第十九夜 悪魔と契約した男 —悪魔—
第十九夜 悪魔と契約した男 ―悪魔―
木崎の背後で、それが姿を現そうとしていた。
海斗は息を呑んだ。
喉の奥が、急速に冷えていく。
(何が……出てくるんや)
空間が、陽炎のように揺らいでいる。
そこに何かがある。輪郭が像を結ばない。
だが、確かに――気配が濃い。
「陸……感じるか?」
「いや、まだだ」
やがて、それは形をなし、海斗たちの前に姿を現し始めた。
山羊の頭。
漆黒の翼。
人間の身体。
(夢で見た……あれと、同じや)
それを海斗が理解した瞬間――
かつてないほどの圧と、瘴気が漏れ出してきた。
味わったことのない重圧。
海斗の身体が一気に重くなる。
(なんや、これ……八十藏以上、か……)
夢の中とは違う、絶望的な現実感が迫ってくる。
「あ……悪魔」
明神が床に座り込んでいた。しかし、その言葉を発した途端に、白目を剥いて崩れ落ちた。
(明神のおっさんにも、視えとるんか……?)
隠す気配が一切ない。
存在そのものが、霊力を撒き散らしていた。
「俺も……身体が動かん」
海斗は、立っているのも辛いほどの重力の中にいた。足が前に動かない。
喉は乾き切っているのに、汗は全身から流れていた。
空気が薄く、上手く呼吸ができない。
壁が軋み、床が揺れる。
「あ、あぁ……」
次に佐伯が呻きながら、崩れ落ちた。
何かを訴えるように口が動いているが、言葉にならない。荒い呼吸が漏れていた。
「ただの人間が、この場で正気を保てるはずがないわ」
狼鬼が呆れたように、言い捨てた。
木崎がゆっくりと変わっていく。
目の黒が濃くなる。
重心が落ちる。
人間の動き方では、なくなっていく。
「陸、みんなを……頼むで」
「あぁ」
気づけば、工場は静まり返っていた。
機械の唸りも、風の音も何一つ届かない。
――外の世界と切り離された。
「……他のことを考えてる余裕はなさそうや」
「木崎だけ見ていろ、それでいい」
海斗の背後で、陸が片膝をついた。
「海斗、俺はこの結界の維持で精一杯だ」
「……あぁ」
海斗は、何度も瞬きを繰り返した。
振り向く力すら、今はない。
「狼鬼、お前は手を貸してくれるのか?」
狼鬼はすぐには答えなかった。
視線が悪魔の方へと逸れる。
「……あまり互いの領分に、干渉したくはないがな」
「俺は、海斗を置いて逃げるつもりはない」
「……そうであろうな」
と、狼鬼は口の端を釣り上げて、
「ならば、共にいくまでよ」
狼鬼の目が怪しく輝き、全身から霊気の渦が立ち昇る。
「ありがてぇ――澪!」
海斗の背中に澪が重なり、海斗の霊力も解放される。
「最初から全開や! 行くでっ!」
固まった足に喝を入れ、無理矢理動かす。
狼鬼と澪の気配を背に、気持ちを前へと向けた。
木崎は無視して、ターゲットを絞る。
海斗は、後ろの悪魔へ目掛けて、全力の拳を打ちつけた――
「海斗、まだ連絡つかへん……」
高梨恵は、スマホの画面を見たままため息をついた。
「亮太、そっちはどう?」
「陸さんのスマホもダメや……繋がらん」
隣を歩く小林亮太も、顔を曇らせた。
「とにかく、海斗たちの施設に行ってみよ」
「恵、もう暗いから走んなや」
時刻は夜の九時を回ろうとしていた。
恵は、夜出歩くことに抵抗はない。
しかし、亮太は辺りを気にするように何度も振り返っていた。
(この時間なら警察から声かけられても、しゃあないか……)
「君たち、こんな時間に何をしているんだい?」
突然後ろから声をかけられ、恵の身体が飛び上がった。
「いや、ちゃうんです! これは……」
恵は、早口で捲し立てながら振り向いた。
とっさに、精一杯の笑顔を作る。
「……って、美作先生やん!」
「二人とも、こんばんは」
いつもと同じように、美作は優しく微笑んでいた。
恵は胸を撫で下ろした。しかし、胸の動悸はなかなか治まらなかった。
街灯の灯りが、三人の行先を等間隔に照らしている。ときおり、虫の音が聞こえていた。
「海斗……なんか無茶してへんかな?」
「うーん、それは分からないけど、きっと大丈夫だと思うよ」
「そうかな……」
「それより、こんな時間に出歩いてる恵ちゃんたちの方が危ない」
「いや一応、亮太もおるし……」
「そういう問題じゃないから」
美作は笑顔を崩さないが、はっきりとした口調で言った。
恵たちは、コンビニに来たという美作と、一緒に美作医院へ向かっている。美作自身が、医院へ戻ったあと施設まで確認に向かってくれることになった。
「先生は、海斗たちと昔からの知り合いなんやよね?」
「うん、そうだね。小学生の頃から知ってるよ」
美作は懐かしそうに、目を細めた。
「僕はこないだ知ったんですけど、海斗があの金髪の悪魔やったんですね」
「あぁ、そう言われてた時があったね」
「やっぱ、その頃の海斗って……ヤバかったんですか?」
亮太の問いに、美作は少し困ったような顔をした。
「そう、だね……あの頃は、陸以外の人間を完全に排除していた感じかな……」
「……ま、今でもちょっと近寄り難いとこはあるけどな」
「亮太くんは、あまり気にしてないよね?」
「まぁ、そうですね」
三人は笑い声をあげた。
夜風が、その声を遠くへと流した。
「その頃って、喧嘩とかでよく怪我してたん?」
もうすでに過去のことだが、恵は胸の奥が落ち着かなかった。
「ふふ、恵ちゃんは優しいね。まぁ、他の人よりは多く、傷の手当はしていたけど……」
と、記憶を辿るように視線を上に向け、
「それよりも、小学生の時が一番、怪我が多かったね」
「えっ、何で?」
恵は思わず大声で問いかけた。
美作は口元だけで笑い、自慢げに答えた。
「――剣道だよ」
一方、工場内では――
まともに立っていられたのは――木崎だけだった。
海斗と澪は重なるように倒れていた。
陸は、手と膝が地に付いている。
狼鬼ですら、腰を落として壁にもたれかかっていた。
「さすがに……護りながらあやつの相手は、骨が折れるわ」
「狼鬼、大丈夫か?」
「ふっ、陸よ。お前もボロボロじゃの」
「海斗……」
陸が顔を向けた。
倒れていた海斗の指が、僅かに動いた。
「ふー、ちょいと……意識、とんでたわ」
身体を起こしつつ、海斗が呟いた。
「どや、澪。まだいけるか?」
澪もフラフラと立ち上がった。しかし、海斗に寄りかかっている。
(これは……ヤバいな、俺の攻撃が全く届かん)
「……小僧、貴様でもそろそろ理解はしているだろう?」
「あぁ……俺じゃあ、倒せん」
何をしても、悪魔本体に拳が入らない。
そこにあるのに――ないものを、殴っている感覚だった。
「……そうではない。お前は、本当に愚かなやつよ……」
「あ?」
狼鬼は壁に背を預けたまま、目を釣り上げた。
「何故、一人で戦おうとする」
「一人とちゃうやろ、みんなおるやないか」
その時、木崎の姿が掻き消えた。
次の瞬間には、拳が狼鬼の顔面まで迫っていた。
間一髪で狼鬼は、その拳を避ける。
「……くっ、無粋なやつよ」
狼鬼が左手で木崎を払いのけ、中央で鎮座する悪魔のところまで吹き飛ばした。
「陸よ、あやつらをしばらく封じれるか?」
「やるしかないのだろう?」
「そうだな、頼むぞ」
「長くは持たない」
そう言うと陸はすぐに動いた。
悪魔に近づき、木崎ごと結界に押し込める。陸の霊力と悪魔の瘴気がぶつかり合い、火花のようなものが散っていた。
「小僧、時間がない」
「おう、なんか策があるんか?」
「そんなものはない」
「……は?」
海斗は狼鬼の顔を見つめた。
ふざけた様子も、いつもの見下したような笑みもない。
ただ、鮮やかな赤色の瞳が、海斗を映していた。
「小僧、貴様の本気を出せ」
「俺はいつでも本気や」
「……言い方を変える。本来の形を思い出せ」
「本来の?」
海斗は首を傾げた。
「その娘だ」
「――澪か?」
今も海斗に寄りかかる澪へと目を向けた。澪もまた海斗を見上げている。
「ただ貴様に憑いているだけの霊ではないぞ」
「何やて?」
「貴様には、その娘の声が聞こえぬのか?」
「……聞こえたことは、あらへん」
大きなため息をつき、狼鬼は目を伏せた。
「貴様たちは、すでに魂を重ねられるほど深く繋がっておる」
「魂を……?」
「小僧、拳が届かぬのなら――」
と、目を細めて、
「届く形に変えればよい」
海斗の心臓が、一度大きく跳ねた。
言葉の意味は分からない。だが、胸の奥が熱い。
「澪……」
その名前を呼んだ。
「貴様らの魂は、まだ揺らぎの中におる。今回は我が手を貸そう」
澪が、海斗の胸に手を添えた。
そして、その上から狼鬼も手を重ねた。
その瞬間――
海斗は今、ここではない違う風景を見ている。
のどかな田舎の田圃道に、海斗は立っていた。
「ここは……?」
道の先に家のようなものが建っている。
山が近く、森もある。
そして、目の前には――澪がいた。
「み、澪なんか? そんな着物を着てどないしたんや?」
「――」
「なんて言ったんや?」
「――――」
口は動いているが、海斗までその声は届かない。
やがて、澪の身体は光の結晶となり、空気中に消えていく。
海斗は手を伸ばした。澪も手を伸ばす。
互いの手が触れた瞬間――
(――私は、いつまでもあなたと共に――)
「えっ……」
澪は消えた。
跡形もなく。
その代わりに――
海斗の左手には、日本刀が握られていた。
抜かなくとも感じる。
「これは……澪や」
その日本刀を強く握りしめた。
先ほど感じた澪の熱が、まだそこに残っていた。
「……いこか。二人で」
一人なのに一人ではない。
それを感じるだけで、迷いが消えていた。
海斗は、その場で振り返る。
工場の鉄骨と、機械の油の匂いが戻ってきた――
悪魔から、陽炎のように立ち昇る黒い炎が視える。
先ほどまでは視えていなかった。
「陸、待たせたな」
「……あぁ、本当にな」
悪魔を視ても、海斗の胸が騒がない。
当然のように――斬れる、その絵がすでに見えていた。
「剣は……捨てたつもりやったんやけどな」
海斗は刀に手をかけた。
そして、当然のようにその名を呼んだ。
「手加減はなしや――我翔澪」
鞘から抜き放たれていく刀身が、青白く輝いた――
悪魔の喉から、これまでにない音が漏れる。
海斗は、それを確かに聞いた。




