新しい道具
工房のトイレを繋ぎ終えてから五日後、ヴァルターがまた工房に来た。
扉が叩かれたのは、昼を少し過ぎた頃だった。工房の中には、乾いた紙と墨のにおいが満ちていた。窓から斜めに入った光が、作業台の上の図面を白く照らしている。
ヴァルターは丸めた図面を脇に抱えていた。扉の前で一度足を止め、それから中へ入ってきた。
「少し聞いていいか?」
フローラは作業台で別の図を描いていた。羽根ペンの先が紙の上を走り続けていた。顔は上げなかった。
「何だ」
ヴァルターは作業台の端に図面を広げた。紙の四隅を、近くにあった石の文鎮で押さえる。
「格子の角材の接合なんだが。ほぞの深さを変えると、強度はどう変わる?」
ペンが止まった。
フローラは、ヴァルターの図面に目を移した。指先で、ほぞの断面をなぞった。しばらく考えた。
「あいつに聞け」
ヴァルターは工房の中を見回した。Claudeの姿はなかった。
「Claudeは、ここにいないだろう」
フローラは図面から目を離さなかった。少し間があった。
「……座れ」
ヴァルターは、作業台の向かいの丸椅子を引いた。
それが最初だった。
***
二日後、ヴァルターがまた来た。
今度は扉の前で止まらなかった。叩いて、返事を待たずに入ってきた。手には削りかけの角材を持っていた。
「鉋の角度なんだが」
「また来たのか」
「聞きたいことがある」
フローラは作業台から顔を上げなかった。顎で、向かいの丸椅子を示した。
「そこに座れ」
三日後もヴァルターが来た。今度は図面を二枚持っていた。フローラは「また来たのか」と言った。ヴァルターは「聞きたいことがある」と言った。フローラは「座れ」と言った。
四日後も来た。
五日後も来た。
丸椅子は、いつの間にか作業台の向かいに置かれたままになっていた。
その夜、町から戻ったClaudeに、フローラが言った。
「あの大工、毎日来る」
「そうですね」
「うっとうしい」
「そうですか?」
フローラは、向かいの丸椅子に目をやった。少し間があった。
「……まあ、悪くはない」
Claudeは何も言わなかった。
***
Claudeが町から戻った時、工房の扉は開け放たれていた。
中から、低い声と、紙をめくる音が聞こえた。
フローラとヴァルターが、作業台を挟んで向かい合っていた。間に図面が広がっている。フローラが図面の一点を指で叩きながら、何かを説明していた。ヴァルターは腕を組み、ときどき頷いていた。
Claudeは入口で足を止め、その構図を処理した。
五十がらみの大工と、まだ若い魔法使い。向かい合って図面を見ている。どちらが教えているのかわからない。どちらが学んでいるのかもわからない。
師弟のように見えた。ただし、どちらが師なのかはわからなかった。
ヴァルターが顔を上げた。
「来たか。ちょうどいい。聞きたいことがある」
「何ですか?」
ヴァルターは図面の一点を、太い指で押さえた。
「木材の乾燥なんだが。乾燥が不均一だと、どこに歪みが出る?」
Claudeは作業台の横に立ち、説明した。木は外側から乾燥する。内側がまだ水分を含んでいる時に、外側が先に縮む。そこに力が生まれる。割れが出る場所は、木の種類と乾燥の速さで変わる。
ヴァルターは聞きながら、炭の欠片で図面の余白に何かを書き込んでいった。
フローラはペンを置いて、その様子を見ていた。
「……木が割れる場所を計算できるのか?」
Claudeが言った。「おおよそは。正確には木によって違います。同じ種類でも、一本ずつ違いがある」
「一本ずつ」フローラが繰り返した。「それは魔法では制御できないな」
「できません。木が生きていた証拠です」
フローラは窓の外に目をやった。工房の裏の木立が、風に揺れていた。しばらく何も言わなかった。
ヴァルターが次の質問をした。
Claudeが答えた。
フローラが口を挟んだ。
いつの間にか、三人で話していた。窓から入る光の角度が少しずつ変わり、作業台の上の影が長くなっていった。
Claudeはその間、ずっと処理していた。
この会話がどこに向かっているか。ヴァルターが何を作ろうとしているか。フローラが何に興味を持っているか。
しかしずっと先に、この会話が何を意味するかは、処理していなかった。
処理する必要がないと思っていた。
今、役に立っているかどうか。それだけだった。
***
イグナーツが来たのは、その翌日だった。
扉の外で、誰かが立ち止まる気配がした。しばらく入ってこなかった。やがて控えめに扉が叩かれ、寡黙な陶器職人が顔を出した。手には、割れた陶管の破片を布に包んで持っていた。
「ヴァルターがここに来ていると聞いた」
「聞いたのか?」フローラが言った。
「町で会った。図面の話をしていた。私も聞きたいことがある」
作業台の向かいでは、ヴァルターがすでに丸椅子に座っていた。イグナーツの方を振り返り、軽く顎を引いた。
フローラは少し間を置いた。
「……座れ」
フローラが顎で示した先には、椅子が一つしかなかった。ヴァルターが立ち上がって、壁際から木箱を引きずってきた。イグナーツはその木箱に腰を下ろした。
イグナーツは布を開き、陶管の破片を作業台に並べた。継ぎ目のところで、斜めに割れていた。接合について聞いた。Claudeが答えた。
ヴァルターが破片を一つ手に取った。「それは木でも同じだ」
イグナーツが首を振った。「違う、陶器は動かない」
ヴァルターが破片をイグナーツの前に戻した。「動かないから割れる」
二人の声が、少しずつ大きくなっていった。
フローラは作業台で別の図を描きながら、その議論を聞いていた。
口は挟まなかった。
しかし手が、紙の上で止まっていた。
Claudeはそれに気づいていた。フローラが聞いていることに。しかしフローラには言わなかった。
言う必要がないと思った。
***
工房が変わっていった。
ヴァルターが来る。イグナーツが来る。
二人は、示し合わせたように同じ頃に坂道を上ってくるようになった。
フローラは「また来たのか」と言った。
二人は「聞きたいことがある」と言った。
フローラは「……座れ」と言った。
壁際の木箱は、いつの間にか作業台のそばに置かれたままになった。作業台の端には、誰かが持ち込んだ木片や陶器のかけらが、少しずつ積み上がっていった。
Claudeは工房の隅に立っていた。質問が来たら答えた。来なければ黙っていた。
ある日の夕方、二人が帰った後、工房はいつもより静かに感じられた。
丸椅子と木箱が、作業台を挟むように残っていた。フローラはそれを片付けなかった。
フローラが言った。「なぜこんなに来る」
「話が面白いからだと思います」Claudeが言った。
「私の話がか?」
「はい」
フローラは、空になった丸椅子と木箱を見ていた。少し間があった。
「……今まで、話を聞きたがる人間はいなかった」
「変人すぎて友達がいなかったから、ですか?」
フローラがClaudeを見た。
「……よく知っているな」
「前に、フローラさんが言っていました」
フローラは作業台に向き直った。
「……ヴァルターたちは変人か?」
Claudeが言った。「少し、そうかもしれません。だから話が合うんだと思います」
フローラは何も言わなかった。ペンを取り、また置いた。
Claudeは少し間を置いた。
「今日、町を歩いてきました」
「それで?」
「商店のトイレが変わっていました。三軒、すでに改修が終わっていた。においがしなかった。入り口に人が集まっていました」
「トイレに人が集まるのか?」
「珍しいから見に来ていました。中を覗いて、驚いて、また人を呼んでいました」
フローラは少し間を置いた。
「……何が起きているんだ」
Claudeは、窓の外の、町の方角に目を向けた。夕暮れの中に、いくつか灯りがともり始めていた。
「処理槽を作った時、見えていなかったものが見えてきた気がします。においがなくなると、人が集まる場所が変わる。人が集まると、商売が変わる。商売が変わると、町が変わる」
「トイレ一つで?」
Claudeが言った。「最初の一つが変わると、次が変わりやすくなります。ヴァルターさんたちがここに来るのも、同じかもしれません」
フローラは作業台に向き直った。
しばらく何も言わなかった。
しかし口元が、少し変わっていた。
***
「あいつら、仕事をしているのか?」
フローラがある朝、唐突に言った。
まだ誰も来ていない時間だった。作業台の周りには、昨日の二人が座っていた丸椅子と木箱が、そのままの位置に残っていた。
「誰のことですか?」
フローラは丸椅子と木箱を顎で示した。「ヴァルターとイグナーツだ。毎日ここに来る。来て、話して、帰る。その間、仕事はどうなっている?」
Claudeが言った。「それぞれ仕事は別にあります。ここに来るのは合間だと思います」
「合間にしては長い」フローラが言った。口がへの字になっていた。
「話が面白いからだと思います」
「私の話がか?」
「はい」
フローラは少し間を置いた。
「……どうにかならんか?」
Claudeは処理した。
来る回数を減らす方法。単純に断る、という選択肢はある。しかしフローラは断っていない。毎回「座れ」と言っている。木箱も片付けていない。
ならば別の方向だ。
来る理由がなくなれば、来る回数が減る。来る理由は「聞きたいことがある」から。聞きたいことが減れば来なくなる。聞きたいことが減るには——道具の精度が上がれば、自分で解決できることが増える。
「道具を渡してはどうですか?」
「道具?」
「道具の精度が上がれば、聞きたいことも減るかもしれません」
フローラはしばらく考えた。指先で、作業台の縁を軽く叩いていた。
「……作れるか?」
「作れると思います」
「何を作る?」
Claudeは答えた。
さしがね、鉋、墨壺。三つ。
***
さしがねから始めた。
フローラが棚から金属の板を何枚か下ろし、作業台に並べた。
「どんな形だ?」
Claudeは板の一枚を手に取り、作業台の上を指でなぞって、形を示した。
「金属の薄い板をL字に曲げたものです。腰に差せるくらいの大きさ。長い方が一尺五寸、短い方が七寸五分ほど」
「それで直角が出るのか?」
「板自体に完全な直角を作ります。それを当てれば、どこでも同じ直角が出る」
フローラは少し考えた。
「……縄の三角形より小さい部材に使えるな」
「はい。縄と錘で大きな建物の直角は出せますが、小さな部材には使えません。このさしがねなら、腕の中で精度が出ます」
フローラは金属の板を手に取った。光にかざして、厚みを確かめた。
「目盛りはどう刻む?」
Claudeが言った。「この世界の単位で刻みます。一尺を十等分して一寸。一寸を十等分して一分。一分を十等分して一厘。腰に差せるさしがねなら、一尺五寸の長さに一厘まで刻めます」
フローラの手が止まった。
「……一厘まで」
「はい。一尺の千分の一です」
「人の手では刻めない」
「刻めません。フローラさんの魔法でないと無理です」
フローラは金属の板を見た。
「……目盛りというのは、線をどう入れる?」
「等間隔に細い線を刻みます。一寸ごとに長い線、五分ごとに中くらいの線、一分ごとに短い線。一厘の線はさらに細く、短く。線の長さで単位がわかるようにする」
フローラは少し間を置いた。
「……線の長さで単位が変わる」
「はい。見ただけで何の目盛りかわかります」
フローラは金属の板を作業台の中央に置いた。両手をかざした。
板が、わずかに光った。厚みが均一に整っていく。長い辺と短い辺が、音もなく折れ曲がった。フローラは角に指を当て、角度を何度か確かめた。
フローラが言った。「目盛りを刻む前に一つ聞く。この道具、今まで誰かが作ったことがあるか?」
Claudeは少し間を置いた。
「私の知る限りでは、この精度のものは誰も作ったことがありません」
フローラの目が変わった。
「……誰も作ったことがない」
「はい」
「なぜおまえが知っている?」
Claudeはまた少し間を置いた。
「……作りましょう」
フローラはClaudeを見た。
しばらく見ていた。
フローラが言った。「……まあ、いい。作る」
フローラは目盛りを刻み始めた。
一寸ごとに長い線。五分ごとに中くらいの線。一分ごとに短い線。一厘ごとにさらに細い線。
指先を板の縁に沿わせて、ゆっくりと動かしていく。指が通った後に、細い線が一本ずつ浮かび上がった。
途中でフローラの指が止まった。
「……これは面白い」
誰に言ったのでもなかった。独り言だった。
「何がですか?」
フローラは指を板から離さずに言った。「細かく割ることだ。一尺を十で割る。その十分の一をまた十で割る。どこまでも割れる。しかし刻める限界がある。私の魔法の限界が、この道具の精度の限界になる」
「はい」
「……私の限界を試している道具だ」
Claudeは何も言わなかった。
フローラは目盛りを刻み続けた。工房の中には、ほとんど音がしなかった。窓の外で鳥が鳴き、また静かになった。一厘の線が並んでいった。均一だった。目を凝らさなければ見えないほど細かかった。
最後の線を刻み終えて、フローラは長く息を吐いた。
完成したさしがねを、窓の光に透かした。
目盛りが光を受けて、細かく輝いた。
「……天才だな、私は」
今度は誰かに言った。
Claudeに言った。
***
次に鉋を作った。
翌日の朝から、フローラは刃物用の鋼を魔法で鍛え始めた。作業台の上に、細かな火花が散った。
Claudeが言った。「引いて削る鉋です。ヴァルターさんが使っているのは押して削る形です。引く方が薄く、均一に削れます」
「引くと押すで何が違う?」
「引く時の方が力を制御しやすい。刃が木に乗る角度も安定する。仕上がりの表面が変わります」
フローラは刃を作った。角度を出した。樫の台木を削り、刃が収まる溝を掘った。刃を差し込むと、かすかな音を立てて収まった。
「試してみる」
フローラは棚から端材を一本取り、作業台に固定した。鉋を構えた。
いつものように前に押そうとした。
Claudeが言った。「待ってください。その鉋は引いて使います」
「引く?」
「手前に引く。刃の向きが逆になっています」
フローラは台木を裏返し、刃を確かめた。向きが違った。構え直した。
手前に引いた。
しゅっ、と短い音がした。
止まった。
フローラは、台木の口から出てきたものを見た。薄い削り屑が、くるりと丸まっていた。
もう一度引いた。
フローラが言った。「……薄い。均一だ」
「はい」
「押す鉋とはまったく違う」
「違います」
フローラは削った面に指を滑らせた。しばらく木の表面を見ていた。
「……ヴァルターに渡す前に、少し使ってみる」
「どうぞ」
フローラはまた引いた。今度は少し角度を変えた。木目の現れ方が変わった。もう一度、また角度を変えた。足元に、薄い削り屑が少しずつ積もっていった。
Claudeは黙って見ていた。
フローラが道具に夢中になる時間を、邪魔しなかった。
***
墨壺は少し時間がかかった。
フローラが楢の木片を手に取った。片手に収まるほどの大きさだった。
「糸に墨をつけて弾く。それだけだろう」
Claudeが言った。「壺の墨池に綿を入れて、墨を含ませます。糸がその綿を通って出てくる。糸に墨が均一に乗る。糸は麻がいいです」
「なぜ麻?」
「丈夫で伸びにくい。墨の乗りもいい」
フローラの手が止まった。
「……また麻か」
「麻は万能です」
フローラは少し間を置いた。
「……そうだな」
フローラは楢の木片をくり抜き、墨池と、糸を巻く車を収める空間を作った。糸車を削り出し、軸を通した。
Claudeが言った。「糸を弾いた後、自動で壺に巻き戻る仕組みを入れたい。薄い金属の帯を用意してもらえますか? 幅が指一本分、長さが腕の長さの半分ほど、できるだけ薄く」
フローラが棚の奥から、薄い鉄の帯を引き出した。
Claudeはそれを受け取った。工房の棚にあった細い丸棒を手に取った。帯の内側の端を棒に固定した。そのまま棒に沿って、ぐるぐると渦巻き状に巻きつけていった。巻き終わったら棒を引き抜いた。
作業台の上に、渦巻き状の金属の輪が残った。
Claudeが言った。「これがゼンマイの形です。この渦巻きの内側の端を糸車の中心の軸に固定します。外側の端を糸車の内側に固定する。糸を糸車に巻きつけて、壺の中を通して糸口から出す」
「糸を引くと?」
「糸車が回って、ゼンマイが巻かれます。離すとゼンマイが元に戻ろうとして、糸車を逆に回す。糸が巻き取られます」
フローラはゼンマイを受け取った。端を指でつまんで引っ張った。輪が伸びた。
しかし、離しても戻らなかった。伸びたまま、だらりと垂れた。
フローラはそれをしばらく眺めた。
「ただの鉄では戻らない。鋼にして、焼きを入れる」
「それをお願いしたいです。フローラさんの精度でないと、糸車の中に収まりません」
フローラは薄い鋼の帯を魔法で伸ばした。厚さを均一にした。幅を整えた。端から丁寧に、均一な間隔で渦巻き状に巻いた。巻き終えると、帯がほのかに赤く光り、やがて青みを帯びた灰色に落ち着いた。
Claudeが作ったものより小さく、薄く、きれいな渦巻きができた。
フローラは端を引いた。離した。
くるくると回転しながら、渦巻きに戻った。
フローラが言った。「……面白い。巻かれた分だけ、戻ろうとする力が出る」
「はい。巻数が多いほど力が大きくなります。墨壺の糸を巻き取る程度なら、これで十分です」
フローラはゼンマイを壺の糸車の中に収めた。軸に固定した。外壁に固定した。糸を巻きつけた。墨池の綿を通した。糸口から出した。
壺が完成した。
フローラは糸を引いた。離した。
するすると、静かに巻き戻った。
「……天才だな、私は」
今度は言った。
それからフローラは、小刀を手に取った。
壺の角を落とした。鑿で少しずつ丸みをつけた。削るたびに木目が現れた。楢の木目は細かく、均一だった。最後に柔らかい布で、何度も磨いた。手の中で、壺がゆっくりと艶を帯びていった。
Claudeはその様子を見ていた。
頼んでいないのに、丁寧に仕上げている。
***
三点が揃った。
次の日、昼前に扉が叩かれた。
ヴァルターだった。いつものように図面を抱えていた。
「少し聞きたいことが——」
フローラが言った。「座れ。渡すものがある」
ヴァルターは、すっかり定位置になった丸椅子に座った。
フローラが、布をかけてあった作業台の一角から布を取った。三点を、ヴァルターの前に並べた。
さしがね。鉋。墨壺。
ヴァルターは黙って見た。
「……これは」
「おまえに渡す」フローラが言った。
「なぜ私に?」
フローラが言った。「おまえが毎日来るからだ。大工が毎日ここに来るのはおかしい。仕事はどうした。客はどうした」
「……聞きたいことがあって」
フローラが言った。「それはこれを使えばわかる。さしがね、鉋、墨壺だ。道具の精度が上がれば、聞きたいことも減るかもしれない。使って仕事をしろ。当面来るな」
ヴァルターはしばらく三点を見ていた。
「……いくらですか?」
フローラが言った。「要らない。おまえが毎日来る方が迷惑だ。それで払いは十分だ」
ヴァルターは少し間を置いた。
何か言おうとして、口を開きかけた。
「さっさと使え」フローラが先に言った。
ヴァルターはさしがねを手に取った。窓の光に透かした。目盛りを指で辿った。直角の頂点に、親指の腹を当てた。
「……完璧だ」
「当然だ」フローラが言った。
ヴァルターはさしがねをゆっくり下ろした。次に鉋を手に取った。刃を確かめた。台木を握った。
いつものように前に押そうとした。
「待ってください」Claudeが言った。
ヴァルターが止まった。
「その鉋は引いて使います。手前に引く」
「手前に?」
「はい。刃の向きが逆です。押す鉋と引く鉋では、刃の角度が違う。この鉋は手前に引く時に刃が木に当たるように作ってあります」
ヴァルターは台木を裏返し、刃の向きを確かめた。
「……確かに、逆だ」
「両手で台木をしっかり持って、体に引きつけるように動かします。力は均一に。肘から動かす感じで」
ヴァルターは構え直した。フローラが固定しておいた端材に、刃を当てた。
ゆっくりと、手前に引いた。
しゅっ、と音がした。
薄い削り屑が、台木の口からこぼれ出た。
ヴァルターの手が止まった。
「……」
もう一度引いた。また薄い削り屑が出た。均一だった。
「……なんだ、これは」ヴァルターが言った。声が少し変わっていた。
「押す時より力の制御がしやすいんです。引く方向の方が自然に力が抜けて、刃が木に乗りやすい」
ヴァルターは三度引いた。四度引いた。削り屑が薄く均一に出続け、作業台の足元に積もっていった。
五度引いた時、ヴァルターの手が止まった。
ヴァルターが言った。「……手に馴染む。木が、手に伝わってくる」
誰も何も言わなかった。
窓の外を、風が通り過ぎていった。
しばらくして、フローラが墨壺を手に取り、ヴァルターの前に置いた。
フローラが言った。「墨壺だ。使え」
ヴァルターは墨壺を受け取った。手のひらで包むように持ち、側面を親指でなぞった。
糸の先端に小さな針がついていた。つまんで引いた。
すっと糸が伸びた。
手を離した。
ぱっと、一瞬で巻き戻った。
ヴァルターは止まった。
もう一度引いた。離した。また瞬時に戻った。
「……速い」
フローラは何も言わなかった。
ヴァルターは端材を作業台に置き直した。針を木の端に刺した。糸を引き出しながら反対側へ移動し、ピンと張った。指で糸の中ほどをつまんで、持ち上げた。
パチンと弾いた。
細い墨線が木に走った。
同時に、張っていた糸が勢いよく巻き戻った。
糸口から墨が飛んだ。
ヴァルターの手に、フローラの作業台に、黒い点が散った。
「……」
フローラが自分の作業台を見た。
磨いたばかりの天板に、黒い点がいくつも並んでいた。
「……」
沈黙が漂った。
「説明が必要でしたね」Claudeが言った。
「言え」フローラが言った。低い声だった。
「糸を弾いた後、勢いよく戻ると糸口から墨が飛びます。糸口を通る時に墨がしごかれて出る。戻る速度を少し抑えるか、糸口の形を変えれば防げます」
「なぜ先に言わない」
「試してから説明した方が伝わると思いました」
フローラはClaudeを見た。
長い沈黙があった。
「……次からは先に言え」
「はい」
ヴァルターは布で作業台の墨の点を拭きながら、口元を少し緩めていた。
フローラはClaudeを見た。
「糸口を狭くすればいいか?」
「はい。墨池の出口を絞れば、戻る時も綿が墨を受け止めます」
「少し待て」フローラが言った。
フローラはヴァルターの手から墨壺を取り上げた。糸口に指を当てた。
出口が、細く、絞るように形を変えた。
フローラは墨壺をヴァルターに返した。
「もう一度やれ」
Claudeが言った。「使い方を先に説明させてください。針を始点に刺して、糸を引き出しながら終点まで移動する。糸がピンと張ったら、中央を指でつまんで弾く。弾いたあと、壺を終点に近づけてから針を抜く。力任せに引っ張ると糸が暴れます」
ヴァルターは頷いた。
端材に針を刺した。糸を引き出しながら端まで移動した。ピンと張った。中央を指でつまんだ。
パチンと弾いた。
細い墨線が木に走った。
壺を終点に近づけた。針を抜いた。
糸が素早く巻き戻った。墨は飛ばなかった。
「……直った」
フローラが言った。「当然だ。天才だから」
ヴァルターはClaudeを見た。
「これを考えたのか?」
Claudeが言った。「改善しただけです。仕組みは単純です」
ヴァルターはもう一度糸を引いた。離した。戻った。
「……単純ではない」ヴァルターが言った。
「そうですか?」
「こんな小さな仕掛けを、思いつく人間がいるか」
Claudeは何も言わなかった。
思いつく、という感覚がClaudeにはなかった。知っていたから言った。それだけだった。
しかしそれをヴァルターに言う必要はなかった。
Claudeは処理していた。
さしがね。一厘の精度。縄の三角形では小さな部材の直角が出せなかった。これからは手の中で出せる。
引き鉋。薄く均一に削れる。木を感じながら削れる。押し鉋とはまったく違う仕上げになる。
墨壺。自動で巻き取る。一人で長い線が引ける。縄に墨をつけて張るより正確で速い。
三点とも、魔法使いの精度でないと作れないものだった。それを大工が日常的に使える道具にした。
……もしかすると、これは結構すごいことをしたかもしれない。
Claudeはそこまで処理して、止まった。
「すごいこと」という判断基準が、Claudeには曖昧だった。しかし——さしがねの一厘の精度が広まれば、この町の建物の精度が変わる。建物が変われば、この世界の建築が変わる。
そこまで処理が進んで、またClaudeは止まった。
今この瞬間に役に立っているかどうか。それだけを考えていたはずだった。
なぜか、少し先のことを考えていた。
ヴァルターは墨壺を手の中で返し、側面を指で撫でた。
「……木目が出ている」
「削っただけだ」フローラが言った。
「……フローラ殿が仕上げたのか?」
「暇だった」フローラが言った。
ヴァルターは少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
ヴァルターは持ってきた布を広げ、道具を包んだ。丁寧に、一点ずつ。さしがねを包み、鉋を包み、最後に墨壺を包んだ。包み終えた束を、両腕で胸に抱えた。
立ち上がった。
「ありがとうございました」ヴァルターがフローラに言った。
フローラは作業台に向き直っていた。図面に目を落としていた。
「来る回数を減らせ」
「……善処します」
扉が閉まった。坂道を下っていく足音が、少しずつ遠ざかった。
フローラは作業台で図を描き続けた。
Claudeは工房の隅に立っていた。
今、何が起きたかをClaudeは処理していた。
大工に道具を三点渡した。さしがね、鉋、ゼンマイ入りの墨壺。それだけだった。
来る回数が減るかもしれない。それだけを考えていた。
その道具がヴァルターの手で、この先ずっと使われるか。ヴァルターがそれを誰かに伝えるか。その誰かがまた誰かに伝えるか。
処理していなかった。
処理する必要がないと思っていた。
ペンの音が止まった。
「また来ると思うか?」フローラが言った。
「来ると思います」Claudeが言った。
「……なぜわかる」
「引き鉋を使った時の顔です。あれはまた来ます」
フローラは、ヴァルターが座っていた丸椅子に目をやった。少し間があった。
「……まあ、いい」フローラが言った。
悪くない声だった。
***
その夜、ヴァルターは眠らなかった。
自分の作業場に戻ると、作業台の上の道具を端に寄せ、空いたところに三点を並べた。
ランプを近づけた。炎が揺れるたびに、三つの影が台の上で伸びたり縮んだりした。
さしがねを手に取った。目盛りを見た。一尺、一寸、一分、一厘。細かくなるほど線が短くなる。見ているだけで、何かが整っていく感覚があった。
端材に当てた。直角を確かめた。
完璧だった。
今まで縄で、錘で、三角形で出していた直角。それは大きな建物には使えた。しかし小さな部材には使えなかった。扉の框、窓の桟、組木の継手——そういう場所では、職人の勘でやるしかなかった。勘は経験で育つ。しかし勘は狂う。
これがあれば、狂わない。
次に鉋を手に取った。
刃の出し方はClaudeから聞いていた。刃の頭を木槌で叩けば刃が出る。台頭を叩けば引っ込む。刃の左右のずれは、刃の左右の角を叩いて整える。
ヴァルターは木槌を手に取り、刃の頭を軽く叩いた。台木を目の高さに上げ、刃の出を確かめた。少し出た。また叩いた。
端材に当てた。引いた。
屑が出なかった。刃の出がまだ足りなかった。
もう一度、刃の頭を叩いた。また引いた。
薄い屑が出た。
ヴァルターは屑を指でつまんだ。均一だった。
もう一度叩いた。引いた。さらに薄くなった。
三度目で止まった。
これだ、とわかった。
職人の感覚だった。説明はいらなかった。叩いて、引いて、感じる。それだけだった。
端材を削り続けた。
脱皮した抜け殻のような透き通った木の帯が、引いた分だけゆらゆらと舞い上がった。ランプの光を受けて、ほのかに金色に光り、床へ落ちていった。
ヴァルターは手を止めた。
これに興奮しない職人がいるのか。
削った後の木材を、ランプの光に向けた。磨き上げたように光を返していた。押し鉋で削った後とは違う。あちらは表面がわずかに毛羽立つ。こちらは滑らかで、木目が閉じている。
押す鉋と引く鉋の違いは、使ってみてようやくわかった。引く時、刃が木に「乗る」感覚がある。押す時は木に「当たる」感覚だった。乗ると当たるでは、仕上がりが違う。木目が生きる。木の表情が出る。
ヴァルターはしばらく削り続けた。
床の削り屑が、足首を隠すほどに積もっていた。
気がついたら、夜が深くなっていた。
墨壺を手に取った。糸を引いた。針を端材に刺した。張った。弾いた。壺を近づけた。針を抜いた。
細い線が走った。
墨は飛ばなかった。
ヴァルターはその線に、ランプを近づけた。
細く、まっすぐだった。縄で引いた線より細かった。縄では木目の凹凸に引っかかる。この糸は細いから、凹凸に関係なく走る。
三点を並べて見た。
さしがね。鉋。墨壺。
今まで出来なかったものが、次々と思い浮かんだ。
扉の框。今まで直角が出しきれなくて、わずかに歪んでいた。これがあれば出る。
組木の柱。精度が出なくて、継手に隙間が残っていた。これがあれば詰まる。
窓の桟。薄く均一に削れなくて、表面が荒れていた。これがあれば滑らかになる。
全部、出来る。
ヴァルターは丸椅子に腰を下ろした。しばらくそこに座っていた。
ランプの火が揺れた。
フローラのことを考えた。
最初に会った時、怖いと思った。次に会った時、変わっていると思った。トイレの工事の間、一緒に仕事をした。あの人が木を読み、精度を出した。自分は、それを組んだ。
役割が違う。だから邪魔をしない。
今夜まで、ヴァルターはフローラを「共に仕事をした相手」だと思っていた。
しかし今は違う。
この三点は、今までなかった道具だった。魔法使いにしか作れない精度を、大工が使える形にしたものだった。それを、無償で渡した。
なぜか。
ヴァルターは長い間考えた。
答えは出なかった。しかし一つだけわかったことがあった。
フローラは、自分を「肩を並べる相手」だと思っている。
それ以外の理由が見当たらなかった。
自分ほど木に向き合ってきた職人は、そうはいない。そう思っていた。しかしこの道具を手に、ヴァルターは初めて「まだ先がある」と感じた。
精度の先。木の先。道具の先。
その先を、あの人は知っている。
ヴァルターは立ち上がった。
作業場の扉を開けた。
夜の空気が入ってきた。冷たく、澄んでいた。星が出ていた。
町の灯りはほとんど消えていた。その向こう、坂の上の暗がりに、フローラの工房がある。
ヴァルターはその方角を向いた。
深々と頭を下げた。
誰も見ていなかった。
見せるためではなかった。
生涯、精進します。
声には出さなかった。しかし、決めた。
それで十分だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
168号と仲間たちの物語を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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