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名もなき怪異の夜  作者: 早谷 蒼葉


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第十八夜 悪魔と契約した男 —衝動—

第十八夜 悪魔と契約した男 ―衝動―


 また来た――


 木崎京吾(きざききょうご)は、台所に立ったまま動けなかった。

 手が震えている。

 息が上手く吸えない。

 これが来るのは、今年でもう三度目だった。


(また、俺は……)


 衝動は突然やってくる。

 理由はない。

 きっかけもない。

 ただ、抑えられない何かが、胸の奥から湧いてくる。


 木崎はシンクに手をついた。

 水道の蛇口を捻り、水を顔にかけた。

 生ぬるい水が、頬を伝って落ちていく。

 ふと横を見る。

 鏡の中から、自分がこちらを見ていた。


 普通の顔だ。

 どこにでもいる男だ。

 朝起きて、仕事をして、飯を食べ眠る。


 それだけだった。


 孤独を感じているわけではない。

 かといって、特別仲の良い人がいるわけでもない。


 仕事は退屈だったが苦痛じゃない。残業も必要ならする。

 飲み会に誘われると、気が向けば顔を出す。


 真面目、物静か……それが木崎だった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


(そろそろ、なのか……)


 この衝動を無視しようとすると、心と身体が悲鳴を上げる。

 頭の奥から骨の髄まで、全てを砕くような痛み。


 理由は分からない。

 病院で診てもらっても、異常はない。


 だが、木崎は知っていた。

 この震えが始まった後には、必ず――


 人を殺したくなる。




「何もあらへんな……」


 美作(みまさか)医院の事務室に座り、海斗は独りごちた。

 木崎を監視するようになってから、三日が経過した。その間、海斗は明神(みょうじん)たちからの連絡を待つしかなかった。


 しかし、木崎の動きに変わったところはない。

 朝になれば仕事へ向かい、夜になれば自宅に戻る。

 途中でスーパーやコンビニに寄り、夕食を買うこともある。

 明神たちが交代で監視を続けていたが、報告されるのはそんな話ばかりだった。


「……ホンマに、こいつなんか?」


 海斗は誰ともなく呟いた。


「データは嘘つかへんよ」

「亮太(りょうた)……そのセリフ、何回目や」

「過去の勤務先と失踪者の一致、偶然やない」

「分かっとる、でもな……」


 海斗は言葉を切った。


 窓の外では、すでに夕日が傾いている。


 陸は木崎の資料をめくり、恵(めぐみ)は失踪者のリストを確認していた。

 海斗だけが、何もすることがない。


(張り込みも、一人で動くことも禁止。何をしたらいいんや……)


 机の上に置いてあった、陸のスマホが短い音を鳴らした。


「明神さんから連絡だ」


 陸がスマホを持ち上げ、片手で操作する。


「異常なし。木崎は、もう帰宅したそうだ」

「普通に生活しとるだけやな……」


 海斗はため息をついた。


「今日も動きは無しか……」


 事務室には、弛緩した空気が流れていた。

 何もないに越したことはない。だが――


(事件が起きることを……俺は、期待してるんか?)


 そう考えると、胸の奥が重くなった。


 その時、部屋の奥から美作の声がした。


「……ん? あれ……」


 カルテの束を抱えたまま、美作が手を止めていた。


「なんや、センセ?」

「いや……この人」


 美作は、一枚のカルテから目を離さない。


「木崎さんと、同じ会社だ……」

「ここの患者なんか?」

「うん、詳しいことは話せないけど……家がこの近くだから、うちに来たんだろうね」


 陸が顔を上げた。


「木崎との接点は?」

「そこまでは分からないよ。だけど……」

 と、声を固くした。

「この人にも――家族がいない」


 陸は、再びスマホを手に取った。


「明神さんに報告しておく、名前だけでも教えてくれ」

「名前は、三島順(みしまじゅん)さん、四十六歳の男性」


 美作から得た情報を、陸は素早くスマホで打ち込んだ。


「一応、警戒しておいた方が良さそうやな」

「うん、頼んだよ」


 美作は、安心したように微笑んだ。

 カルテを束に戻し、また仕事に戻った。その横顔は、いつもと変わらない。



 明神の返答は、思ったよりも早かった。陸のスマホは、三十分も経たないうちに、明神からの着信を知らせる。

 机の上に置かれたスマホのスピーカーから、明神の声が流れていた。


『待たせたな。三島ってやつ、木崎の会社で夜間の守衛をやっとったわ』


 海斗は陸と顔を見合わせた。


『――危険、かもしれんな』

「あぁ、せやな。もう消える準備をされとるかもしれん」

『佐伯(さえき)に、三島を洗わせるわ』

「分かった。動きがあったら教えてや」


 海斗は、スマホの終了ボタンを押した。


「海斗、焦るなよ」

「分かっとる」

「木崎は、きっと近いうちに動き出す」


 海斗は窓の外を見た。

 街の灯が一つずつ点いていく。


(ほんまに動くんか……)


 その夜、海斗はなかなか眠れなかった。




 それから、さらに三日後。


 自分の部屋で過ごしていた海斗のスマホが鳴った。


『海斗くん、木崎が不審な動きをしとる』


 海斗は、ベッドから飛び起きた。


「――! 今どこや?」

『木崎は、おそらく工場に向かっとる』

「工場に? 何か企んでたとしても、そんなとこではすぐバレるやろ?」

『そうなんやが……今までに無い動きや』


 何もできないはず……だが、胸の中が波立っていた。


「三島って人は?」

『今日は――出勤日や』


 海斗はスマホを握り直した。


「明神のおっさん……俺たちが行くまで、ちゃんと見といてや」

『分かっとる。令状もあらへんし、今の段階で職質もしたない』

「とにかく、陸と向かうわ」


 電話を切ると、すぐに陸の名前を探した。


「陸、行くで。俺たちの出番や」




 海斗と陸はタクシーで工場に向かい、少し離れた場所で降ろしてもらった。

 その場所からでも、夜の闇に包まれた工場が見える。周辺の人通りも少なかった。

 急いで工場に向かうと、門の前に明神と佐伯の姿があった。


「おう、早かったな」


 二人を見つけた明神が手を上げた。


「今、どんな状況や」

「木崎は守衛室で三島に声をかけて、一人で工場の中に入ってったわ」

「三島は?」

「守衛室に戻っとる」

「他の従業員は?」

「どうやら、他には誰もおらんようや」


 門の外から工場を伺うと、入り口の電気は点いているが、中の様子は分からない。


「今日、木崎を張り込んでいた時、八十藏(やそくら)と思われる人物が接触してきたんだ」

「ホンマか? 佐伯はん!」

「あぁ、以前聞いていた風貌をしていたからね……しかし、調べても何も出てこなかった」

「結局、正体不明か……けど、木崎に接触してきたんやから、やっぱり何かあるで」


 この場所からは守衛室も見える。

 制服を着た男が、椅子に座っているのが確認できる。


「陸よ」


 突然、何の気配もなく後ろから声がかかった。

 海斗は振り返ると、道路の反対側に澪が立っているのが視えた。そして――


「――狼鬼(ろうき)」

「騒ぐな、小僧」


 夜の道路に、白い影が立っていた。

 久しぶりに見る女型の姿。月の光ですら引き立て役に過ぎない。


「な、なんや、この色気たっぷりのネエちゃんは?」

「いずれ説明します」


 陸が、早口で明神に説明した。

 狼鬼は明神たちを一瞥することもなく、陸だけを見つめている。


「陸よ、最後の忠告だ。この地を立ち去れ」

「……それは、できない」

「お主が手を出さずとも良いことだ」

「ここまできて、知らない顔はできない」


 どこか飄々としていた狼鬼から、海斗は切迫したものを感じていた。

 しかし、陸が引く様子はない。それを察したのか、狼鬼がため息をついた。


「本当にお主は強情よの……」

「すまない、頼りにしている」

「……惚れた弱みじゃの」

「えっ? 陸くんの彼女なの?」


 思わずといったように佐伯が声を出してしまった。

 狼鬼の氷のような視線で射すくめられて、佐伯は身体を小さくした。


「おい、三島に動きがあるぞ」


 声を抑えた明神が、短く言った。

 守衛室で三島が受話器を持ち上げて、話しているのが見えた。

 やがて、通話を終えると三島は立ち上がった。急ぐ様子はなく、工場に向かい歩いていく。そして、そのまま工場内に消えた。

 

 明神が海斗に顔を向けた。


「行くしかないな……陸、行くで!」

「あぁ」

「待て、小僧。あの者を連れてゆけ」


 狼鬼の指差す方にいるのは……


「……もちろんや。行くで――澪(みお)!」



 会社の敷地内に入ると、胸の奥が揺れて気持ちの悪さを感じた。


「陸、どうや?」

「まだ分からない」

 と、目を細めた。

「しかし、何かが違う」


 明神と佐伯は、工場のドアをゆっくりと開けた。中の様子を伺うが、何の物音もしない。


「何が違うんや?」

「前回は何も視えなかった。でも今は――」


 海斗と陸の声は自然と小さくなっていた。


「何かいる」


 明神と佐伯は、あたりを警戒しながら工場の中に体を滑らせた。

 その後ろから海斗たちも続く。


 外からは分からなかったが、入ってみると工場内は明るかった。

 以前と違い、当然だが今は静まり返っている。

 足音がしないように少し進むと、真ん中の通路を見渡せる位置まで来た。

 明神が顔だけを機械の影から出すと、声を漏らした。


「木崎!」


 海斗も姿勢を低くして、同じように顔を出す。


――いた、木崎だ!


 三島は通路の真ん中に仰向けで倒れていた。そして、三島を見下すように木崎が立っていた。


「そこまでだ!」


 明神が声と身体を晒した。

 木崎が緩やかな動作で顔を上げた。


「……なっ!」


 その目を見た時、海斗は寒気がした。


 それは人間の目ではなかった――


 全て黒目になり、白い部分がない。

 まるで目を抉り取られたようにも見える。


「明神のおっさん、下がれ!」


 海斗は明神を引っ張り、自身の後ろへと追いやった。

 引き下がった明神の前に、海斗は立つ。


(まだ、距離はある)


「陸よ、この場全体に結界を張れ。お主なら、もうできるであろう?」

「分かった」


 その言葉と同時に、海斗はこの場に陸の結界が広がっていくのを感じた。


 照明が、一つ落ちた。


 また一つ。


 工場の奥から、暗くなっていく。


「陸――」

「あぁ、来る」


 木崎の背後で、何かが蠢いた――


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