石工
町でその話を聞き始めたのは、いつ頃からだろうか。
大工のヴァルターが、娘ほど年の離れた魔法使いの工房に毎日通っているらしい。
最初は笑い話だった。
「あの仏頂面のヴァルターがか」
「毎日だぞ、毎日」
「で、陶器のイグナーツまで行き始めたらしい」
「強面の職人がそろってもてているのか?」
「もてているというか……なんというか」
「そばにClaudeとかいうのがいるんだろう? 顔がいいらしいじゃないか」
「職人じゃ無理じゃないか」
「いや、そういう話じゃないらしい」
「じゃあなんだ」
「トイレを一緒に作ったんだろう。あの領主邸の。職を越えた絆が生まれたんだそうだ」
「絆……」
「おじさんにもてる魔法使い、ってことか?」
誰かが笑った。誰かが否定した。話はそのまま尾ひれがついて広がった。
石工のレオンはその話を、現場で聞いた。槌を振りながら、聞き流すふりをして、全部聞いていた。
***
行きたい、とレオンは思っていた。
しかし行けなかった。
理由は単純だった。状況がわからなかった。ヴァルターがいる時に行って、鉢合わせになったら気まずい。イグナーツもいたら、自分が場違いになる。魔法使いの工房というのがそもそもどういう場所なのか、想像がつかなかった。
石工に、魔法使いの知り合いはいない。
普通はいない。
レオンは槌を振り続けた。
石を割る。意図した通りに割れることは少ない。石には理がある。理に沿って割れる。しかし理は目に見えない。読めない時は読めない。その時、石は職人の思い通りにならない。
それが石工の仕事だった。ずっとそうやってきた。慣れていた。しかし慣れているということと、満足しているということは違う。
***
ヴァルターと話す機会が来たのは、ある現場でだった。
同じ建物の工事に入っていた。石工と大工、それぞれの仕事がある。
レオンはヴァルターを見て、止まった。
顔つきが違った。
何が違うのか、うまく言えなかった。しかしはっきり違った。以前のヴァルターは仕事をする顔をしていた。今のヴァルターは何かを確かめる顔をしていた。
腰に金属の道具を差していた。見たことがない形だった。
L字に曲げた金属の板だった。
ヴァルターはそれを部材に当てた。ぶつぶつと何かを言いながら、確かめていた。
レオンは、近くにいた大工仲間に聞いた。
「最近うるさいんだよ。曲がっているとか、隙間が大きいとか。今まで通りにやっていたら文句を言われる」
仲間は肩をすくめて、続けた。「でもな、完成すると、信じられない位……違うんだ。品がある」
レオンはヴァルターを見た。
夕方、仕事が一段落した時に声をかけた。
「少し聞いていいか?」
ヴァルターは振り向いた。
「何だ」
「変わったな。何かあったのか?」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
それから腰のさしがねを外した。レオンに見せた。
「これを手に入れた」
レオンはそれを受け取った。目盛りを指で辿った。
「……細かい」
「一厘まで刻んである」
「一厘」レオンは目盛りを見た。「これは……誰が作ったんだ?」
「魔法使いだ」
レオンはヴァルターを見た。
「フローラ殿か?」
「ああ」
「……なぜお前に?」
ヴァルターは少し間を置いた。
「毎日行っていたら、くれた」
「……なんで?」
「おまえが毎日来る方が迷惑だ、それで払いは十分だ、と言われた」
「……それはどういう意味だ?」
「俺もよくわからん。しかし、もらった」
ヴァルターはさしがねを受け取り、腰に差し直した。
「金を貯めている」
「何のために?」
「領主邸のトイレの、扉と壁の一部をやり直させてもらいたい。自分の費用で」
レオンは止まった。
「……あのトイレをか? みんなで作ったあれをか?」
「ああ」
「なぜだ? あれは十分すごかっただろう」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
「確かにすごかった。でもな、あれは師匠の精度に、俺がついていっただけだ」
「師匠?」
「あの道具を渡された。道具が言っている。超えてみせろ、とな」
レオンは少し間を置いた。
「……師匠というのは?」
「魔法使いだ」
「フローラ殿が、お前の師匠か?」
「俺が勝手にそう呼んでいる」
ヴァルターは、腰のさしがねに手を当てた。
「甘いかもしれんがな。あのトイレを、俺の技術で越えてみたい。そこからが新しい出発点になりそうでな」
レオンには意味がよくわからなかった。
魔法使いが大工の師匠。しかも娘ほどの年齢の。無償で道具を渡した。それだけで、この男は師匠と呼んでいる。
「……何を言っているのかよくわからんが。お前が変わったのはわかった」
ヴァルターは頷いた。
「悩みがあるなら、あそこへ行け。俺はそこで解決した」
「俺の悩みは石工の話だ」
「関係ない。意地を捨てて行け。損はしない」
レオンはしばらく考えた。
石を割る。理に沿って割れる。しかし理は読めない。
ずっと、それが悩みだった。しかし誰にも言えなかった。石工の悩みを、魔法使いに相談するなど、考えたこともなかった。
しかしヴァルターが変わった。
それは確かだった。
「……行ってみる」
「後悔しない」
それだけ言って、ヴァルターは道具を片付け始めた。
レオンは空を見た。
どんな顔をして行けばいいのか、まったく見当がつかなかった。
***
翌日、レオンは工房の前に立った。
しばらく立っていた。扉に手をかけては、離した。
肩には、朝の現場でついた石の粉が、白く残っていた。
扉を開けた。
中にヴァルターがいた。イグナーツもいた。Claudeもいた。フローラは作業台で何かを描いていた。
全員がレオンを見た。
フローラは顔を上げないまま言った。「……石工か。座れ」
レオンは、空いていた木箱に座った。
誰も何も聞かなかった。
ヴァルターが図面を広げていた。イグナーツが陶管の断面を見ていた。それぞれの話を続けていた。
レオンはしばらくその様子を見ていた。
これが、たまり場か。
思っていたより、普通だった。怖くなかった。ただ、職人が集まって、それぞれのことを考えている場所だった。
フローラがようやく口を開いた。まだ作業台を見たままだった。
「何の用だ」
レオンは少し間を置いた。
「石の話だ」
「聞いている」
「領主邸のトイレ工事に入っていた。石を積んだ。処理槽の壁も積んだ。自分でもよくできたと思っている」
フローラは作業台を見たまま聞いていた。
「しかし石と石の間に隙間があった。完全に合わせることができなかった。割った石の断面が荒いから、どうしても隙間が出る。それをモルタルで埋めた。埋めれば見えなくなる。しかし俺には見えている」
「続けろ」
「あの工事で、イグナーツが白い便器を焼いた。白磁器だ。あれは革命だと思った。陶器職人が陶器を越えた。あの便器を見た時、俺は石工として何をしていたのか、と思った」
工房が静かになった。
ヴァルターが図面から顔を上げた。イグナーツが陶管から目を離した。
「ずっと、石を割ることしかできなかった。石には理がある。理に沿って割れる。しかしそれは石の理であって、俺の理じゃない。割れ口は荒い。意図した通りにならない。あの白い便器を見てから、ずっと思っている。俺は割るだけなのか、と」
フローラの手が止まった。
「結論を言え」
レオンは少し止まった。
「石を、思い通りに切りたい」
フローラはClaudeを見た。
Claudeは処理した。
石を切る。
中世の石工が持つ道具は、鑿と槌と楔だ。矢穴を掘り、楔を打ち込んで割る。石の理に沿って割れる。しかしそれは「割る」であって「切る」ではない。断面は荒い。意図した形にならない。
鏡面に仕上げられた石のタイル——存在しない。機械がなければ作れない。
トイレの工事からイグナーツが白磁器を作った。陶器職人が陶器を越えた。それを見てレオンが動いた。
Claudeはそこで少し止まった。
トイレ一つが、職人たちの何かを動かした。衛生だけの話ではなかった。白い便器を見て、陶器職人は「焼き方を変えた」。大工は「道具を求めた」。そして石工は「割るだけなのか」と思い始めた。
それぞれが、自分の仕事の先を見た。
Claudeはそれを処理しながら、何かを感じていた。感じる、という言葉が正確かどうかわからなかった。しかしそれ以外の言葉が見つからなかった。
「石を切る方法を考えています。少し整理させてください」
石を切る手段。刃物——石より硬い刃物が必要。この世界にはない。熱——石は高熱で溶ける。切るのではなく溶かすことになる。
「レーザーで切れるか?」
全員がClaudeを見た。
「溶けます」
「……だろうな」
沈黙があった。
フローラは作業台を見た。何かを考えていた。
「水です」
フローラが止まった。
「……水。水……光……」
フローラは立ち上がった。Claudeの方に向き直った。
「レーザーは光を収束させて切った」
「はい」
「水を収束させれば——」
「同じ原理です。高い圧力をかけた細い水の流れは、石を切断できます。水に細かい砂を混ぜれば、硬い石でも削り取れる。熱が出ない。溶けない。切り口が滑らかになります」
フローラは少し間を置いた。
「……なぜ最初から言わない」
「フローラさんが先に辿り着くと思いました」
フローラはClaudeを見た。
長い沈黙があった。
「……まあ、いい。詰所の裏のレーザーを分解する。あの金属で、水を細く絞る口が作れる」
レオンはその会話を聞いていた。
水で石を切る。
意味はわかった。信じられるかどうかは、別の話だった。
ヴァルターを見た。ヴァルターは小さく頷いた。
「こういう場所だ」
レオンは工房を見回した。
魔法使いと大工と陶器職人と、今日から石工も加わった。
どんな顔をして来ればいいかわからなかったが、来てしまえば普通だった。
ただし、普通ではないことが次々と起きる場所だった。




