第二十一夜 悪魔と契約した男 —代償—
第二十一夜 悪魔と契約した男 ―代償―
意識が浮かび上がるまで、海斗は泥の底にいた。
瞼を開けると、天井の木目が滲んで見える。
(ここは……センセの病院、か……)
見慣れたはずの部屋が、どこか遠く感じる。
身体中が重い。指を動かすことすら億劫だった。
「海斗っ!」
声に視線を向けると、恵が椅子から身を乗り出していた。
「恵……」
「もうっ……バカッッ!」
恵が海斗の胸に顔を埋めた。
「うっ……」
「心配、したんやから!」
その細い肩は震えていた。
海斗の胸がチクリと痛む。
「心配かけたな……恵」
海斗は、恵の頭に手を乗せ、優しく撫でた。
「ほんまや! あほっ!」
顔を上げない恵の頭を、海斗は撫で続けた。
恵の髪から香る柔らかな匂いに、ようやく帰ってきた気がした。
恵の後ろには、陸と亮太の顔も揃っていた。
「俺、先生呼んでくるわ」
そう言って、亮太は部屋を出て行った。
「陸……俺、どんだけ寝てたんや」
「丸二日だ」
「……マジか」
海斗は身体を起こそうとするが、身体中に走った痛みに顔を顰めた。
「いたたっ、こら全身筋肉痛やな」
「急に動くと痛むぞ」
「陸は平気なんか?」
「俺は一晩で回復した」
「……さすがやな」
顔を上げた恵の手を借りて、ベッドに座ることができた。
程なく廊下から、部屋に近づく足音が聞こえてきた。
「お、やっと起きたね」
顔を出したのは、美作だった。
「外傷はほとんどないけど、相当筋肉を酷使したんだね」
「センセ……ありがとな」
「いいんだよ。お説教は恵ちゃんがしてくれただろうから」
恵が顔を赤らめた。
「恵……」
海斗は真剣な表情で、恵を見つめた。
「な、なに?」
「あのな……」
「う、うん……」
「俺――めっちゃ腹減っとる」
「もうっ……あほっ!」
セリフの割に、恵の言い方は優しかった。
「ちょうど夕飯時か……先生、ちょっとキッチン借りるわ。亮太も手伝って!」
バタバタと、今度は恵が亮太を連れて部屋を出ていった。
すぐにキッチンから、恵の声だけが飛んできた。
「先生ーー。メモ書くから、買い物行ってきて!」
「はい、かしこまりました」
海斗たちは、視線を交わし恵にバレないように笑い合った。
用意された大量の食事を、海斗はすごい勢いで口に入れていく。
恵は、その様子を満面の笑みで見つめていた。
おかずを取り分けながら、鼻歌まで口ずさんでいる。
海斗のスマホが鳴ったのは、食事を終えたばかりの時だった。
画面に浮かぶ「明神」の文字を見て、海斗はすぐに反応した。
「明神のおっさん!」
『海斗くん、目ぇ覚ましたんやな』
「あぁ、おかげさまでな。で、そっちは?」
『……ちょっと、妙なことになっとる』
明神の声には、いつもの軽さがなかった。
乾いた声。
長年追っていた犯人を、捕まえたという喜びは、その声からは感じ取れなかった。
「妙ってなんや?」
『会った方が早い。悪いが、来てくれるか?』
「分かった」
『すまない……今からタクシーを手配する』
電話はそれだけで切れた。
海斗は陸と顔を見合わせた。
「陸、警察からの呼び出しや」
「フッ……なら、正装しないとな」
おどける余裕のある海斗たちとは対照的に、恵は眉を顰めた。
「海斗……ほんまに大丈夫なん?」
「心配すんな。もう犯人は捕まっとるんやから」
「……ほんまに?」
恵の右手が、海斗の服をつかんでいた。手の震えが海斗に伝わる。
海斗は自らの手で、恵の手を包み込んだ。
「大丈夫や。全部片付いたら、ちゃんと説明したるからな」
「……うん」
「亮太、帰りは送ったれよ」
「分かってるで、任せとき!」
恵はそれでも不安そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
警察病院の廊下は、消毒液の匂いが染み付いていた。
佐伯に案内され、海斗と陸は夜の病院内を進んでいく。
病室の前には、警備の警官と明神が待っていた。
「明神のおっさん……木崎は?」
「こん中や」
「なら、早速対面といこか」
明神に続いて、海斗たちも中に入る。
しかし海斗は一瞬、部屋を間違えたのかと思った。
ベッドに横たわっていたのは、どう見ても老人だった。
白髪で、深く刻まれた皺。
骨の形が浮き出るほど痩せた頬。
点滴の管が、枯れ枝のような腕に刺さっていた。
「……木崎、は?」
思わず、もう一度同じ言葉が口から出た。
「……これが、今の木崎や」
明神の声が重く響いた。
海斗は、老人の顔をもう一度見た。
(木崎は三十五歳やったはず……しかし、これは)
木崎の面影だけが、辛うじて残っている。
「なんや、これ……」
海斗の背筋を、冷たいものが這い上がってきた。
「医者の見立てやとな……木崎の身体の状態は、八十代の老人と変わらんらしい」
「なんやて……なら、悪魔との契約とやらで、若さを維持しとったんか?」
「戸籍は本物や。木崎は三十五歳、それは間違いない」
「なら……一体……」
「悪魔から、命を与えられていたのだろう」
断言した陸に、全員の視線が集まった。
「何らかの事情で、悪魔から命を与えられていた。その契約が切れたから、命が尽きようとしている。そうじゃないのか――狼鬼」
「えっ」
「――そういうことだ」
陸は部屋の隅に視線を送った。
すると、そこに女型の狼鬼が立っていた。
「い、いつの間に!」
「俺は、もう驚かんぞ……」
明神たちの軽い狼狽を、狼鬼は気にせずに言葉を続けた。
「おそらく、命そのものを繋ぎ止めておったのだろう。それを絶った」
「なら……こいつは、いつから」
「本人に、直接聞くとしよう」
「いや、せやけど……」
「黙っておれ、小僧」
狼鬼は木崎に近づくと、右手をかざした。狼鬼の手のひらが、わずかに光を帯びていた。
すると――木崎の瞼が開いた。
濁った瞳が、天井の一点を見つめていた。
「一時的に意識を引き戻した。あまり、長くは持たんがな」
明神が頷き、一歩前に出た。
「木崎京吾さん」
明神の呼びかけに、木崎は緩慢に首を動かした。
「……あなたたちは」
掠れた声。三十五歳の男の声ではなかった。
「……あれから何日経ちましたか?」
「二日です」
「そう、ですか……」
木崎の声に抑揚は無かった。
感情を映す力すら、もう残っていないようだった。
「話、聞かせてもらえますか?」
明神の問いかけに、木崎はしばらく黙っていた。
窓の外を眺めるように、視線を彷徨わせている。
そして、ポツリと話し始めた。
「……物心つく前、私は死にかけていたらしいです」
両親から聞かされた話だという。
重い病で、何度も危篤になった。
医者からも、助からないと言われていた。
「その頃の記憶は、ほとんどありません。だけど、一つだけ」
木崎の瞳が、遠くを見た。
「暗闇の中で、何かに問いかけられた」
『生きたいか』
「生きたい」
『何を犠牲にしてもか』
「うん――生きたい」
木崎は答えた。
応えてしまった。
「それだけでした。それが、契約だったんですね……」
「その、木崎さんは悪魔との契約を覚えていたんですか?」
「いいえ、覚えていませんでした。でも、あの夜――悪魔と繋がった瞬間に、契約の全てを思い出したんです」
海斗は、拳を握りしめた。
しかし、何も口を挟まなかった。
「自分の命を延ばす代わりに、他人の魂を差し出す、そういう契約だった。だけど……」
木崎は目を伏せた。
「あの頃の私に、そんな意味は分からなかった!」
全員が、木崎の次の言葉を待っていた。
「成長してから、周期的に苦しむようになりました……」
身体の奥から、押し潰されるような激しい痛み。
そして、猛烈な――人を殺したいという衝動。
病院に行っても、無駄だった。
「長い間抵抗していました。だけど――」
初めて木崎の声が震えた。
「ある時、とうとう殺してしまいました」
その瞬間、全ての苦痛が消えた。
「……私は自覚しました。他人を殺さないと、私が壊れると」
海斗は何も言えなかった。
部屋の空気が、氷のように冷たくなっていた。
「そして……いつからか、自分から標的を選ぶようになっていました」
木崎の目に、初めて光が戻った。
だがそれは、生きるための輝きではなかった。
「……私は、ただの殺人鬼です」
縋るような声ではなく、己を裁くように言った。
「貴様の命は残り短い。覚悟しておくことだな」
「はい……せめて、この命が尽きるまでは償いたいと思います」
死を宣告されて、尚も償いを口にする。それこそが木崎という男の罰だった。
木崎の目から涙が溢れる。
流れていく涙を、海斗は黙って見ていた。
(同情する部分もある、やけど……)
「木崎……中元さんはどないした?」
「……殺しました」
海斗は目を閉じて、拳を強く握った。
(光、すまん……)
「木崎さん、これから協力してくれますね?」
「はい、それが私の償いです」
明神は事務的に告げた。
それでも眼差しは柔らかい。
「明神のおっさん……光には、俺から告げたる」
「……任せたで」
海斗は、静かに事件の終わりを感じていた。
「明神さん、ちょっと待ってください」
「どうした、陸くん」
突然声を出した陸に、訝しげな視線が集まった。
「もう一つ、確かめたいことがある」
「それは?」
「木崎さん――死体はどうした」
一瞬、部屋の中の時間が止まった。
明神と佐伯の表情が変わる。
後回しにしていた疑問が、改めて形を持った。
「……そうだ。木崎さん、どうなんだ?」
「私には……分かりません」
「なんやと?」
木崎の答えに、明神の眉が跳ね上がった。
「本当なんです。私には死体がどうなったか、分かりません」
自分で殺しておきながら、その行方すら知らない。
目の前に広がる闇が、一段と深くなり海斗たちに迫る。
「どういうことや?」
明神の口調は丁寧さを失くし、素に戻っていた。
「協力者が……いたからです」
「共犯がいたんか?」
「そうとも言えます」
苛立ちを隠そうともせず、明神が問い詰める。
「誰や、それは? 名前は? 連絡手段は?」
「会ったことはありません。名前は――」
木崎は、しばらく沈黙した。
「……M」
「M?」
「そう名乗っていました」
「それが、そいつのイニシャルか?」
「いえ……マーダーのMだ、と笑っていました……」
部屋の空気が、粘度を増したように重くなった。
(M……)
海斗はその一文字を、頭の中で繰り返した。
背中にじわりと汗が滲む。夜の部屋が、急に暗く感じた。
木崎は捕まり、悪魔もこの世界から消えた。
しかし――M。
海斗の中で、その一文字が黒い染みのように残った。




