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名もなき怪異の夜  作者: 早谷 蒼葉


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20/24

第二十夜 悪魔と契約した男 —契約—

第二十夜 悪魔と契約した男 ―契約―


 鞘から放たれた刀身は曇りがないほど白く、わずかな青の輝きを帯びていた。

 刃紋は、波のように揺れている。


「これが、お前を斬る刃(やいば)や」


 刀を向けられた悪魔の喉から、低い唸りが漏れた。


(今の……悲鳴か?)


 木崎(きざき)の輪郭が、明確に震えた。

 悪魔が海斗を見ている。今までとは違う目で。


「陸、もう大丈夫や」

「あぁ、任せたぞ」


 海斗は我翔澪(かっとび)を構える。

 柄の重みが手に馴染んでいる。

 振ったこともないはずなのに、身体が知っていた。


 木崎が動いた。

 狼鬼(ろうき)相手に見せた速度と、同じかそれ以上。


 だが――


(――見える)


 木崎の右足が地面を蹴る瞬間。

 肩の落ち方。

 拳の起こり。

 嫌というほど叩き込まれた起こりの見極めが、勝手に働く。


 木崎の右腕が、顔の横を通過した。

 頬をかすめた風が熱い。


(直撃したら……終わっとるな)


 生命のやりとりをしている。それなのに、胸の中は冷めていた。

 今まで見えていなかったものが、輪郭を持って見える。


 再び、木崎の拳が海斗をめがけて走った――




「剣道って……海斗が?」

「そうだよ」


 恵(めぐみ)の問いに、美作(みまさか)はどこか懐かしそうに笑った。


「海斗は、周りが驚くほど上達が速かった」

「……そんなに、凄かったん?」

「うん。周りの大人たちは、本気で将来を期待していたよ」


 笑顔のまま、美作は窓に目を向けた。


「海斗はね――天才、と言われていたんだ」




 木崎の拳が空を切り、海斗はすれ違いざまに峰の部分で打ち据える。

 そして、そのまま悪魔へと踏み込んだ。


 忘れたはずの間合い。

 忘れたはずの足運び。

 しかし、身体が覚えていた――


 一閃。


 黒い瘴気が、血飛沫のように散った。

 海斗の耳に、くぐもった呻き声のようなものが届いた。


(――入った)


 悪魔が仰け反る。

 山羊の目が、初めて苦悶に歪んだ。


「ほう……」


 狼鬼が壁に背を預けたまま、口の端を上げた。


「ようやく届いたか、小僧よ」


 悪魔が翼を広げた。

 その巨大な翼から、禍々しい瘴気が立ち昇る。

 工場内の空気が、全て飲み込まれるほどの圧力。

 陸の結界に、亀裂が奔る。


「海斗! 俺は工場全体の結界に集中する」

「くっ……こやつ、真に下級悪魔か?」


 陸と狼鬼が、同時に声を上げた。

 海斗の手元が、ピクリと反応した。


 今度は、大きく力を込めて踏み込む。

 腕を脱力し、一瞬だけ力を集める。


 振り下ろした刃が――空気を割った。


 空気すら切り裂く、迷いのない斬撃。

 その一撃は、大地を震わせる。

 悪魔の両翼が、身体から分断された。


 耳障りな叫びが、空気を震わせる。

 人のものでも、獣のものでもない。ただ、痛みだけがあった。


「……やるではないか、小僧」


 狼鬼の口元に、僅かながら笑みが戻った。


「しかし、なぜ悪魔があれほど苦しんでいる? 視えているのは、ただの霊体だろう?」

「小僧の刃が、別の次元にいる本体にも届いておるからよ」

「……そういうことか」


 しかし――


「小僧、あまり派手にやるな! こっちの守りがもたん」

「そう言われてもな……これでも全力は出してへんぞ」

「……ほう」


 狼鬼のこめかみがピクリと反応した。


 木崎は立ち上がり、海斗を目掛けて突進する。

 同時に悪魔も動いた。


 二人から攻め立てられ、海斗は受けることに専念するしかない。


(くそっ……! 木崎はともかく、悪魔はやりにくいわ)


 人とは違う間合いが、海斗を苦しめる。

 腕や足の可動域が、人間のそれではない。

 さらに、木崎が常に海斗と悪魔の間に位置取ってくる。


「っ……邪魔や!」


 振り下ろした我翔澪を、寸前で止める。

 だが、木崎は瞬き一つしない。


「海斗。おそらく、木崎は殺人犯だ」

「……そうやろな」

「だとしても――斬るなよ」

「分かっとる。俺は、裁くために来たんとちゃうわ」


 海斗の額に汗が滲む。


(さて……どないする)


 嵐のような猛攻を全て受け流し、木崎を観察する。


 すると――


(ん? なんやあれは?)


 木崎の背中から、一本の黒い鎖が悪魔へと伸びているのが視えた。

 現実に存在するものではない、霊力の鎖。

 時折、虚空に溶けるように姿を消すが、確かに二人を繋いでいる。


 狼鬼が、その視線にいち早く気がついた。


「小僧、お前にも視えるか」

「あの鎖のことか?」

「そうだ」

「あれは、一体……」


 そう言いかけた時、ほんの僅かに海斗の集中が切れた。

 首元にゾワっとした悪寒が走る。


「しまっ……!」


 海斗は、咄嗟に身体を硬くする。

 次の瞬間には身体に衝撃を受け、激しく吹き飛ばされた。


「海斗!」


 陸が叫び、海斗の身体を全身で受け止めた。

 結界の亀裂が音を立てて、さらに広がった。


 狼鬼が、顔をしかめて前に出る。


「ちっ、未熟者が」


 悪態をつきながら、狼鬼は右手を床に付けた。

 コンクリートの床が剥がれ、木崎を悪魔ごと包み込んだ。

 中から拳を打ちつける音が聞こえるたびに、ヒビが入る。


「長くは持たんの」


 狼鬼は小さく呟くと、振り返った。

 その目の鋭さに、海斗は圧倒される。


「愚か者! 敵を前に気を逸らすやつがあるか」

「……ごちゃごちゃ、話しかけてくるからや」


 狼鬼は大きくため息をついた。


「よいか。お前の刃で、あの鎖を斬れ。あれは契約の鎖よ」

「それで悪魔を倒せるんか?」

「そうではない。契約を破棄させるのだ」


 陸が目を見開いた。


「狼鬼、それは……」


 何か言いかけた陸を、狼鬼は手を上げて制した。


「陸よ、何が起こっても、それはあの人間の自業自得よ」

「……」

「どういう意味や?」


 陸は顔を逸らした。

 狼鬼は、真正面から海斗の目を捉えた。


「小僧、ひとまず我の言った通りに動け」

「お、おう。けど、木崎が邪魔してくるで」

「それごと斬ればよい」

「だから、それは……いてっ!」


 至近距離で話していた狼鬼が、海斗に頭突きを喰らわせた。


「よいか、契約の鎖は霊体なのだ。肉体を持つあの人間とは違う次元にある」

「……お、おう?」

「貴様の刃は、そのどちらも斬ることができる。ならば、斬るものを選べばよい」

「いやいや、簡単に言うなや。そんな器用なこと――」


 狼鬼の目が、細くなった。


「すでにやっておる」

「……は?」

「あの下級悪魔の翼を斬り飛ばしたではないか」


 海斗は、手にした刀に目を落とした。

 陸がその手にそっと触れた。


「海斗、我翔澪はお前の意志に従っている」

「……俺の意志?」

「そうだ。肉体、魂、霊体、その全てに届く刃。それが――我翔澪だ」


 海斗は我翔澪を握り直した。

 青白い光が、呼吸するように刀身を流れていた。


「……やるしかねえな」

「できなければ、貴様が死ぬだけだ」

「あぁ、そうやな」


 海斗の口角が、勝手に上がった。

 顔を上げると、狼鬼が作った壁はすでに崩れかけ、隙間から木崎の顔がのぞいている。


「海斗、我翔澪が……!」


 陸の声が、我翔澪の異変を伝える。

 先ほどまで綺麗な日本刀だった刀身が、変形し刀としての形を成していなかった。


「限界が近いの……我も貴様も」


 狼鬼は汗を滲ませたまま、妖艶な笑みを浮かべた。


「海斗、今度は俺が我翔澪を安定させる」

「頼むで、陸……次の一撃で仕留めたるわ」

「心配はしていない」

「俺もや」


 海斗と陸の視線が交錯する。

 それは一瞬のことで――海斗が動いた。

 腰を落とし、我翔澪を構えながら、木崎へ真っ直ぐ突進する。

 すでに、我翔澪は元の形を取り戻していた。


 その時、コンクリートを四方へと吹き飛ばし、木崎が悪魔と共に現れた。

 海斗はすぐさま距離を詰める。


「行くで!」


 木崎は、悪魔の盾になるように立ち塞がった。

 それに構わず、海斗は正面から対峙する。

 そして、躊躇せず踏み込んだ。


「悪いな、斬るぜ――」


 海斗は、木崎ごと我翔澪を振り抜いた――


 全ての音が止んだ。誰も動けない。


 血は……出ていない。


 そして、その背後で黒い鎖だけが、真っ二つに断たれた。

 契約の鎖が切れた瞬間、木崎の全身から黒いものが一気に抜けていくのが視えた。


 悪魔の口から、声にならない声がほとばしる。

 断末魔なのか、怒声なのか――それすらも分からなかった。


「小僧、下がれ!」


 狼鬼が叫ぶ。

 すると突然、悪魔の背後の空間が裂けた。

 悪魔はその裂け目へと、引きずられるように消えていく。

 そして、悪魔は叫ぶのを止めた。


「これで、終いや――」


 悪魔は、海斗を睨んだ。

 山羊の目が、海斗を映している。

 何も言わない。

 だが、裂け目に消える間際、その目が歪んだように見えた。


(笑ったんか……?)


 分断された鎖が最後まで空間に残り――やがて、それも消えた。


 工場内に静寂が満ちた。

 誰もが、しばらく動かなかった。


「俺たちの勝利、だな」


 陸が海斗の肩に手を置いた。


「せやけど……倒してはおらん」

「この世界から追い出した、それで十分だ」


 木崎にまとわりつく黒いものも、少しずつ消滅していく。

 そして木崎は、力なく崩れ落ちた。

 

 海斗も、我翔澪を維持できなくなっていた。

 膝が折れ、力が抜けていく。

 刃が光に変わり、澪(みお)へと戻っていった。


「ありがとな――澪」


 返事はない。ただ、寄りかかる重みを感じた。


(無理、させたな……)


 海斗は、澪の肩を抱くように支えた。


 陸も結界を解く。

 しばらくすると、明神(みょうじん)と佐伯(さえき)が意識を取り戻した。

 三島(みしま)も、脈がある。生きていた。


「……あの悪夢は、終わったんか?」 


 明神の声が掠れていた。


「まぁ、一応な」


 海斗は木崎を見下ろした。

 木崎の目には、普通の色が戻っていた。どこにでもいる、普通の男の顔。


「……こいつも、ある意味犠牲者かもしれんで」

「だとしても、俺は職務を全うするだけや」


 ふらつきながらも明神が、その両手に手錠をかけようとする。


 海斗は、瞼を閉じる。


 木崎の両手に、手錠がかけられた。


 海斗はその音を、遠い国の出来事のように感じていた。


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