木が動く
工事が始まって三日が経った。
領主邸の北側は、すっかり様子が変わっていた。
初日、既存のトイレを壊した。兵士四人がかりで石の床を剥がし、古い穴を埋める。出てきたものについては、誰も口にしなかった。全員が無言のまま作業を終え、石灰を撒いた。
それだけで半日かかった。
二日目から本格的な掘削が始まった。
処理槽を埋める穴と、縦穴の二か所を同時に掘り進める。処理槽の穴は横に広い。兵士が交代で十人以上入って掘り続けた。縦穴は深く細い。井戸掘り職人が二人、専用の道具で掘り下げていった。
職人の一人が言った。「一丈で止める。この辺りは、それより下はすぐ水だ」
掘った土は次々と外へ運び出された。荷車が往復した。
石工が三人来て、処理槽の壁を積むための石を選んでいる。石灰モルタルを練るための石灰石と火山灰、砂も荷車で届いた——商人二人が、それぞれ別の仕入れ先から運んできたものだ。どちらが品質がいいかでヴァルターと石工が口論になり、Claudeが止めた。
陶器職人が現場の視察に来た。
職人は寡黙な男で、配管の図と便器の断面図を受け取って、長い間見ていた。
職人が言った。「焼けるか焼けないかは、やってみないとわからない。ただ……」
Claudeが促した。「ただ?」
「形が面白い」
それだけ言って帰った。
Claudeはそれを「やる」という意味だと解釈した。
***
邸の中では、別の混乱が起きていた。
トイレが使えない。
工事が終わるまでの間、領主邸の全員がおまるで対応することになった。セラフィナ専用のものはもともとあったが、料理人二人、メイド三人、警護の兵士十人分は足りない。
エリザが手配した。近くの商家から借りてきた。
エリザが走りながらソフィに聞いた。「何個要るんですか?」
「全部で十六個以上です。領主様のは別に数えてください」
「別に?」
「当然です」
エリザは走り続けた。
おまるが揃うと、今度は処理の問題が出た。毎朝、中身を捨てに行く。どこに捨てるか。工事中の穴は使えない。石灰を撒いた跡もある。
エドワール団長が指定した場所を決めた。邸の東側、木立の陰。毎朝、当番の兵士が穴を掘って埋める。埋めたら石灰を撒く。また次の日に掘る。
ソフィが当番表を作った。
エリザがそれを見て言った。「私も入ってますね」
「当然です」
エリザは何も言わなかった。
セラフィナはその一部始終を聞いていたが、何も言わない。ただ、早く工事が終わってほしいと思っていた。
***
ヴァルターは朝から作業台に向かっていた。
楢の角材を所定の寸法に切る。白樺も同じ寸法に切る。フローラが魔法で接合面を整える。ヴァルターがほぞを掘る。組み合わせる。
最初の一枚ができた。
楢と白樺が交互に並んだ格子。釘がどこにもない。継ぎ目が模様になっている。
ヴァルターはそれを持ち上げて、光に透かして見た。
長い間、見ていた。
「……きれいだ」
Claudeも見た。確かにきれいだった。楢と白樺の継ぎ目が揃っている。模様が整っている。一見すると、狂いがない。
しかしClaudeは知っていた。
フローラは「遊び」を残している。髪の毛一本から二本分、意図的に隙間を作った。ぴったり合わせていない。
それなのに、見た目は完璧に見える。
「フローラさん、接合部に遊びは残っていますか?」
「残している。言われた通りにやった」
「でも、きれいに見えます」
「当たり前だ。遊びは隙間ではない。木が動く方向を読んで、そこだけ空けた。見た目には出ない」
ヴァルターがフローラを見た。
「……木が動く方向を、読んだ?」
「木目を見ればわかる。この楢はここで膨らもうとしている。この白樺はこちらへ縮もうとしている。その方向に合わせて空けた。だから表からは見えない」
ヴァルターはしばらく何も言わなかった。
格子をもう一度手に取った。接合部を指で押した。びくともしない。しかし継ぎ目をよく見ると、ほんのわずかな余白がある。
「……私の腕では、ここまでは読めない。木の方向を読んで遊びを作るなど、考えたこともなかった」
「木を読むのは私がやった。おまえは組んだ。それだけだ」
「……それだけ、とは言えません。組み方が悪ければ、読んでも意味がない」
フローラは少し間を置いた。
「……そうだな」
ヴァルターは少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
フローラは何も言わなかった。受け取り方がわからない顔をしていた。
二枚目、三枚目と格子が増えていった。
その間も現場はごった返していた。
穴から土が上がってくる。石工が石を積む。荷車が通る。兵士が交代する。陶器職人の補佐が寸法を確認しに来た。石灰モルタルを練る音がした。どこかで誰かが怒鳴った。どこかで誰かが謝った。
Claudeはその全部を把握しながら、格子の作業台の横に立っていた。
***
翌日、フローラは工房にいた。
邸の現場には午後から顔を出す。午前中は工房で別の作業をしていた。
作業台の上に粘土があった。
陶器職人から分けてもらった土だ。便器の原型を作る。フローラが魔法で成形する。職人が焼く。その流れを作るために、まず原型が要った。
フローラは断面図を横に置いて、粘土を手に取った。
S字の管の形を先に作った。曲がりの角度、内径の寸法。魔法で少しずつ形を整えた。
次に便器の本体を作り始めた。座る部分の高さ、椀の曲線、排水口の位置。
途中で止まった。
手の中の粘土は、灰色がかった茶色だった。
焼けば少し色が変わる。しかしこのまま焼いても、仕上がりは土の色だ。Claudeの設計図には「白く仕上げる」と書いてあった。
白く、とはどういうことか。
色を塗るのか。それとも素材から変えるのか。
釉薬を使えば表面の色は変えられる。しかし内側まで白くはならない。素材から白くするなら、粘土そのものが違う。
Claudeのメモに何か書いてあった気がした。白い石、と。風化した石から取れる白い粘土、と。
フローラは粘土を見た。
白い便器というものが、どういう意味を持つのかがまだわかっていなかった。清潔に見えるから、か。汚れが目立つから、か。それとも別の理由があるのか。
Claudeに聞けばわかる。しかしClaudeは現場にいる。
フローラはまた粘土を手に取った。
今は形を作る。白い石のことは後でいい。原型が完成してから、焼く前に考える。
フローラは作業を続けた。
工房の中は静かだった。
外の現場の音が、遠くかすかに聞こえていた。
***
五日目の朝だった。
ヴァルターが作業台の前で止まっていた。
昨日組み上げた格子を手に取って、じっと見ていた。
Claudeが近づいた。
「どうしましたか?」
「動いている」
「はい」
「昨日と、形が違う」
「夜の間に湿気を吸いました。木が少し膨らんでいます」
ヴァルターは格子を傾けた。接合部をひとつひとつ確認した。割れていない。歪んでいない。ただ、昨日より少しだけ、ほぞが深く嵌まっていた。
「……割れていない」
「遊びがあるので、動けます」
ヴァルターはしばらく格子を見ていた。
ヴァルターが静かに言った。「こういうことか。木が動くのを、止めなかった」
「止めようとすると壊れます。動けるようにしておくと、木が自分で落ち着きます」
ヴァルターは格子を作業台に戻した。
「大工になって、もう長い。釘を打つ時、木が割れないように気をつけてきた。割れるのは失敗だと思っていた」
「釘は木を固定します。木が動けなくなると、力が一点に集まって割れます」
「それはわかっていた。だから釘の打ち方に気をつけていた。しかし……」
ヴァルターは格子を見た。
「最初から動けるようにしておく、という発想はなかった」
Claudeは何も言わなかった。
ヴァルターが自分で辿り着く時間を、待った。
「……釘を使わないのは、木を固めないためか?」
「はい」
「接合部に遊びを作るのも、同じ理由か?」
「はい」
ヴァルターは格子をもう一度手に取った。
接合部を指で押した。わずかに動く。しかし外れない。動けるが、崩れない。
「……以前、ずっと昔から使われてきた技だと言っていたな。その建物は、今も立っているのか?」
「はい。今も立っています」
「なぜ倒れない?」
「木が動けるからです。地震が来ても、揺れを逃がせる。固めた建物より、しなやかな建物の方が長持ちします」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
「……その建物を作った職人は、木が動くことを知っていたのか?」
「知っていたと思います。釘をほとんど使わずに建てました。動けるように、最初から設計していた」
「釘を、ほとんど」
「はい」
ヴァルターは格子を見た。それから自分の道具袋を見た。鑿、鋸、玄翁。ずっと使ってきた道具。
「……私は釘を使わない方がいいと思ったことは、一度もなかった。釘があれば固定できる。固定できれば強い。そう思っていた」
「固定すると、動けなくなります」
ヴァルターがゆっくり言った。「……固めると、壊れる。動けると、長持ちする」
「はい」
「それは——建物だけの話か?」
Claudeはその問いを、少し意外に思った。
「どういう意味ですか?」
ヴァルターは答えなかった。
格子を作業台に戻して、次の角材を手に取った。
鑿を構えた。今度は少し違う角度で入れた。
Claudeはその手元を見ていた。
昨日より、迷いがなかった。
***
フローラがやってきたのは昼前だった。
格子が七枚並んでいた。
フローラはそれを端から順に見た。最初の一枚と、七枚目を並べて見た。
「……七枚目の方がいい」
「同じ設計です」
フローラが七枚目の接合部を指した。「同じではない。ここの角の処理が違う。初日より、角が生きている」
ヴァルターが七枚目を見た。
「……気づかなかった」
「削り方が変わっている。何をした?」
ヴァルターは少し間を置いた。
「木に聞いた」
フローラが止まった。
「木に、聞いた?」
「この木はここで動きたがっている、という感覚がある。それに合わせて削った。うまく説明できないが」
フローラはヴァルターを見た。それから七枚目の格子を見た。
「……理にかなっている」
Claudeはその様子を見ていた。
フローラが「理にかなっている」と言う時の顔を、Claudeは知っていた。
納得した顔ではなかった。
何か新しいものを見た顔だった。
***
セラフィナが現場を見に来たのは、その日の夕方だった。
エドワール団長とソフィが後ろについていた。
並んだ七枚の格子を見た。
セラフィナが言った。「……きれいですね」
ヴァルターが頭を下げた。「ありがとうございます」
「これが全部、釘なしで?」
「はい」
セラフィナは格子に近づいた。接合部を指で触れた。
セラフィナが少し驚いた顔をした。「動く」
「木が呼吸しています。わずかに動けるようにしてあります」
「壊れませんか?」
「動けるから、壊れません」
セラフィナはしばらく格子を見ていた。
「……動けるから、壊れない。不思議な言葉ですね」
「そうですか?」
「固いものの方が強いと思っていました」
Claudeは少し間を置いた。
「固いものは、力がかかると折れます。しなやかなものは、力を逃がせます」
セラフィナはその言葉を聞いていた。
格子を見ていたが、別のことを考えているようだった。
エドワール団長が隣に立った。格子を見た。それからClaudeを見た。
何も言わなかった。
しかし何かが変わっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
168号と仲間たちの物語を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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