石のテーブルと商人
領主邸の応接間に、それはあった。
窓際に置かれた小さなテーブル。花瓶がひとつ、その上に載っている。人の腰ほどの高さで、脚は木、天板だけが石だった。
ベルクはそこに目が止まった。
話の途中だった。領主セラフィナとの商談——穀物の取次、布の仕入れ、馬の融通。トイレ事業が終わってから、ベルクは決まった日ごとにこの部屋に通されるようになった。それまでは町の商人止まりだった。今はここに座れる。
「……これは!」
思わず口に出ていた。
「何かありましたか?」
セラフィナが静かに聞いた。
「この卓の天板、石ですか?」
「そうです」
ベルクは立ち上がった。失礼します、と一言添えて、テーブルに近づいた。
手を置いた。
ざらつきがない。石を削ったものとは違う。切った断面だ。しかも均一に。指先で端を確かめた。直角が出ている。脚の木組みも見た。継ぎ手が複雑に組まれていて、釘が見当たらない。石と木が、寸分の隙間もなく収まっている。
ベルクは顔を上げた。
「職人の仕事ですか?」
「石工と大工の共同作品と聞いています」
セラフィナはそれだけ言った。
ベルクは天板をもう一度見た。
わかった。あの工房だ。間違いない。
ヴァルターもレオンも顔を知っている。自分も、あの現場にずっといた。
なのに、この話は聞いていなかった。
石を切る。あの工房で、そんなことができるようになっていたのか。
商談の残りを終えた。数字はいつも通りだった。
馬車に乗り込んで、ベルクは背もたれに体を預けた。
思い返せば、最初はただの昼飯だった。
いつもの店で食べていたら、離れた席が騒がしくなった。Claude、副団長、魔法使い。三人が何やら話し込んで、早々に立ち上がった。血相を変えていた。
マリアに聞いた。「さっきのClaudeさん、何があったんだ?」
マリアは少し首を傾げた。「よくわからないですけど、領主様にトイレを相談するって——」
トイレ。
その一言で、ベルクは匙を置いた。
数日後、また昼を取っていたら、Claudeがマリアと話していた。聞き耳を立てた。工事が始まった、材料が足りない、と言っていた。
その日のうちに、石灰石と砂の納品を取り付けた。それを口実に、領主邸へ乗り込んだ。工事が始まって三日目のことだ。誰に頼まれたわけでもない。
納品を終えても、帰らなかった。
職人が動いていた。材料が足りない、人手が足りない、段取りが回っていない。ベルクは職人の横に立った。「私は商人です。何かお役に立てますか?」
それだけだった。
次の日も来た。その次の日も来た。気づいたら領主様とも話していた。現場の職人とも顔なじみになっていた。使いの手配、材料の調達、人の手配。動きが速かった。こんな現場は久々だった。人を呼ばなければ、と思った。呼んだ。来た。動いた。
あの「壮絶な三十日」が終わった時、ベルクは領主邸に通う商人になっていた。
なのに、石のテーブルの話だけ、知らなかった。
ただし——まだ誰も押さえていない。自分も含めて。
「ちょっと待て」
御者が手綱を引いた。
「フローラ・バレンティの工房に寄れ。今すぐだ」
「商談の予定は——」
「ない。向かってくれ」
馬が向きを変えた。
工房までそう遠くない。着けば何かわかる。Claudeがいるかもしれない。ヴァルターかレオンがいるかもしれない。話を聞けばいい。それだけでいい。
ベルクは窓の外を見た。町の屋根が流れていった。
***
フローラ・バレンティの工房は、町外れの石造りの建物だった。
馬車を降りて、ベルクは正面に立った。扉まで数歩の距離だった。
一歩踏み出した。
何かに、止められた。
壁はない。柵もない。しかし足が前に出なかった。押し返されるというより、そこから先に進む気が失せる感覚だった。
結界か。
ベルクは一歩引いた。なるほど、魔法使いの工房だ。そういうものか。
どうするか。
すぐに決めた。
「トイレ事業でお世話になりました、商人のベルクと申します!」
大声だった。通りに響いた。
「フローラ様にお目にかかりたく参りました! Claudeさんもいらっしゃいますか!」
沈黙だった。
風が吹いた。
それだけだった。
ベルクはもう一歩踏み出した。
——入れた。
足が止まらなかった。結界が、消えていた。そういうことか、とベルクは思った。声を聞いて、判断した者がいる。
扉の前に立った。扉を叩いた。
「商人のベルクです。突然お邪魔します」
扉が開いた。
Claudeだった。
「ベルクさん」
「Claudeさん」
「その節はお世話になりました」
Claudeが先に言った。ベルクは少し拍子抜けした。こちらが言うつもりだったのに。
「こちらこそ。あの、聞いてませんよ」
「何をですか?」
「石の卓です。あの加工、いつの間にそんなことに?」
Claudeは少し間を置いた。
「お伝えしていませんでしたか?」
「してません」
「失礼しました」
それだけだった。謝っているのか謝っていないのかわからない口調だった。
「中へどうぞ」
Claudeが扉を大きく開けた。
ベルクは中に入りながら、思った。この者は、どうも話の主導権を渡さない。さりげなく、しかし確実に。
悪くない、とも思った。
工房の中は、思っていたより物が多かった。
棚に道具、図面、石の欠片、陶器の試作品。作業台を囲むように、丸椅子と木箱が置いてある。隅に見慣れない装置がある。聞かないでおこうとベルクは思った。
フローラは作業台の前に座っていた。ベルクが入っても振り返らなかった。
「フローラ様、先日は大変お世話になりました」
「……ん」
それだけだった。
Claudeが椅子を出した。ベルクは座った。
「領主邸にお邪魔してきました。応接間に素晴らしい卓がありまして」
フローラの手が止まった。
「石と木の組み合わせで。天板の仕上がりが見事でした。石工と大工の共同作品だとお聞きしました」
「ふん。当然だ」
それ以上は何も言わなかった。
Claudeがフローラを見た。それからベルクを見た。
「寄贈されたのですか?」
「そのようです」
Claudeは少し間を置いた。「知りませんでした」
フローラも黙っていた。どうやら二人とも、領主邸に渡ったことは知らなかったらしい。
ベルクは続けた。「あの石の加工、売れます」
フローラが椅子を回した。初めてベルクの方を向いた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。あの滑らかさ、あの直角、今まで見たことがない。欲しがる者は必ずいます。値もつきます」
フローラは腕を組んだ。
「ヴァルターとレオンに話をさせてもらえませんか?」
「なぜここで確認を?」
「……は?」
「二人に直接話しかけることもできたはずです。なぜここに来たのですか?」
ベルクは少し笑った。なかなか鋭い。
「正直に言います。ヴァルターとレオンは、ここに来る前とは別の職人になっています。腕が変わった。目が変わった。あれは自分だけでなれるものじゃない」
Claudeは黙って聞いていた。
「フローラ様が起点だと思っています。何かの知恵があった、あるいは道具があった。二人はそれで変わった。だとすれば——商売の話をするなら、まずここに来るべきだと判断しました」
工房が静かになった。
フローラがベルクをじっと見た。
「なるほど」Claudeが言った。
一言だった。しかし、認めている声だった。
ベルクは続けた。「違いますか?」
「……大筋は合っています」
フローラは何も言わなかった。ただ腕を組んだまま、ベルクを見ていた。その目が、少しだけ変わった気がした。値踏みから、別の何かに。
ベルクはそれを見逃さなかった。




