第5話「共有のオーブンと、村を包む温かな光」
翌朝、ノアは鳥のさえずりよりも先に、微かに鼻をくすぐる香ばしい匂いで目を覚ました。
隙間風の入り込まない修繕されたばかりの廃屋の中は、昨夜の暖炉の熱がしっかりと残っていて十分に暖かい。
隣で丸くなっていたルーが、前足を大きく伸ばして気持ちよさそうにあくびをした。
ノアはルーの分厚い銀色の毛並みを軽く撫でてから、ゆっくりと体を起こす。
修繕した床板は、歩いても昨日までのような嫌なきしみ音を立てることはなかった。
ノアは水筒の冷たい水で顔を洗い、身支度を整えてから外の空気を吸いに出る。
ルーもまた、当然のようにノアのすぐ後ろをピタリとついて歩いてきた。
村の中心部へと向かう土の道は、昨日よりも硬く締まっているように感じられる。
すれ違う村人たちの顔には、もはやノアに対する警戒の色は微塵も残っていなかった。
彼らはノアの顔を見ると農作業の手を止めて、次々と気さくな朝の挨拶を投げかけてくる。
ノアもその一つ一つに、ぎこちないながらも穏やかな笑顔でうなずいて返した。
王都の冷たい石畳の上では、誰かとすれ違っても視線を交わすことすらなかったのだ。
広場に到着すると、そこにはレンガを高く積み上げて作られた巨大な共有のオーブンがあった。
村の女たちが持ち寄ったパン生地を焼き上げるための、村の生活に欠かせない重要な設備だ。
しかし、オーブンの前ではエルナと数人の女たちが、困ったような顔で顔を見合わせている。
エルナの白い頬には黒いすすがいくつか付着しており、彼女が何度も火を起こそうと悪戦苦闘した痕跡をはっきりと物語っていた。
「どうしたんだ。何かトラブルか」
ノアが声をかけると、エルナは振り返って少しだけ安堵の表情を浮かべる。
「あ、ノアさん。実は、昨夜少しだけ降ったみぞれのせいで、オーブン用の薪が湿ってしまったんです。何度火打石を叩いても、煙が出るばかりでちっとも火が点かなくて」
オーブンの入り口からは、目に染みるような白い煙が頼りなく立ち昇っているだけだった。
これではパンを焼くどころか、冷え切った炉の中を温めることすらできないだろう。
ノアはオーブンの前に進み出て、レンガの隙間から中を覗き込んだ。
確かに、積み上げられた薪は表面が濡れて黒ずみ、火種を頑なに拒絶している。
「俺のスキルで良ければ、火を点けてみようか。ただの火熾しだが、少しは役に立つかもしれない」
ノアがそう提案すると、エルナたちは驚いたように目を丸くした。
「魔法で火を点けていただけるんですか。でも、魔力を使うのはとても疲れると聞いたことが……」
「気にしなくていい。俺のスキルは、こういう日常の雑用にしか使えないささやかなものだからな」
ノアはそう言って苦笑し、オーブンの入り口に右手をかざした。
目を閉じ、静かに呼吸を整えて体内の魔力を指先へと集めていく。
血管のなかを温かい血液が巡るような感覚とともに、右手の親指と人差し指の間に小さな熱が生まれる。
小さくはぜる音とともに、オレンジ色の美しい炎がノアの指先に灯った。
ノアはその小さな炎を、湿った薪の隙間へとそっと滑り込ませる。
普通の火であればすぐに消えてしまうような湿気の中にあっても、ノアの生み出した【灯火】は決して揺らがない。
炎は意思を持った生き物のように薪の表面を這い上がり、一瞬にして水分を白い蒸気へと変えていく。
薪が爆ぜる小気味よい音とともに、炎はまたたく間に炉の中全体へと燃え広がった。
オレンジ色の明るい光が、オーブンの内側を力強く照らし出す。
炎から放たれる豊かな熱量が、エルナたちの顔をふわりと温かく包み込んだ。
ノアの放った炎は、単に薪を燃やしただけではない。
炉のレンガに長年染み付いていた微かなカビや汚れすらも、純粋な魔力の炎が残らず焼き尽くして浄化していた。
不純物をすべて取り除かれたオーブンは、今まで以上に効率よく熱を保つことができるようになっている。
エルナたちは信じられないものを見るような目で、勢いよく燃え盛るオーブンの炎を見つめていた。
「すごい……こんなに早く、しかもこんなに力強い火が点くなんて」
「これなら、すぐにパンが焼けるよ。ありがとう、ノアさん」
村の女たちが次々と感謝の言葉を口にし、エルナも嬉しそうに何度も頭を下げる。
やがて、オーブンから焼き上がったばかりのパンの香ばしい匂いが広場全体に漂い始めた。
その匂いに誘われるように、村の広場にはいつの間にか多くの村人たちが集まっていた。
村長が杖をつきながらゆっくりと歩み寄り、ノアの肩を優しく叩く。
「いやはや、あんたの手際の良さには驚かされたよ。まさか、魔法使いの類だったとはな」
「ただの生活の知恵みたいなものです。戦いや狩りに使えるような立派な魔法じゃありませんから」
ノアが謙遜して言うと、村長は温厚な顔つきのまま深くうなずいた。
「それでも、あんたの火はとても暖かくて優しい。村の者たちも、すっかりあんたのことが気に入ったみたいだ」
村長はそう言って、広場の入り口に立てられた古い鉄のランタンを指差した。
それは魔物避けの結界を張るための古い魔導具だったが、今は魔石の力が弱まり、薄暗い光を放つばかりになっている。
「実は、あの結界灯の魔力が切れかかっているんだ。王都から新しい魔石を買う金もなくてな。あんたの火で、あれを灯してはもらえないだろうか」
「俺の火でいいなら、もちろん構いませんよ」
ノアは二つ返事で引き受け、古いランタンの前へと歩み寄った。
錆びついた鉄の扉を開け、中の古い魔石に指先を触れる。
再び体内の魔力を練り上げ、オレンジ色の小さな炎を魔石へと注ぎ込んだ。
その瞬間、ランタンが太陽のように眩い光を放ち始めた。
ノアの純粋な魔力は、古い魔石の濁りを一瞬で浄化し、限界以上の出力を引き出していた。
温かみのあるオレンジ色の光が、村全体をすっぽりと包み込むように広がっていく。
目には見えないが、村の周囲には王都の防壁すら凌駕する揺るぎない聖域が構築されていた。
冷たい風に乗って漂っていた森の瘴気が、村の境界線で弾かれて消滅していく。
村人たちはその目覚ましい光の輝きに息を呑み、そして一斉に喜びの声を上げた。
夜になれば魔物の影に怯えていた彼らにとって、これほど心強い光はない。
「ありがとうございます、ノアさん。これであの恐ろしい夜の森に怯えなくて済みます」
エルナが焼き上がったばかりの大きな丸いパンを二つ、ノアの手に押し付けるようにして渡してきた。
焼きたてのパンの表面からは、手袋越しでもわかるほどの豊かな熱が伝わってくる。
ノアはパンの温もりを両手でしっかりと受け止め、かすかに顔をほころばせた。
王都の地下室でどれだけ魔導炉に火を灯し続けても、誰一人としてノアに感謝の言葉をかける者はいなかった。
それが今、目の前の村人たちは心からの笑顔でノアに感謝を伝えてくれている。
ただ火を灯しただけで、こんなにも誰かに喜んでもらえるのだという事実が、ノアの胸の奥を熱くした。
彼は足元でしっぽを振っているルーの口元に、ちぎったパンの欠片を運んでやる。
ルーは嬉しそうにパンを飲み込み、ノアの手のひらをざらついた舌で舐めた。
ノアは村人たちの温かい声に包まれながら、自分にもようやく本当の居場所ができたのだということを、静かに噛み締めていた。




