第十二夜 誰もいない家
第十二夜 誰もいない家
放課後の住宅街は静かだった。
陸は一人で、なだらかな坂道を登っていた。いや、正確には一人ではない。
「狼鬼、毎日俺の後をついてこなくてもいいんだぞ」
「我はお前と共にある、気にするな」
狼鬼は堂々と山犬の姿で、道を歩いていた。だが、すれ違う人は誰も気にしない。
「お前の姿は、みんなには見えてないのか?」
「あぁ、そうだ。霊格の低いものは、我が姿を捉えることすら叶わん」
「それを聞いて安心した」
陸はもう一年近く、あの家に通っていた。
毎月、一度。
今日が——最後になる。
その事実は、海斗も知らない。
住宅街を抜けた坂の途中に、その家はある。
古い日本家屋。板塀は苔むし、門柱の表札は、雨で滲んで読みにくくなっていた。
「この辺は、まだ開発が進んでいないな」
「ふん、それは人間の言い草ぞ。昔はもっと自然に溢れておったわ」
その家は、人々から忘れられたように、ポツンと佇んでいた。
陸は迷わず門を開け、歩を進めた。
「こんにちは」
玄関で声をかけると、奥から返事が来た。
「陸くん。いらっしゃい」
廊下を渡って、小柄な老婦人が現れる。白髪を丁寧に結い上げ、白色の割烹着を着ていた。
「ちゃんと、来てくれたんやね」
「えぇ」
陸は靴を脱いで、上がり込んだ。
狼鬼の姿は見えないが、気配は近い。
縁側に面した座敷。
畳は古いが清潔だった。
そこから見える庭には梅の木が生えていた。
老婦人は台所に消え、しばらくして盆を持って戻ってきた。湯気の立つ緑茶と、小皿にお菓子が盛られていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
陸はお茶を両手で受け取った。
「最近、暑いわね」
「そうですね」
「畑の茄子が、よく育ってるんよ。今年はたくさん採れるかもしれへんね」
老婦人は縁側の向こうの庭を見ながら言った。
陸も同じ方向に視線を向けた。
畑など、どこにも見えない。それでも、陸は頷いた。
「学校は、楽しい?」
「まぁ、普通ですね」
「そう」
老婦人は笑う。
「正直な子やね」
その後も会話は続いていた。本当に普通の会話。
ただ——老婦人は外に出ない。
陸はそれを知っていた。
「あの子……来なかったわ」
老婦人がふと、呟いた。
陸はお茶を飲もうとして、止めた。
「そう、ですね……」
老婦人は頷いて、また庭を見た。
それ以上、陸は何も言わなかった。
陸が初めてこの家の前を通ったのは、一年前のことだった。
夕暮れ時、何となく気配を感じて立ち止まった。
壁の隙間から老婦人の姿が見えた。縁側に座って、庭を眺めている。
少し離れた場所で子供たちが遊んでいたが、陸を指差して何やら騒いでいた。そのまま走り去ったと思ったら、年配の女性を連れてきた。
「あなた、この家の関係者?」
女性の言葉に警戒の色を感じた。
「はい、遠縁の親戚です。おばあさんに、会いに来たのですが……」
「あの人なら先月——亡くなったわ」
(やはり、そうか……)
「孤独死で可哀想やったけど……子供たちが幽霊屋敷だって騒ぐんよ」
「幽霊、ですか……」
子供たちは感受性が強い。そして、噂はすぐに広まる。
「家をこのままにしとくのもねぇ……あなたから、親御さんに伝えてくれへんかな?」
「分かりました、必ず伝えます」
「頼むわね」
女性の顔から険しさが取れ、軽い足取りで来た道を引き返していった。
陸はその背中が見えなくなった後で、門を開けて中に入った。
「こんにちは」
老婦人は陸に顔を向けて、目を見開いた。しかし、すぐにその表情は微笑みに変わった。
「……あなたは、怖くあらへんの?」
「何がですか?」
「私のことが」
陸は微笑んだ。
「怖くないですよ」
老婦人は、長い時間をかけて陸を見つめていた。
陸も視線を外さない。
「あなたのことを、聞かせてもらえますか?」
すると、老婦人はゆっくりと自分のことを話してくれた。
老婦人には、遅くに授かった息子がいた。夫婦は諦めかけていた子宝を、大変喜び大切に育てた。
しかし、息子は二十歳になった時、家を出たきり十数年戻ってない。
連絡をとる方法がないので、生きているのかさえ分からない。
夫は三年前に先立った。
最後まで、喧嘩別れした息子のことを心配していた。
それ以来、老婦人は一人で家を守っていたが、先月縁側で倒れ、そのまま息を引き取った。
息子に会わずには逝けない。
その想いが、老婦人をこの家に縛り付けていた。
「私が死んでから、一年だけ待つって決めたんよ」
老婦人は静かに宣言した。
「あの子が帰ってきたら、自分で昇るわ。来なかったら——」
「来なかったら?」
「あなたが、見送ってくれへんかしら?」
悲しそうな笑顔だった。
陸は老婦人を見つめた。
それが、約束になった——
梅の木が、風に揺れた。
「やはり……何も変わらへんかったな」
老婦人が静かに言った。
「……はい」としか、陸は答えることができなかった。
遠くで、鳥が鳴いていた。
「十分待ったわ」
しわの刻まれた顔で、穏やかに笑った。
「あの子も、大人になってる。きっと、自分の暮らしがあるんやろ」
「……」
「幸せなら……それでええわ」
陸は、何も言えなかった。
その時、玄関の方で気配がした。敵意のない、暖かい気配。
陸だけが振り向いた。
そこには、老いた男性が立っていた。
紺の着物で白髪。そして、老婦人と同じような穏やかな目をしていた。
老人は何も言わない。ただ、ゆっくりと手を差し出した。
老婦人も気配に気づき、振り返った。
「迎えにきてくれたんやね」
老人の体は、薄い光を纏っていた。
「待たせたな」
老婦人は立ち上がった。ゆっくりと、廊下を渡る。
老人の差し出した手を、両手で包み込んだ。
二人が玄関に並んだ。
陸は、静かに手を合わせた。
「どうか、安らかに」
家に光が差し込んだ。
縁側から、庭から、廊下の奥から——
二人は並んで、歩き出す。
「「……ありがとうね」」
並んだ背中から、二人の声が重なって届いた。
どこかで、狼鬼の遠吠えが聞こえた。
やがて、光に包まれ——二人は消えた。
座敷に、風が通った。
畳には埃が積もり、柱は色を失っていた。
そこにあったのは、朽ちかけた空き家だけだった。
縁側に置かれた湯呑みも、古びたものだった。
こうして、本当に誰もいない家になった。
数日後、陸は墓地にいた。あの家も望める、少し小高い丘にある墓地。
墓石には、あの老夫婦の名が刻まれている。
花を添えて、線香に火をつけた。煙がまっすぐに昇っていく。
陸は、目を閉じ手を合わせた。
「人の生の儚いことよ」
狼鬼は山犬の姿のまま呟いた。その呟きも空に昇っていく。
「また、来ます」
そう言って、踵を返した。
その時、墓地の入り口に車が停まった。
少し慌てた様子で、一組の男女が降りてきた。女の腕には赤ん坊が抱かれていた。
その家族は陸の横を抜けて、墓地の中に入っていった。
陸はすれ違う際に、男の顔を見た。
(……そうか)
赤ん坊を抱いた女は、男に寄り添っていた。
「親父……母さん……」
墓石の前に立った男の声は、震えていた。
「やっと、来られたね」
女の声は優しく、男性を励ますようだった。
「子どもが生まれたら……帰ろうって、決めてたのに……」
男は膝をついていた。女の手が、男の肩にそっと置かれた。
「でも……間に合わなかったよ」
赤ん坊が、楽しそうに笑った。
男が立ち上がり、袖で涙を拭った。そして、墓石に手を添えている。
「会わせたかったな……俺の家族に」
陸は前を見て、歩き出した。
丘の下には、あの家が見える。
一年間、老婦人が息子を待ち続けた家。そこには、もう何の気配も感じなかった。
陸は振り返らない。
風が、墓地を吹き抜けていった。
あの家で、誰かを待ち続ける者は——もういない。




