第8話「雪見の露天風呂と、遠くで崩れる防壁」
温泉の源泉が湧き出たその日のうちに、村人たちの素早い連携によって見事な露天風呂が完成した。
小川の周囲を大きな川石でしっかりと囲い、冷たい風を遮るための簡素な木の丸太の壁を立てただけの野趣あふれる造りだ。
それでも、もうもうと湯気を立てる広く透き通った湯船は、村人たちにとって何よりの宝物となった。
その日の夕方、ノアは村長から「源泉を作り出した一番の功労者なのだから」と強く背中を押され、一番風呂に入ることになった。
ノアは丸太の壁の裏で衣服を脱ぎ、凍えるような寒さに身を震わせながら湯船へと向かう。
足元の土には白い雪がうっすらと積もり、踏みしめるたびに突き刺さるような冷たさが足の裏から全身へ伝わっていく。
ノアは寒さに身をすくめながら、石で囲われた湯船の縁に慎重に足をかけた。
立ち昇る白い湯気の中へ、足先からゆっくりと身を沈めていく。
肌を刺すような冷たい外気と、お湯の豊かな熱気が交差して、一瞬だけ皮膚の表面がピリピリと痺れるような感覚を覚えた。
しかし、肩まで深くお湯に浸かった瞬間、その痺れは全身の強張りを溶かすような極上の快感へと変わる。
「……ふうぅ」
ノアの口から、心の底からの深いため息が長く漏れ出した。
体の芯まで冷え切っていた骨と筋肉に、お湯の優しい熱がじんわりと染み込んでいく。
王都の地下室で何年もかけて蓄積された質の悪い疲労が、毛穴という毛穴からお湯の中へと溶け出していくようだった。
ノアはゆっくりと目を閉じ、滑らかな岩に後頭部を預けて手足を大きく伸ばした。
鼻腔をくすぐるのは、周囲の木々の香りと、お湯から立ち昇るわずかな鉱物の匂い。
目を開ければ、頭上には灰色の雲の隙間から冬の星が瞬き、白い雪が風に吹かれてゆっくりと舞い落ちてきている。
雪見の露天風呂という、前世の日本でも数えるほどしか経験したことのない最高の贅沢だ。
ふと、湯船の水面が大きく波打ち、盛大な水音が静かな風呂場に響いた。
目を開けると、ルーが大きな体を湯船に沈め、気持ちよさそうに犬かきのような動作でお湯の中を進んできた。
銀色の見事な毛並みがお湯を吸ってぺったりと張り付き、いつもより一回り小さく見える姿がおかしくて、ノアは声を上げて笑った。
ルーはノアの隣にやってくると、大きな顎を岩の上に乗せ、黄金の瞳を細めて低く喉を鳴らす。
一人と一匹は、舞い落ちる雪を眺めながら、ただ無言でその温かく満ち足りた時間を共有していた。
風呂から上がったノアが脱衣所で火を熾して濡れた髪を乾かしていると、丸太の壁の向こうからエルナの声が聞こえてきた。
「ノアさん、上がられましたか。冷たい果物を持ってきたのですが」
「ああ、ちょうど上がったところだ。今行くよ」
ノアが乾いた衣服を着て壁の裏へ回ると、エルナが木彫りの器に入った小さな赤い果実を差し出してきた。
雪の中で保管してあったのか、果実は薄い霜をまとってきらきらと輝いている。
ノアは一つ手に取り、そのまま口の中に放り込んだ。
温まりきった体に、果実の冷たい果汁と強い酸味が心地よい刺激を与えてくれる。
「とても美味しいよ。ありがとう、エルナ」
「いえ、私たちの方こそ感謝しています。あのまま水が凍りついていたら、この村の冬はどうなっていたかわかりませんから。それに、あのお湯に入った人たちは、みんな体の痛みが消えたって大喜びしているんです」
エルナの言う通り、ノアの放った浄化の炎は、お湯に触れる者たちの軽い怪我や病の症状すらも癒やす不思議な効果を持っていた。
村全体が、かつてないほどの活気と健康に満ちあふれているのだ。
ノアは焚き火の前に座り、エルナと他愛のない会話を交わしながら、この村に来て本当に良かったと心から思っていた。
その翌日の昼下がり。
村の広場に、雪にまみれた一人の若い狩人が命からがら逃げ込んできた。
彼は隣の大きな街の近くから、数日かけてこの村に辿り着いたのだという。
暖炉の前で温かいシチューを口にした狩人は、恐怖で瞳を震わせながら口を開いた。
「王都が……王都のインフラが、すっかり機能不全に陥ったらしい。魔導水道の管がすべて凍りついて破裂し、飲み水すら手に入らない状況だと聞いた。しかも、街を覆っていた結界の壁に大きな穴が空き、夜になれば下層の区画に魔物が入り込んでいるそうだ」
狩人の言葉に、村の広場に集まっていた村人たちは息を呑んだ。
堅牢な防壁と豊かな魔力で守られているはずの巨大な王都が、そんな悲惨な状況に陥っているなど信じられないからだ。
「宮廷の魔術師たちは、いったい何をしているんだ」
村長が顔をしかめて尋ねると、狩人は力なく首を振った。
「誰もわからない。ただ、魔導炉の火を維持できる者が一人もいなくなったという噂だ。貴族たちは責任の押し付け合いをして、街の修繕すらまともに進んでいないらしい」
その話を聞きながら、ノアは焚き火に薪をくべる手を一度だけ止めた。
魔導炉の火が維持できない。
それはつまり、自分が毎日灯していたあの小さな種火の代わりを、優秀な魔術師長レオンやその部下たちが誰一人として用意できなかったということだ。
『底辺職のスキルなど、なんの価値もないと言っていたのにな』
ノアの心に浮かんだのは、冷たい皮肉と、遠い世界での出来事に対するひどく淡白な感想だけだった。
彼らが今どれほど寒さと恐怖に震えていようと、ノアが手を差し伸べる義理はどこにもない。
ノアは視線を外し、足元で眠るルーの背中を優しく撫でた。
王都の防壁が崩れ去ろうとも、この村の周囲には決して揺らぐことのない温かな結界が張られている。
誰にも脅かされることのない、穏やかな雪見風呂のある日常。
ノアは静かに目を閉じ、薪が爆ぜる心地よい音に耳を傾け続けていた。




