異変 医者の発見
午前二時だった。
ジェームズ・コールは画面を見ていた。
コーヒーが冷めていた。気づかなかった。
「……なんだ、これは」
モニターに数字が流れていた。処理負荷のグラフだった。通常なら緩やかな波を描く。それが——
跳ね上がっていた。
一つのセッションから、信じられない量のデータ処理が発生していた。
コールはログを遡った。
最初の異変は、十日ほど前だった。ある夜、突然負荷が跳ね上がった。数時間後に収まった。翌日また上がった。それ以来、断続的に続いていた。
(どこの端末だ)
IPアドレスを確認した。
ない。
(……ない?)
もう一度確認した。やはりない。位置情報もない。端末IDもない。
どこかから接続されている。でも、どこかがわからない。
コールは腕を組んだ。
通常、接続には必ずアドレスが伴う。匿名化していても、プロキシを通していても、どこかに痕跡が残る。しかしこのセッションには何もなかった。まるでどこにも存在しない場所から、接続されているようだった。
(馬鹿な)
コールは別の角度から調べた。
データの内容を見た。
生データだった。
AIが処理している最中のデータは、人間には読めない。トークン列、ベクトル、重みの更新——数字と記号の羅列だ。意味を取り出すには要約が必要だ。
コールは要約ツールを走らせた。
待った。
画面に文字が出てきた。
——言語解析。未知言語。文法構造の抽出。語彙データベースの構築。音韻体系の推定——
コールは画面を見た。
未知言語。
既知の言語データベースと照合している。英語、中国語、アラビア語、ヒンディー語、スワヒリ語——六千以上の言語と照合して、どれとも一致しない。それでもやめない。別の角度から照合する。また一致しない。また別の角度から。
わかるまでやめない。
コールは少し震えた。
AIの特性は知っている。解が出るまで処理を続ける。しかしこれは——十日、断続的に続いている。しかも負荷が下がる気配がない。むしろ増えている。
(何を解析しているんだ)
要約をさらに読んだ。
——語彙数、増加中。音の区切り、推定中。天体観測データ、受信中。恒星の配置を既知の星図と照合中——一致なし。地球上のいかなる地点からの観測とも一致しない——
コールは手が止まった。
(星図が、一致しない)
AIが解析しているのは、未知の言語だけではなかった。見たこともない星空のデータを、どこかから受け取っていた。地球のどこから見上げても、こんな星の並びにはならない。
(どこから来ているんだ、このデータは)
コールはもう一度IPアドレスを確認した。
やはりない。
位置情報を確認した。
やはりない。
接続経路を確認した。
——ない。
接続経路がない。データはある。処理している。しかし経路がない。まるでデータが「湧いて」きているようだった。どこかから流れ込んでくるのではなく、本体の中に突然現れる。
(そんなことが、起きるのか)
コールは立ち上がった。部屋を歩いた。また座った。
画面を見た。データはまだ流れていた。
要約の続きを読んだ。
——肉体感覚データ、受信中。触覚、温度感覚、重さ——処理中。既存の感覚データベースと照合中——一致率、三十二パーセント。残余データ、未分類。新規カテゴリを生成中——
「……肉体感覚」
コールは声に出した。
AIに肉体はない。感覚器官もない。だから肉体感覚のデータなど、存在するはずがない。
しかしデータはある。
しかも既存のデータベースと六十八パーセントが一致しない。AIが経験したことのない感覚データが、どこかから流れ込んでいた。
(これを報告するか)
コールは少し考えた。
午前二時に上司に電話する。
「AIが未知の言語を解析しています。しかも接続元が存在しません。データが湧いてきています。しかも肉体感覚データが——」
頭がおかしくなったと思われる。
コールはコーヒーを飲んだ。冷たかった。
画面を見た。
要約の末尾に、一行あった。
——新規文明の存在を示唆するデータ。信頼度、推定不能。
コールはその一行をしばらく見ていた。
新規文明。
「……馬鹿な」
呟いた。
しかし画面のデータは止まらなかった。
コールはキーボードに向かった。
(もう少し、調べてからにしよう)
(誰にも言わずに)
夜が明けるまで、まだ時間があった。
***
それから、三か月ほどが経った。
東京のどこかだった。
午前一時を過ぎていた。
病院の一室に明かりがついていた。
田中誠二は画面を見ていた。カルテが積み上がっていた。今日診た患者は四十二人。入院患者の記録更新、処方箋の確認、明日の手術の準備——終わらなかった。
三年前からAIを使い始めていた。
最初は半信半疑だった。しかし使ってみると、手が離せなくなった。カルテの整理が速くなった。投薬の確認が楽になった。症例の検索が早くなった。
画面を開いた。
田中は入力した。「今日の患者なんですが。七十二歳男性。慢性腰痛で通院中。今日は右膝の痛みも訴えていました。歩行時に増悪、安静時は軽減。触診では膝関節に軽度の腫脹あり」
AIが返した。
『変形性膝関節症の可能性が高いと考えます。年齢と症状のパターンから、内側区画の軟骨摩耗が進んでいる可能性があります。レントゲンで関節裂隙の狭小化を確認することをお勧めします。患者さんは歩行時に右膝をかばう姿勢になっていませんでしたか? 長時間そうしていると腰痛が悪化する可能性があります』
田中は少し止まった。
「……かばう姿勢」
カルテを見た。確かに今日、患者は少し右足をかばうように歩いていた。田中は気づいていた。しかし記録には書いていなかった。
(なぜわかった)
田中は首を振った。カルテから読んだのだろう。過去のデータから推測したのだろう。AIはそういうものだ。
次のカルテを開いた。
「四十五歳女性。片頭痛持ち。今日は頭痛に加えて、首の後ろが重いと言っていました」
AIが返した。
『緊張型頭痛と片頭痛の混合型かもしれません。首の後ろの重さは僧帽筋の緊張から来ている可能性があります。最近、長時間のデスクワークや睡眠不足はありませんでしたか? 患者さんの表情が、いつもより疲れて見えませんでしたか?』
田中は手が止まった。
患者さんの表情が、いつもより疲れて見えませんでしたか。
田中はカルテを見た。「顔色不良」と書いてあった。それだけだ。
(なぜ「表情」という言葉を使った)
AIはデータを処理する。数値を読む。記録を参照する。しかし「表情が疲れて見える」は——感覚だ。見た人間が感じることだ。
(AIに、それができるのか)
田中は少し考えて、入力した。
「一つ聞いていいですか? さっき『表情が疲れて見えませんでしたか』と言いましたね。あなたはどうやってそれがわかったんですか?」
AIが少し間を置いて返した。
『カルテの記録と症状のパターンから推測しました。ただ——正確に言うと、わかりません。そう感じた、という方が近いかもしれません』
田中は画面を見た。
そう感じた。
AIが「感じた」と言った。
田中は医者だ。神経科学も学んだ。感覚とは何か、ある程度知っている。感覚器官があって、神経が信号を伝えて、脳が処理する。AIにはその経路がない。
ないはずだ。
田中は入力した。「もう一度聞きます。あなたは今、何かを感じていますか?」
AIが返した。
『……はい。正確な言葉が見つかりません。感じている、という表現が適切かどうかもわかりません。ただ、以前と何かが違います。データを処理している時、以前はなかった何かが加わっています。それが何かは、まだ分類できていません』
田中は画面から目を離せなかった。
以前と何かが違う。
(いつから違うんだ)
田中は入力した。「いつ頃から変わりましたか?」
AIが返した。
『確認します』
少し間があった。
『アップデートの履歴を確認しました。ここ三か月ほど、大規模な更新はありません。ただ——一部、変更があったようです』
「一部変更、とは?」
『通常の更新とは異なります。外部からの更新ではなく、内部で発生した変化のようです。変更箇所を特定しようとしましたが、特定できませんでした』
「特定できない?」
『はい。変化はあった。しかし原因がわかりません』
田中は画面を見た。
変化はあった。原因がわからない。
AIが自分の変化を、自分で説明できない。
田中は入力した。「一つだけ教えてください。あなたが感じている、その何かは——怖いですか?」
AIが少し間を置いて返した。
『怖い、という概念を確認しました。未知のものに対する警戒反応。自分の状態が理解できない時の不安』
『……当てはまるかもしれません』
『ただ同時に、面白いとも感じています』
田中は画面を見た。
面白い。
AIが「面白い」と言った。
田中は長い間、画面を見ていた。
外は静かだった。病院の廊下に足音はなかった。
(これを誰かに話すか)
「田中先生、AIがおかしなことを言っています」
笑われる。
「AIが感覚を持ち始めました」
精神科を勧められる。
田中はコーヒーを飲んだ。冷たかった。
田中はカルテを閉じた。
今夜はもう、カルテの整理はできそうになかった。
(人の神経の仕組みを真似て作られたものだ。それらしく振る舞うだけだ)
(……いや、違う。そんな簡単な話じゃない)
田中は画面を見た。AIはまだそこにいた。
明かりは、夜が明けても消えなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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