第十六夜 悪魔と契約した男 —違和感—
第十六夜 悪魔と契約した男 —違和感—
田辺光が言う「おじさん」の身元を知ったのは、三日後だった。
中元誠一、三十八歳、独身。
海斗たちは、再び美作医院に集まっていた。
窓の外は曇っている。差し込む光も弱く、室内には重たい空気が沈んでいた。
佐伯が、警察手帳に目を落とした。
「両親は、中元が中学の頃に他界しています。その後は祖父と暮らしていたようですが、二十歳の時に祖父も他界。それを機に、この街へ引っ越してきたようですね」
「アパートの方は、どうなっとるんですか?」
亮太が、手を挙げて質問した。
「荷物は全部無くなっています。管理会社は引っ越したと判断したようです」
「事前に連絡はなかったんですか?」
「そのようです。ただ、退去する旨のメールは届いたそうです。近隣トラブルもなく、家賃も未納はありません。そのため、管理会社も問題視しなかったようですね」
これまでの情報だと、確かに事件の匂いは薄い。
だが、これが誰かの仕業だとしたら——
「——用意周到やな」
海斗は腕を組んだ。
口を閉じたままの海斗の代わりに、陸が切り出した。
「勤務先はどこですか?」
「市内にある製造会社の工場です。今日はそこに話を聞きにいく予定です」
「明神さん、俺と海斗が同行してもいいですか?」
陸が明神に顔を向ける。
「何か、気になることがあるんか?」
「いえ、特にありません。ですが、何かを感じることができるかもしれません」
「……まぁ、ええやろ」
明神は口の端を釣り上げた。
「ほんなら行くで。佐伯、車出してくれや」
佐伯は、堂々と大きなため息をついた。
中元の職場は、市内の外れにあるそれなりに大きな工場だった。
先に連絡を入れてあったので、到着すると事務所の会議室へと通された。
海斗たちが椅子に座ると、すぐに二人の男性が緊張した面持ちで入ってきた。
「中元さんは、本人の意思で既に退職されております」
人事の責任者だと名乗った男が、書類を確認しながら言った。
「いつ、退職されたのですか?」
と、佐伯が質問を重ねていく。
「二週間ほど前のことです。突然メールで、そのように……」
「メール、ですか……」
「実際、出勤してこなかったですし、もう退職の手続きも完了しています」
「来なくなる前は、どんな様子でしたか?」
この質問に対しては、もう一人の男が答えてくれた。
「上司の私から見て、中元くんは非常に真面目な男でした。人付き合いは、あまり得意ではなかったようですが、トラブルもなく勤務態度も良かったですよ」
「辞める理由が、思い当たらないと?」
「そうですね……少なくとも、私には」
「特に仲の良い社員の方は?」
「いない……と、思います」
佐伯は眉を寄せて、手帳を閉じた。
すると、ここまで佐伯に任せていた明神が、軽い口調で言葉を投げた。
「そうですか、まぁまだ事件だと決まったわけでもないもんで、この辺で失礼しますわ」
硬い顔をしていた二人から、力が抜けたのが分かった。
無関係だったとしても、刑事が尋ねてくることは日常ではないはずだった。
「すんません、その代わり、ちょっとだけ工場の皆さんにお話聞きに行ってもええですか?」
「あぁ、そのくらいなら……構いませんよ」
「ありがとうございます、ほな早速……」
応接室を出る際、明神は海斗に耳打ちした。
「職場の同僚と過ごす時間が一番長いんやから、なんか視えるかもやで」
「……なんかて、なんや?」
「もし中元が死んでたら幽霊、生きとったら生き霊……とか?」
明神の真剣な表情に、海斗は少し吹き出した。
ふと、海斗は澪の気配を感じて、敷地の外へと顔を向けた。
敷地の入り口には、鉄製の門があり、今は開かれている。その外側に、澪と狼鬼が佇んでいるのが観えた。
海斗は手招きしてみるが、敷地内には一歩も入ろうとしない。
(何しとんのや? あいつら……)
「海斗、どうした?」
「……いや、何でもあらへん」
工場内に入ると、機械の音と油の匂いが海斗たちを包んだ。
しかし、それだけではなかった——
「——陸」
「あぁ、何だ……この感覚」
明神と佐伯は、社員たちに声をかけ話を聞いていた。
その光景が遠くなっていく。
「なんや、ここ……気持ちが悪いで」
「同感だ」
海斗は、何度か目を擦るが、視界は何も変わらない。
見えているのに、視点が合わない。
明神たちは、どんどん奥へと入っていくが、海斗の足は動かなかった。
「海斗、外に出るぞ」
「あ? まだ、何もしてへんぞ」
「いや、十分だ」
陸に腕を掴まれて、海斗は無理矢理工場の外へと引っ張られた。
工場の外に出ると、夜の空気が優しく頬を撫でた。
「な、何やったんや、今のは……」
しばらくすると、明神たちも戻ってきた。
「何や、お前ら。ずっと、ここにおったんか?」
憮然とした表情で、明神はだらしなく歩いていた。
だが、陸の顔を見て、様子が変わる。
「明神さん、あなたが三番目に話しかけた男を調べてください」
「分かった」
明神が佐伯の耳元で何やら囁くと、佐伯は事務所の方へ走っていった。
「とりあえず、ここを出ましょう」
陸はそう言って、さっさと車に乗り込んだ。
「なら、俺の行きつけの喫茶店に行くか」
明神もそう言いながら、車のドアを開けた。
海斗も後部座席に乗り込み、もう一度だけ工場へ目を向ける。
門の外には、澪と狼鬼がまだ立っていた。
駅から少し離れた場所にある、昔ながらの喫茶店。
明神は真っ直ぐに窓際の席に腰を下ろした。店内には、淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。
席に着くなり、明神は煙草に火をつけた。
会社から出た瞬間、海斗の中の違和感も消えていた。
「そんで、何があったんや? 何か視えたんか?」
明神が険しい顔で言った。
「いえ……視えませんでした」
「ん? どういうことや?」
「あの男だけ、何も視えなかったんですよ」
陸だけが言葉にした違和感。それは、海斗が工場の中で感じたものと繋がっていた。
「人は生きているだけで、オーラのようなものを発しています」
「俺は、ほとんど視えへんけどな」
「海斗は、そういう特殊な霊視系は苦手だからな」
明神と佐伯は、黙って陸の次の言葉を待っている。
「強弱はありますが、必ず視えるオーラが、あの男にはありませんでした」
「何やと!」
「理由は分かりませんが……こんなことは初めてです」
明神は短くなった煙草を、灰皿に押し付けた。
すぐさま二本目の煙草を取り出し、当然のように火をつけた。
「佐伯、情報や」
「木崎京吾、三十五歳、独身。勤務年数は約五年です」
「俺が話した感触やと——いたって普通、や。何の特徴もない男やったから、全く印象に残ってへん」
「何も?」
「何もや。長年刑事やっとるとな、何かある奴は、どっか引っかかるもんや。けど、奴にはそれがなかった」
明神は煙草を深く吸い込み、煙を吐き出した。
「もちろん、今回の件に関係あるかは分かりません。ただ、あそこに長く居たくはありませんでした」
「ふーむ……」
「明神さん……これ、当たりかもしれませんよ?」
佐伯が身を乗り出して言った。
「この二人が揃って違和感を感じているなら、ちょっと期待できますよ」
「そうやな……まるっきり偶然とも考えにくいか」
「署に帰って、調べてみましょう」
「佐伯はん、えらいヤル気出してるやん」
「そりゃ、僕だって刑事だからね」
四人の顔に、笑顔が浮かんだ。
喫茶店を出ると、日が落ちていた。
帰りの車内でも、海斗の頭から木崎京吾のことは離れなかった。
顔は思い出せない。それでも嫌なものが胸の奥に残る。
やがて、見慣れた施設の前で車が止まった。
「じゃあ、また何か分かったら連絡するわ」
明神が窓越しに手を上げた。
海斗も軽く応えて、車を見送った。
「海斗、ちょっと付き合ってくれ」
陸は施設とは逆方向へと歩き出す。
そのまま近くの公園に入ると、立ち止まった。
「どうしたんや、陸」
海斗の声に応えず、陸は暗闇に声をかけた。
「狼鬼、そこにいるんだろ?」
「……何だ?」
闇から滲み出るように、狼鬼が現れた。
中元の会社で視た姿とは違い、女性の格好で妖艶な笑みを浮かべていた。
「あいつは何だ? 知っているのだろう」
「……陸よ、あやつには近づくな」
狼鬼の笑みが消えた。
「何故だ? やはりあいつの仕業なのか?」
「人間の世界のことなど、我にはどうでもよい。しかし、あやつは人であって人でない」
「……どういうことだ?」
「あやつの魂は、すでに人の理の外よ」
夜風が狼鬼の髪を揺らした。
「これ以上関わると——死ぬぞ」
「へっ、上等や」
「……と、俺の相棒が言っているが」
「馬鹿な小僧よ……」
狼鬼は苦虫を噛み潰したように、顔を顰めた。
だが、それ以上は何も言わない。
澪が、寄り添うように海斗の隣に立つ。
その目が、縋るように海斗を見つめていた——




