第6話「冬の訪れと、届かない王都の冷気」
ノアが辺境の村ルーメンにやってきてから、さらに数週間の時間が静かに流れ去っていた。
季節は冬へと移行し、空は毎日重たい鉛色の雲に覆われるようになった。
北の山脈から吹き下ろす冷たい風は刃のように鋭く、森の木々を激しく揺らしている。
そしてついに、空から白い雪が舞い降りてきた。
最初こそ小さな欠片だった雪は、やがて大粒の牡丹雪へと変わり、村の風景をゆっくりと白く染め上げようとしていた。
通常であれば、この季節の辺境の村は厳しい寒さと、餌を求めて森から現れる魔物の脅威に震え上がる時期である。
しかし、今年の村の様子は例年とはまったく異なっていた。
村の広場に降り注ぐ雪は、地面に触れる前に溶けて水滴に変わり、やがてそれすらも乾いて消えていく。
ノアが結界灯に灯した純粋な魔力の炎が、村全体を巨大な温室のように包み込んでいるためだ。
村の中は冷たい北風すらもそよ風のように和らぎ、春の初めのような穏やかな気温が保たれていた。
ノア自身は、村の中央の広場に自分用の大きな焚き火台を作り、そこで毎日火を燃やしている。
彼はただ「みんなが作業の合間に暖を取れるように」という軽い気持ちで火を熾しているだけだった。
しかし、そのノアの火が結界をさらに強固なものにし、村の空気を徹底的に浄化していることなど、彼自身はまったく気づいていない。
ノアは自宅の暖炉の前に座り、購入したナイフを使って森で拾ってきた木の枝を削っていた。
特別なものを作るわけではなく、ただ無心に木を削るという作業そのものが心地よかった。
削り出された木の破片が、暖炉の火に照らされて明るいオレンジ色に光っている。
足元ではルーが大きな体を丸め、一定のリズムで重たい寝息を立てていた。
薪が爆ぜる軽快な音が響く室内は、外の寒空が嘘のように暖かく、平和な空気に満ちている。
すると、きしむドアをノックする音が聞こえ、エルナが顔を覗かせた。
「ノアさん、いらっしゃいますか」
「ああ、入ってくれ。どうしたんだ、こんな雪の日に」
ノアが手を止めて声をかけると、エルナの後ろから見知らぬ男が一人、部屋の中へと転がり込んできた。
厚手の毛皮のコートをすっぽりと被ったその男は、全身を震わせている。
髭には白い雪がこびりつき、鼻の頭を真っ赤にして何度も咳き込んでいた。
「王都から来た行商人の方です。村の入り口で倒れそうになっていたところを、村長が助けまして。とても寒がっていたので、一番暖かいノアさんの家に連れてきました」
エルナの言葉を聞き、ノアはすぐに立ち上がって暖炉の前のスペースを空けた。
「それは災難だったな。さあ、火のそばへ来て暖まるといい」
ノアが促すと、行商人は震える足取りで暖炉の前に這い寄り、かじかんだ両手を炎に突き出した。
純粋な魔力の炎から放たれる豊かな熱量が、男の冷え切った体を急速に温めていく。
行商人は何度か大きく深呼吸をした後、ようやく落ち着きを取り戻したように顔を上げた。
「あ、ありがとうございます……まさか、こんな辺境の村にこれほど暖かい場所があるとは思いませんでした。村に入るまでは、もう寒さで凍え死ぬかと思ったほどです」
「今年の冬は特別寒いからな。温かい茶でも飲むか」
ノアは暖炉の端で沸かしていた湯を使って茶を淹れ、木彫りのカップを行商人に手渡した。
行商人はカップを両手で包み込み、熱い茶を喉の奥へと流し込む。
息を吐くたびに、彼の強張っていた表情が少しずつ柔らかくほぐれていくのがわかった。
「いや、本当に助かりました。王都からの旅路は、例年になく過酷なものでして……」
「王都から来たのか。あそこも、ずいぶん寒くなっているだろうな」
ノアが何気なく尋ねると、行商人はカップを持った手を止め、深い顔のしわを寄せて首を横に振った。
「寒いなどという生易しいものではありませんよ。王都は今、とんでもない混乱に陥っています」
「混乱?」
「ええ。王都の空を覆っていた巨大な防壁結界が、突然ひどく弱まってしまったんです。おまけに、街を照らしていた魔法灯の明かりも次々と消え去り、夜になれば真っ暗闇です」
行商人の言葉に、ノアはわずかに眉を動かした。
「それは奇妙な話だな。王都には優秀な魔術師たちがたくさんいるはずだ。魔導炉の種火さえ絶やさなければ、そんなことにはならないだろうに」
「それが、宮廷の魔術師たちがいくら魔力を注いでも、魔導炉の炎はすぐに消えてしまうのだそうです。街のインフラは機能を停止し、貴族たちは冷え切った屋敷の中で震え上がっているとか。魔物への防壁も薄れ、いつ街のなかに魔物が侵入してくるかわからない恐怖で、誰もが怯えています」
行商人は自分の両腕を抱きかかえるようにして身震いをした。
その話を聞きながら、ノアの心に浮かんだのは「大変だな」という他人事のような感想だけだった。
自分が毎日点けていた小さな火が、実は王都のインフラのすべてを支えていたなどという事実に、ノアの思考が結びつくはずもない。
『俺の後釜に入った魔術師も、あの理不尽な魔術師長の下で苦労しているんだろうな』
ノアはカップの茶を一口飲み、静かに息を吐いた。
王都の冷たい地下室で、凍える指をこすり合わせながら火を灯し続けていた日々。
理不尽な解雇を言い渡されたときの、宮廷魔術師長レオンの冷酷な目。
それらはもう、今のノアにとって遠い世界の出来事に過ぎなかった。
「王都の連中も大変だな。まあ、俺たちには関係のない話だ」
ノアはそうつぶやき、足元で眠るルーの背中を優しく撫でた。
王都の貴族たちがどれほど震えていようと、ノアの知ったことではない。
彼らは自らの意思でノアを追い出し、ノアは自らの足でこの温かい居場所を見つけたのだ。
外の世界がどれほど凍てついていようとも、ノアの周囲には決して消えることのない温もりが満ちている。
窓の外では、依然として灰色の空から白い雪が舞い降りていた。
しかし、その冷たい雪がノアの穏やかな日常を脅かすことは、決してないのだった。




