第十一夜 最後の乗客
第十一夜 最後の乗客
「くそっ……」
高瀬修は、タクシーの運転席でハンドルを叩いた。
ダッシュボードの時計が、十九時を示している。もう二時間は、メーターが動いていない。
「長距離が一件でもあれば……」
この街に越してきて半年。まだ、馴染めない。関西弁も、空気も、どこか遠い。
大阪という街で、一人浮いていた。
ラジオから流れる放送を、聞き流しながら高瀬は前を見つめる。
やがて——道路の脇で手を上げている男が見えた。高瀬は期待を込め、停車のための合図をする。
しかし——
(……若いな)
高瀬は肩を落とした。
「乗せてもらってええか?」
関西弁で私服の若い男。若いどころか幼い。中学生くらいの少年だが、金髪で目つきが悪い。
(梢と同じくらいか……)
そして、後ろには女も見えた。こちらは大学生くらいだろうか。黒いシンプルなワンピースを着ている。
「はい、どうぞ」
ドアを操作し、二人が乗り込むのを確認した。
高瀬は密かに眉を顰める。
カップルに見えなくはないが、距離がある。何より雨が降っていないのに、女性が濡れていた。
(……面倒だな)
掃除のことを考えると憂鬱だが、詮索はしない。高瀬は面倒事を頭から追い出した。
「どちらまで行きましょうか?」
少年が住所を告げる。かなり遠い住宅地。思わず口元が緩みそうになる。
「かしこまりました」
あからさまに愛想が良くならないよう、抑えて返事をする。アクセルは雑にならないよう、丁寧に踏み込んだ。
運転中何度も、バックミラーで二人を見る。
少年は窓の外を見ている。女性は俯いている。走り出してから三十分は経つが、会話はない。
どうしても意識を持っていかれる。客の事情に深入りしないのが鉄則だが、なぜか二人のことは気になる。
しばらくして、ようやく女性が呟いた。
「家に帰るの……久しぶり」
「そうか」
少年の反応は冷たく感じる。それもまた違和感だった。
女性は気にしない様子で続ける。
「変わってへんかな……」
「知らん」
少年は視線を窓の外に向けたまま、突き放すように言った。
高瀬は少しだけ眉をひそめた。
(……喧嘩でもしたのか?)
それ以上、会話は続かない。
静かな車内だが、先ほどからワイパーの音が、規則的に響くようになった。
街灯の光が、一瞬だけ女性の顔を照らす。
無表情だが、愛嬌のある顔だち。そして何より白すぎる。
その白さに、高瀬は目を細めた。
(……顔色、悪いな……)
しかし、それ以上は見えない。すぐに暗がりに戻る。
「あの人は……どうしてるん……」
「どうもこうもない」
少年の口調に、少しだけ怒りが沸いているように感じた。
「何も変わってへん」
「そう……なんやね……」
女性の声が、やけに遠くに聞こえた。
結局、そこで会話は途切れた。静けさだけが、満ちている。
(さっきの声は……)
頭の奥で響くような、遠い声。
何気なくルームミラーを見る。
(……は?)
鏡には少年だけが映っている。
高瀬は目を擦る。
もう一度——そこにいる。
(……疲れてる、のか?)
高瀬は小さく頭を振る。
それからさらに三十分以上かけて、目的地に到着した。その間に会話はない。
目的地は閑静な住宅街の一軒家。玄関の灯りはついており、車が路上にも数台停まっている。
通行の邪魔にならないよう、少し離れた場所に停車する。
(法事かな……)
「すみません」
突然耳元で女性の声がして、高瀬の肩が跳ねた。
「……お金……とってきます」
「は、はい。かしこまりました」
平静を保ち返事を返したが、少し声が上擦っていた。
「俺も一緒に行くで」
「……いいの?」
「説明がいるやろ」
(無断外泊、とか……)
二人は静かに車を降りる。そして、そのまま家へ向かって歩いていった。
不安がないわけではないが、何となく信じられる。高瀬は大人しく待つことにした。
少年がインターホンを鳴らすと玄関が開く。少年が家の中に消えた後、女性は高瀬の方を向いて頭を下げた。
二人の姿が見えなくなり、高瀬は座席を少しだけ倒した。
「今日は、これで最後かな……」
五分。
十分。
二人は戻らない。
「……大丈夫、だ」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
十五分。
二十分——
さすがに様子を見に行こうとした時、玄関の扉が開いた。そこから出てくる少年の姿が見えて、高瀬は肩の力が抜けた。
少年は気だるそうに歩いてくる。
「おっちゃん、家の人が金払うって言ってんで」
「私が行くんですか?」
「直接、礼がしたいらしいわ」
君が持ってきてくれたらいい、という言葉を飲み込み、高瀬はドアを開けた。
家に近づくと、玄関は開いたままになっていた。
中から、啜り泣く声が外まで聞こえた。
そして——線香の匂い。
(……これは、通夜か)
高瀬は一瞬足を止めたが、料金は頂かなくてはならない。肩の狭い思いで、玄関口まで足を動かす。
そこで喪服に身を包んだ五十代くらいの男女が、高瀬を待っていた。おそらく夫婦だろう。二人とも目が赤い。
「お世話になっております、大阪タクシーです」
お悔やみを述べるか迷ったが、無難な声かけにした。
「この度は……娘が大変お世話になりました」
父親が深々と頭を下げたので、高瀬も慌ててそれに倣った。
「いえ、こちらこそご利用いただき……」
挨拶を返しながら頭を上げた時、高瀬は言葉を失った。
(……え?)
家中のドアや襖が開いている。人が多いからだろう。そのため、奥の座敷まで玄関から丸見えだ。
その奥座敷にある遺影写真が、目に飛び込んできた。
さっきの女性——
同じ顔。
同じ髪型。
高瀬は息が止まった。
頭が真っ白になる。
言葉が出ない。
心臓が早鐘を打つ。
父親の声が、遠く聞こえる。
「そちらの、海斗さんから聞きました」
少年の名前を初めて知った。少年に視線を送ると、我関せずという表情でそっぽを向いている。
「あなたが……娘を家に帰してくれました」
父親の頬を涙が伝う。それでも、目はまっすぐに高瀬を見つめていた。
(俺がこの人の立場だったら……)
口元をハンカチで押さえながら、母親が口を開いた。
「あの子、この家に帰りたがってたから……」
「そう、だったんですね」
高瀬はそれしか返す言葉がなかった。
「えぇ、あの子との最後の電話で——」
母親は両膝をつき、それ以上は口にすることはできなかった。父親は肩に手を添えている。
同じ親として——高瀬は目の奥が熱くなるのを感じた。
父親が懐から封筒を取り出した。
「最後に……送ってくださり、ありがとうございました」
最後は掠れて、ほとんど聞こえない。だが、その気持ちは高瀬の全身に響いた。
高瀬は封筒を両手で受け取る。その重みで手が震えた。
玄関を出る際に、少年が夫婦に振り向いた。
「ごめんなさい、それと——ありがとう」
夫婦は揃って、顔を上げた。
「あの子が、あんたらに伝えてほしいって」
その言葉を受け取り、夫婦は共に抱き合い、泣き崩れる。
「……強く、生きてくれ」
前を向いて、少年は言った。
少年と二人で車に戻る。
「おっちゃん、街に戻るんやろ。俺もええか?」
「……もちろんだよ」
ふと後ろを見ると、女性が座っていた場所が少し濡れている。それは、確かに彼女が存在した痕跡。
「海斗くん、だっけ。君は最初から分かっていたのかい?」
愚問だと思ったが、聞かずにはいられなかった。
「あぁ。俺が見つけて声かけたんや」
「……どこで?」
「死んだ場所や」
高瀬は、胸の奥がざわめいていた。
「……聞いていいかい?」
「なんや」
「あの子は……何故、亡くなったんだい?」
「それを何で知りたいんや」
口も態度も悪い。だが、高瀬には少年が悪人には見えない。
現に今も、言葉の端に怒りを滲ませている。
「私にも……娘がいてね。離婚して離れ離れだけど」
「……そうなんか」
「だから、知りたい。その理由を」
「……理由、な」
雨は先ほどよりも激しさを増している。窓を覆い隠すように流れていく。
「……自殺や」
海斗は吐き出すように、言葉を投げた。
「地下アイドル、とかいうのにハマってな」
「……アイドル?」
「貢いで、妊娠して、捨てられて……絶望した」
対向車のヘッドライトが、一瞬だけ海斗の顔を浮かび上がらせた。
「それで——身を投げたんや」
海斗の言葉が、少しずつ胸に落ちてくる。
「そんなの——間違ってる!」
狂っている。
報われない。
みんな、馬鹿だ。
ハンドルを持つ手に力が籠る。高瀬は必死に呼吸を整える。
やがて——
雨が、窓を叩く。
「ごめん。でも、やりきれないね……」
「あぁ、俺はこのまま終わらす気はないで」
「えっ」
海斗はスマホを取り出した。
「……亮太か、俺や。調べて欲しいことがある」
電話はすぐに終わり、スマホをしまった。
「海斗くん、どうするつもりだい?」
「このままで、終わらせへん」
冷たい声で宣言する。
「正直——賛成だね。場所は?」
「話が分かるな……高瀬さん」
初めて海斗が名前で呼んでくれた。
「最後くらい、向き合わせたる」
高瀬は年の離れたこの少年と、悪友になれたような気がした。
それから三十分ほどで、目的地に到着した。ビルの地下に入っている、小さなライブハウス。知らなければ、誰も気づかない。
高瀬はエンジンを切らなかった。
ふと、娘のことが頭をよぎる。
高瀬梢、中学三年生。東京にいる娘とは、もう半年以上会ってない。
(俺は——)
海斗が急にドアを開けた。少し笑いながら、車から降りる。
「悪いな、高瀬さん。もう帰ってええで」
「え?」
「娘さんに、よろしく。じゃあの」
海斗は、背を向け手を降りながら、気だるそうに歩いていく。
(なんて、少年だ……)
自分が無くしたはずの感情が揺さぶられる。高瀬は思わず車を飛び出し、海斗の背中に声を投げた。
「海斗くん、俺は——待ってるよ」
海斗は振り向き、高瀬を見つめる。高瀬も目線は外さない。
やがて、海斗の口元が綻んだ。
「——行ってくる」
そのまま、階段を地下に降りていった。その隣に女の姿が見えたような気がしたが、深く考えるのは止めた。
(俺は本当に……いい歳して)
高瀬は、唇が綻ぶのを手で隠した。
車に戻り、ハンドルを握る。
いつでも、逃げ出せるように。
そして——
いつでも、帰れるように。
高瀬は、階段を見つめる。
まだ、この街には馴染めない。
言葉も、空気も、まだ遠い。
けれど——
「……悪くないかもな」
そう呟いた時、地下から騒ぎ声が聞こえてきた。音楽が外まで漏れてきている。
地下から、若い女の子が数名飛び出してきた。悲鳴も聞こえる。
高瀬は、小さく笑った。
「さて、腕の見せどころだな」
雨は未だ止まず、いつまでも泣いている。
「また……晴れた日に、会いに行くよ」
もうすぐ、最後の乗客がやってくる。
高瀬は、エンジンのスタートボタンを勢いよく押した。




