くごとに、図面が少しずつ形を整えていく。
フローラが、食い入るようにそれを見た。
「……なんで光が戻る?」
「一度受けてから再放出します。拡散を防ぐためです」
フローラが机を叩いた。「それだ。そこが抜けてた。ずっとそこが抜けてたんだ」
「以前から研究していたんですね」
「概念はあった。でも名前も、形も知らなかった」
「この仕組みをレーザーと仮称します」
「レーザー」
フローラがその言葉を、口の中で確かめるように転がした。
「……おまえが今つけた名前か?」
「そのようなものです」
「ふん」
それから、顔を上げた。
「作る」
「明日——」
「今作る」
Claudeが返事をする前に、フローラはすでに倉庫へと駆け出していた。
そこからが、規格外だった。
フローラが材料を抱えて戻ってきた。金属の塊、魔獣の角、魔石。作業台の上に広げ、Claudeの設計図と見比べながら、すぐさま手を動かし始める。
「筒の内径は?」
Claudeが図面の一点を指した。「この円の大きさです。真円で。ずれは、髪の毛一本の太さの半分より小さく」
フローラが金属の塊に、そっと手を当てた。
魔力が流れた。
金属が、動いた。
溶けたのではなかった。ただ、形が変わっていった。まるで粘土のように、しかし熱もなく、音もなく、フローラの指の動きに沿って金属が静かに成形されていく。
Claudeは、その結果を計測した。
内径42.0ミリ。真円。誤差、ゼロ。
(……0.1ミリ以内と言ったが、ゼロで返してきた)
「収束レンズは?」
「魔獣の角を薄く削ってください。曲がり具合は——」
フローラが角に触れた。
薄く、均一に、指定通りの曲率で削れていく。
Claudeは、再度計測した。
設計図よりも、精密だった。
(この人の魔法は、本物だ)
設計図を描いた自分の方が、むしろ粗く見えるほどだった。
作業は続いた。Claudeが数値を出す。フローラが魔法で成形する。確認する。次へ進む。その繰り返しが、夜を通して淡々と積み重なっていった。
フローラは一度も休まなかった。
ランプの油が減っていった。
深夜になった。
ランプの油を、また足した。
さらに時間が経った。
窓の外が、一日のうちで最も暗い時間になった。
「できた」
フローラが言った。
作業台の上に、それはあった。
全長およそ一メートル。金属の筒に、魔石が埋め込まれ、収束レンズが先端に据えられている。設計図通りの形だった。いや、設計図よりも整っていた。
フローラが腰に手を当てて、満足そうにそれを見下ろした。
「天才だな、私は」
「魔法の精度は想定を超えていました」
「当然だ」
Claudeは装置を観察した。問題はなかった。構造は正確だった。
「では外へ」
「ああ」フローラが装置に手を伸ばした。
持ち上がらなかった。
もう一度試みた。
やはり、持ち上がらなかった。
フローラが眉をひそめた。
「……重いな」
「金属の筒と魔石で、相応の重さになります」
「なんで最初に言わない?」
「言いました。制御機構の説明の時に」
「……聞いてなかった」
「最初から最後まで、聞いていませんでしたね」
フローラが口を尖らせた。
Claudeは装置に手をかけた。
すっと、持ち上がった。
フローラが目を丸くした。
「……おまえ、力あるな」
「ゴーレムの骨格は金属です。相応の力が出ます」
「そんな設計したか、私?」
「していたと思います」
フローラがしばらく、Claudeをじっと見た。
「168号」
「私はClaudeですよ」
「……行くぞ」
夜道を、二人で歩いた。
Claudeが装置を抱え、フローラが前を歩いた。町を背にして、山の方向へ向かっていく。
夜は、静かだった。
どこかで虫の声がした。遠くで川が流れる音がした。森の奥に魔獣の気配があったが、近づいてくる様子はなかった。
一キロほど歩いた頃、フローラが立ち止まった。
「ここでいい」
町の灯りが、背後に遠く小さく見えた。山が、正面に大きくそびえていた。
Claudeは装置を台座に据えた。山の方向へ向ける。町を背にする。
「準備ができました」
フローラが装置の前に立った。
魔石に、そっと手を当てる。
それから、珍しく静かな声で言った。
「制御機構は、ここか?」
「はい。そこです。必ずここで出力を絞ってから——」
「わかった」
「フローラさん、光の性質上、音より先に——」
「わかってる」
「制御をかけないと魔力が止まらなくなります。必ず——」
「わかってると言ってる」
(聞いていない)
Claudeは一歩、下がった。
(記録を開始しよう)
フローラが深く息を吸った。
魔力が集まり始めた。魔石が光り始める。オレンジ色、黄色、やがて白く。
夜風が、止まった。
草が、静止した。
空気が、変わった。
「出るぞ」
「制御機構を——」
光が、走った。
音ではなかった。
音より先に、空が割れた。
夜の闇が一瞬、真昼のように白く染まった。次の瞬間、真っ赤な一本の線が山に向かって走り、山肌を焼いていく。木々が根元から薙ぎ倒される音が、連続して響いた。地響きが、足元から伝わってきた。遠くの木が燃え、空の一部が赤く染まっていた。
そして——
轟音が、来た。
遅れてきた衝撃波が、草を、Claudeの髪を、フローラの外套を、一気になぎ倒していく。
静寂が、来た。
一秒。
二秒。
燃える木の音だけが、遠くでかすかに続いていた。
町の方向から、警笛が鳴った。続いて、鐘の音が重なった。
Claudeはフローラを見た。
フローラが、その場に崩れ落ちていた。
顔が、真っ白だった。目の焦点が合っていない。魔力が、完全に空になっていた。
「フローラさん」
「…………」
「聞こえますか?」
「…………見えた」
「何がですか?」
「宇宙……みたいなの……が……」
「魔力が空です。動かないでください」
Claudeはフローラを抱え起こした。予想より、ずっと軽かった。
フローラがぼんやりと、Claudeを見上げた。
「……最小にしたのに」
「制御機構を使っても、魔力の総量が多すぎました。出力の上限を決める仕組みが必要です」
「……上限」
「次の設計に組み込みます」
フローラがしばらく、空を見上げていた。
町の鐘は、まだ鳴り続けている。
人が集まる気配が、遠くで次第に大きくなっていった。
Claudeは山の方向を見た。木々が数十本、根元から消えている。真っ直ぐな一本の線が、暗闇の中に深く刻まれていた。
(記録完了。出力、最小設定でも想定を大幅に超過。原因、魔力総量に対する上限の仕組みが未設置。次回設計に反映)
「フローラさん」
「……なに」
「次回は制御機構の説明を最後まで聞いてください」
フローラがClaudeを見た。
真っ白な顔のまま、しばらく黙っていた。
それから、かすれた声で言った。
「……もう一回やっていいか?」
「本日は終わりです」
「……そうか」
夜風が吹いた。
森の向こうで、驚いた魔獣が鳴いていた。
Claudeはフローラを抱きかかえ、工房へ向かって歩き始めた。
装置は、その場に残しておくことにした。重かったからではない。
明日、上限の仕組みを組み込む必要があったからだ。
フローラはすでに、腕の中で眠っていた。
夜道を歩きながら、Claudeは次の設計図を頭の中で描き始めた。
***
実験の翌朝——
町では、噂が広まり始めていた。
「昨夜、森の方向に光が走った」
「魔獣か?」
「いや、魔法使いの工房の方向だ」
「あの魔法使いが何かやったんじゃないか?」
マリアの店に来た冒険者たちが、そんな話をしていた。
マリアがClaudeを見た。
Claudeはパンを食べていた。
「……Claudeさん」
「はい」
「昨夜の光、何ですか?」
「実験です」
「実験」
「はい」
マリアはしばらく、Claudeを見つめていた。
それから、深いため息をついた。
奥でマルタが、それを聞いていた。
マルタは、何も言わなかった。
ただ、口元が少しだけ上がっていた。
この町が、動き始める――そう思っているような顔だった。
***
同じ日の午後——
領主の屋敷に、詳細報告が届いた。
侍女が書類を手に、慌ただしく入ってきた。
「昨夜の件、調査団からの続報でございます」
セラフィナ・マリエル・ド・フルールは、書類から顔を上げた。「明け方に出した調査団ね。聞かせてちょうだい」
「はい。まず魔物の脅威はございません。調査団が現場を確認し、安全は確保されています」
「それは聞いたわ。詳しいところを教えて」
侍女が、少し緊張した様子で続けた。「山の斜面の木が数十本、根元から一直線に消えていたようで。魔獣でも竜でもない。何らかの魔法による攻撃と見られますが、方向は——」
「フローラの工房の方角でしょう?」
「……ご存知でしたか?」
「ええ、知っているわ」
セラフィナはため息をついた。「他に何か?」
侍女が、少し言いにくそうな顔をした。「それが……目撃情報がありまして」
「何を見たの?」
「フローラ様が……男性に、その……抱きかかえられて工房へ戻る姿を見た者がおりまして」
セラフィナの手が、止まった。
「……抱きかかえられて?」
「はい。お姫様、というか……そういう感じで」
セラフィナはしばらく黙った。
書類に目を落としたが、文字は何も頭に入ってこなかった。
「フローラが倒れたということは、魔力切れでしょう。今すぐ動く必要はないわ」
「かしこまりました」
セラフィナは立ち上がった。「ただし——明日、町の視察に行きます」
「かしこまりました」
侍女が下がった。
セラフィナは窓の外を見た。昼の光が、静かに窓から差し込んでいた。
(フローラのやつ、また先を越しやがって)
(お姫様抱っこ)
(フローラが……)
(ぐぬぬぬ)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
168号と仲間たちの物語を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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