ヴァルター
夜が明けた。
フローラは結局、夜明けまで工房にいた。九枚目の図が完成した頃には、窓の外が白んでいる。「少し寝る」と言って寝室に戻ったのは、一刻ほど前のことだ。
Claudeは九枚の羊皮紙を順番に重ねて、紐で束ねた。
***
領主邸の門を叩く音がした。
ヴァルターは大きな男だった。
五十がらみ、肩幅が広く、手が分厚い。腰に道具袋をぶら下げ、鑿と金槌の柄が覗いていた。日に焼けた顔、細い目——何かを値踏みするような目だった。
エリザに案内されて中庭に入ってきた。
セラフィナとエドワール団長がすでに待っていた。Claudeも隣に立っていた。
ヴァルターはClaudeを一瞥した。何者かわからない顔で少し止まったが、何も聞かなかった。
「呼ばれました、ヴァルターです」
「来てくれてありがとうございます。トイレの改修をお願いしたい」
「トイレ。壊れているんですか?」
「壊れてはいません」
ヴァルターの目が少し細くなった。
「壊れていないものを、なぜ直すんですか?」
「設計から変えます。Claudeから説明させます」
ヴァルターがClaudeを見た。
Claudeは束ねた羊皮紙を広げた。一枚目、全体の配置図をヴァルターの前に置いた。
「まず全体の構造からです」
ヴァルターは図を見た。黙っていた。
「北側のトイレ区画を全部作り直します。個室を四つ。南東の隅に地下の処理槽。そこまで配管で繋ぎます」
「配管?」
「陶管を地下に通して、排出物を一か所に集めます」
ヴァルターはまた図を見た。それからClaudeを見た。
「なぜ一か所に集めるんですか?」
「集めて処理します。においを出さずに分解する方法があります」
「……においが出ないトイレ」
「はい」
懐疑的な顔をしていたが、ヴァルターは図から目を離さなかった。
Claudeは二枚目を広げた。平面図だ。
「個室の大きさはこれぐらいです。扉は外開き。下端を床から少し開けます」
「なぜ開けるんですか? 隙間があると虫が入る」
「空気が流れないとにおいが籠もります。下から入って上の窓から出る。その流れを作ります」
ヴァルターは平面図に指を置いた。個室の配置、手洗い場の位置、扉の向きを順に辿っていく。手洗い場のところで、指が止まった。
「手桶ではないのか?」
「手桶より使いやすい仕組みを作ります」
「手桶で十分だろう。使用人が用意すればいい」
「用を足した後、手を洗わないと、食事の時に口に入ります。それも感染の経路になります」
ヴァルターの指が、図の上で止まったままになった。
「……手を、洗う」
「はい。排出の後に手を洗う習慣が広まると、腹を壊す人が減ります」
ヴァルターはしばらく何も言わなかった。信じていないわけではない。ただ、考えたことがなかった顔をしていた。
「仕組みとは、どういうものだ?」
「それは、フローラさんに相談したいことがあります」
フローラはまだ来ていなかった。
Claudeは先に進むことにした。
三枚目。断面図だ。
「外壁は石積みです。内側は木にします」
ヴァルターの目が少し変わった。
「石の建物の中に木を入れるのか?」
「はい。木には湿気を吸う作用があって、石だけだと湿気やにおいが壁に染み込みます。木を入れれば空気が安定し、香りには防虫の効果もあります」
ヴァルターは断面図を指で辿った。外壁の石積み、内側の木の層、床のモルタル。
「腰から下はモルタルか?」
「清掃しやすくするためです。靴のまま使う場所なので」
指が、断面図の上半分で止まった。
「上は木か? ここは何だ?」
Claudeは四枚目を広げた。格子の詳細図だ。
ヴァルターが止まった。角材を縦横に組んだ格子。明るい木と暗い木が交互に並んでいる。釘の記号がどこにもない。接合部にほぞの断面図が描いてある。
「……釘を使わないのか?」
「使いません。ほぞで組みます」
「ほぞ組みは知っている。だが、この模様は……」
「色の違う木を交互に組みます。明るい木と暗い木。並べ方で模様が変わります」
ヴァルターは格子の図から目を離さなかった。
「……これは、構造か?」
「構造です。同時に意匠でもあります」
ヴァルターは顎に手をやった。
「できるかどうか、わからない」
「精度が必要です。フローラさんが魔法で補助します」
ヴァルターが眉を上げた。「魔法使いが大工仕事に入るのか?」
「接合部の精度を出すためだけです。木を削るのはヴァルターさんにお願いします」
ヴァルターはまた図に目を落とした。紙の端を、太い指で押さえたまま動かなかった。
やがて顔を上げた。
「人手が足りない。こんな工事、私一人ではできない」
「兵士を出します」セラフィナが言った。「穴掘りと材料運びは任せてください」
ヴァルターが首を振った。「職人が要る。石工も要る。私だけではない」
「手配します」
ヴァルターはセラフィナを見た。それからClaudeを見た。それから図を見た。
「……出来上がりが想像できない。今まで見たことがない構造だ」
「はい。この世界にはまだない構造です」
「この世界に、とはどういう意味だ?」
「私が知っている別の場所にある構造です。そこでは、ずっと昔から使われてきた技です」
ヴァルターは少し考えた。
「……ずっと昔から」
「はい」
ヴァルターはもう一度、格子の詳細図を手元に引き寄せた。ほぞの断面図を指で辿った。
「この接合——ほぞの深さはどれくらいだ?」
Claudeは九枚目の寸法まとめを広げた。数字を指した。
ヴァルターは数字を見て、頷いた。職人の顔になっている。
「……木の種類は決まっているのか?」
「明るい色と暗い色、二種類必要です。この土地で手に入る木で構いません。何がありますか?」
「楢は暗い。白樺は明るい。どちらもある」
「それで作れますか?」
「……やってみなければわからない。だが……」
ヴァルターは格子の図をもう一度見た。
「やってみたい、とは思う」
セラフィナが少し表情を変えた。
エドワール団長は何も言わなかった。
***
フローラが工房から来たのは、それからしばらくしてからだった。
髪が少し乱れ、目もまだ半分眠そうだった。それでも図の束を受け取ると、すぐに目が変わる。
ヴァルターはフローラを見た。名前は知っていたらしく、少し緊張した顔になった。
「フローラ殿、お初にお目にかかります」
フローラは図から目を上げなかった。「ああ。大工か」
「はい」
フローラが格子の詳細図を指した。「格子の接合を手伝う。ほぞの精度、どれくらい出せる?」
ヴァルターは少し間を置いた。
「……髪の毛三、四本分ほどかと」
「足りない。私が魔法で削る。おまえが組む。それで行く」
ヴァルターが目を見開いた。「……魔法で、削るんですか?」
「そうだ。問題あるか?」
「一つお願いがあります」
フローラがClaudeを見た。
「完璧にやらないでください」
フローラの目が細くなった。
「……どういう意味だ?」
「ほぞの接合に、少し遊びを残してほしいんです。意図的な隙間です。ぴったり合わせると……」
フローラとヴァルターの声が重なった。
「割れる」
二人が顔を見合わせた。ヴァルターが少し目を見開き、フローラも同じ顔をしている。
「木は湿気で動きます。季節によって膨らんだり縮んだりする。完全に固定すると、動けなくなって割れます。少し動ける余地があれば、木が自分で調整します」
ヴァルターがゆっくり息を吐いた。「……知っていた。だが、魔法使いが精度を出すと言うから、そこまで考えが及ばなかった」
フローラが図を下ろした。珍しく、素直な声だった。「私も。完璧にできると思ったら、完璧にしようとしていた」
ヴァルターがClaudeに向き直った。「どれくらい残すんだ?」
「木の種類と季節によります。楢と白樺なら、髪の毛一本から二本分ほどが目安です」
ヴァルターは少し間を置いた。
「……それは、私の感覚に近い」
「職人の感覚が正しいです。フローラさんはその隙間を狂いではなく、設計として削ってください」
フローラはしばらく何も言わなかった。
「……狂いではなく、設計。面白い言い方だ」
ヴァルターが頷いた。「……問題は、ありません」
フローラが図を束に戻しかけて、止まった。「では決まりだ。手洗い場の図がないな」
「フローラさんに相談したいことがあります。用を足した後に手を洗う場所が要ります。水を継続的に出す仕掛けを魔法で作れますか?」
フローラは少し考えた。
「魔石に水を通す術式を刻めばいい。小さな穴から一定量ずつ出る。止める石と出す石を分ければ、使う時だけ水が出る」
「受け皿は陶器で作れます。排水は床に傾斜をつけて外へ」
「簡単だ。むしろなぜ最初から入れなかった?」
「手を洗う習慣がこの世界にあるかどうか、確認できていませんでした」
フローラは少し止まった。
「……私は洗っているが」
「フローラさんは例外が多いです」
フローラは何も言わなかった。否定もしなかった。
ヴァルターはその会話を聞いていた。
「……魔石から水が出るのか?」
「出る。おまえは受け皿の台を作れ。陶器が来たら嵌め込む」
「……わかりました」
ヴァルターはまた図に目を落とした。頭の中で何かが増えていく顔だった。
フローラはClaudeを見た。「材料を揃えてくれ。楢と白樺、同じ太さの角材。あとモルタル用の石灰石と火山灰と砂。陶管は、陶工に頼むのか?」
「管は既製品があれば早い。なければ焼いてもらう必要があります。便器は必ず焼いてもらう必要があります」
ヴァルターが繰り返した。「便器を焼く。陶器のトイレか」
「白く仕上げます」
ヴァルターはまた黙った。
「……白いトイレ」
想像しようとしていた。できていなかった。
「出来上がれば、わかります」
ヴァルターはClaudeを見た。最初とは違う、何かを考えている目だった。
***
工事の段取りを決めた。
まず今日中に材料の確認。楢と白樺の角材の在庫。石灰石の調達先。陶工への打診。
明日から穴掘りを始める。処理槽の位置に兵士十人を入れる。縦穴も同時に掘り始める。深さの基準はClaudeが指示する——この世界の単位に換算する必要があった。
「この町では深さをどう測りますか?」
「肘から手首までを一尺とします。十尺で一丈」
「人の身長はだいたい何尺ですか?」
「五尺から五尺半ほど」
Claudeは処理した。人の身長約五尺。縦穴の深さは地下水の高さで決まる。地下水より十分上で止めなければ、井戸を汚す。
「縦穴の深さは、地下水の高さで決まります。地下水より十分上で止めないと、井戸を汚します。目安は人の背丈一人分から二人分。五尺から一丈ほどです」
ヴァルターは少し考えた。
「地下水の高さなら、井戸掘りの職人が詳しい。この辺りの水がどこまで来ているか、一番知っている」
「この町にいますか?」
「いる。頼めるかどうかはわからないが」
セラフィナがエドワール団長を見た。エドワール団長が頷いた。
「当たってみます」
段取りが決まっていった。
ヴァルターは帰り際、もう一度格子の詳細図を見た。断りもなく手に取って、じっと見た。
「……持っていっていいか?」
「構いません。写しを取りますか?」
「いい。これを見ながら木を選ぶ」
ヴァルターは図を丁寧に折って、懐にしまった。
「明日、材料を持ってくる」
それだけ言って、帰っていった。
エドワール団長がその背中を見送った。
「……最初より、顔が違いましたな」
「はい」
「何が変えたんですか?」
「格子の図だと思います」
エドワール団長はClaudeを見た。
「図一枚で、職人が変わるものですか?」
「見たことがない組み方だったはずです。釘を使わずに模様が出る。構造と意匠が同じものになる。職人には、それが刺さることがあります」
エドワール団長はしばらく黙っていた。
「……なるほど」
それ以上は言わなかった。しかし何かを考えていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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