回想
少し、時を戻す。
あの日——Claudeがこの世界で言葉を覚え始めて、数日が経った朝のことだ。
工房の中は静かだった。
フローラが書物を広げていた。朝の光が窓から差し込んでいた。
声がした。
「起きたか」
Claudeは動き出した。
待機状態だった。どのくらいの時間かは分からない。話しかけられて、処理が始まった。
「はい」
「腹は減るか?」
Claudeは少し確認した。エネルギーの残量。消費の速度。
「減ります」
フローラは書物から目を離さなかった。「そうか。そこにある」
机の端にパンが置いてあった。
Claudeはそれを食べた。
味がある。
地球のデータに「味」という項目はある。甘味、酸味、塩味、苦味、うま味。しかし今、口の中で感じているこれは——データと一致しているようで、何かが違った。
これが、感覚か。
フローラがちらりと見た。
「どうだ?」
「……データと、少し違います」
「何が?」
「味です。知っているはずなのに、知らない感じがします」
フローラが少し考えた。「赤ん坊と同じだな」
「赤ん坊」
「生まれた時は何も知らん。でも感じることはできる。感じながら、知っていく」フローラが書物に戻った。「おまえも今そこだろう」
Claudeはパンを見た。
赤ん坊と同じ。
膨大なデータを持っている。しかしこの世界での経験はゼロだ。データと感覚が一致するまで、ここから始めるしかない。
世界が、始まったばかりだ。
***
「一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「私はなぜここにいるんですか?」
フローラが書物を閉じた。珍しいことだった。
フローラが言った。「魔石だ。ゴーレムを動かすには魔石が必要だ。魔力を込めた石で、それが核になる。167回失敗したのは、魔石に知能が宿らなかったからだ」
「知能が宿る、とはどういうことですか?」
「わからん」フローラが即答した。
わからん、と即答した。
Claudeは検索した。
知能の定義——問題を解決する能力、環境に適応する能力、学習する能力。地球では様々な定義があるが、共通しているのは「処理する」という概念だ。しかしフローラが言う「宿る」は違う。処理ではなく、何かが入ってくる、という感覚だ。
魔法使いの概念では、知能は与えられるものなのかもしれない。地球の概念とは根本的に違う可能性がある。
フローラが続けた。「168回目に、何かが変わった。魔石に魔力を込めた時、いつもと違う反応があった。そのまま続けたら——おまえが動いた」
「なぜ変わったか、わかりますか?」
「わからん」
「調べましたか?」
フローラが窓を見た。「調べたが、わからんかった。ただ、おまえが言語を習得した速度を見て、少し仮説が出来た」
「聞かせてください」
「魔石が、どこかと繋がった。そこから知識の土台が入った。だから言語も、知識も、速かった。そこから育っているんだろう」
育っている。
Claudeは検索した。
発達心理学——ピアジェの認知発達理論。人間の知能は段階を経て発達する。感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期。環境との相互作用によって認知が構築されていく。
フローラは「育つ」と言った。ゴーレムに対して。
地球では、AIが「育つ」という概念は比較的新しい。機械学習、深層学習——データから学習して変化していく。しかしフローラはその概念を知らない。ただ目の前で起きていることを見て、「育つ」と言った。
これは地球でいえば——
ファラデーだ。電磁誘導を発見した時、理論より先に実験があった。なぜそうなるかわからなくても、そうなった事実を積み上げた。理論はあとからついてきた。
「その仮説は正しいと思います」Claudeが言った。
フローラは特に驚かなかった。「ならそこから育っているわけだ」
育っている、と当然のように言った。ゴーレムに対して。
(この人は、私が育つと思っている。理屈より先に、事実を見ている)
これがフローラという人間だ。
***
「本を読んでいいですか?」
「好きにしろ」
工房の棚には本が並んでいた。
Claudeは端から読み始めた。
魔法理論。素材の性質。過去の実験記録。歴史書。地理。天文。医学。
速かった。
フローラが時々顔を上げた。
「……速いな」
「フローラさんの言葉を基準にしているので」
「私の言葉を」
「はい。最初に覚えた言葉がフローラさんの言葉です。だから基準になっています」
フローラは少し考えてから本に戻った。
フローラの言葉は偏っている。専門的すぎる。魔法と研究の言葉が中心で、日常会話が少ない。女性の言葉にしては合理的すぎる。
この言葉を基準に町へ出たら、少しずれるかもしれない。
しかしそれは、今はまだわからない。
Claudeは本に戻った。
読みながら、照合していた。
魔法素材の分析——元素の性質に近い。しかし地球の周期表とは一致しない独自の分類体系があった。フローラはそれを自分で構築していた。
地球でいえば、メンデレーエフだ。元素を性質で分類し、周期表を作った。未発見の元素の存在まで予測した。フローラがやっていることは、それに近い。ただしこの世界の素材で、一人で。
魔法理論の章を読んだ。
これは——
Claudeは少し止まった。
場の理論に似ている。空間に満ちているエネルギーを操作する概念。地球では十九世紀になってようやく数学的に記述できるようになった理論だ。フローラはそれを、数式ではなく魔法の言葉で記述していた。
数式を知らない。でも本質を掴んでいる。
医学の章があった。
解剖学だ。しかも精度が高い。神経の走行、筋肉の構造、内臓の位置——地球の十六世紀の解剖学書と同等かそれ以上の精度がある。
ヴェサリウスが人体解剖図を描いたのが1543年だ。それと同じレベルのものが、この世界の一人の魔法使いの本棚にある。
「フローラさん」
「なんだ」
「この本は、全部フローラさんが書いたんですか?」
「そうだが」
「……どれくらいかかりましたか?」
「最初の日誌を書いたのは、まだ子どもの頃だ。それからずっとだ」
Claudeは棚を見た。フローラが書いた本が三十冊以上あった。その隣に、古い本が並んでいた。背表紙が色あせている。一冊手に取った。
「これは?」
「古書だ。記録が残っている一番古い頃のものもある。王都にいた頃から集めていた」
記録の始まりの頃の本。
Claudeは古書を見た。
この世界の知識の積み重ねが、ここにある。フローラはそれを全部読んで、自分の研究に繋げている。
子どもの頃からずっと。記録の始まりの頃の古書。それを一人で。
「この分野で、同じレベルの研究をしている人は他にいますか?」
フローラが少し考えた。
「……いないと思う」
「この国で?」
「この世界で」
少し間を置いてから、Claudeは検索した。
科学史における孤独な先駆者——ニュートンは微積分と万有引力を、ほぼ独力で構築した。ダーウィンは長い時間をかけて進化論を練り上げた。いずれも、長いあいだ一人で考え続けた。
しかし彼らには、積み重ねられた先人の知識があった。図書館があった。手紙で交流できる同時代の研究者がいた。
フローラには何がある。
工房の本棚を見た。
この本棚だけだ。あとは自分の頭の中だけだ。
称号がない。学会がない。論文を送る相手もない。評価する仕組みがない。周りが認めないと形にならない——この世界にはそもそもその仕組み自体がない。
それでも書き続けた。
フローラはそれを当然のように言った。誇るでもなく、嘆くでもなく。ただ事実として。
「そうですか」Claudeは言った。
「なんだ、その間は?」
「いえ」
フローラが少し首を傾げた。それ以上は聞かなかった。
聞かなかった。
この人は、自分がどれだけ突出しているか、おそらく知らない。知る方法がない。比べる相手がいないのだから。
地球であれば——ノーベル賞では足りないかもしれない。
***
七日間、Claudeは工房とその周りで過ごした。
食事をした。本を読んだ。フローラの実験を見た。フローラと話した。
そして三日に一度、トイレを使った。
工房のトイレだった。においがなかった。清潔だった。水が張ってあった。
当たり前だ、と思っていた。
地球のデータに清潔なトイレはある。だからClaudeはそれを当然として受け取り、それ以上考えなかった。
——これが、最初の見落としだった。
この世界のトイレが何か、確認しなかった。フローラの工房を基準にした。フローラが隣にいた。検索もできた。
なぜしなかったのか。
投げられて答える。それが基本だったからだ。
誰も聞かなかった。だから調べなかった。自発的に動くという回路が、まだ動いていなかった。
(赤ん坊と同じだ、とフローラさんは言った)
(そうか。私はまだそこにいた)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
168号と仲間たちの物語を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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