第十夜 淵より出し鬼 後編
第十夜 淵より出し鬼 後編
(澪……頼む……)
陸は薄れゆく意識の中、水の中に落ちる感覚を覚えた。無慈悲な冷たさが全身を覆う。浅いはずの泉に、陸はどこまでも沈んでいく。
(海斗は……無事か……)
呼吸をしていないはずなのに、苦しくはない。
(俺は……護れ、なかった)
落ちていく、どこまでも……
…………
……
(……もう、ここまでか……ならせめて)
もう体に力は入らない。
(俺の、全て——持っていけ)
——それでも、護れなかったとしても。
やがて、体が土の上にゆっくりと落ちる。
泉の底。
目を開いているのかすら分からない暗闇。もはや感覚も失った。
だが……胸に小石のようなものが乗る。その感触だけは感じた。そして、その場所がほんのり暖かくなる。
(な、んだ……)
残された意識が、全て胸に集中する。それに意味があるのかは分からない。だが、温もりが全身に広がっていくようだ。
そして——声が響いた。
「……人間よ——面白いな」
それは、水中とは思えないほどはっきりと、陸の意識に届く。
音として聞いているのかも分からない。ただ、その言葉は陸の内側に落ちてきた。
(幻聴、か……)
「……その揺らぎは我らにはないもの」
遠いのか近いのか。位置というものが存在しない。ただ、意味だけが逃げ場なく降りてくる。
(何を、言っている……)
「お前は、真にその全てをかけるのか……」
(あぁ、海斗が助かるなら……)
終わりのない一瞬の間。
それは試すような沈黙に変わる。
「……ならば、縁を結んでやろう」
その言葉が落ちた瞬間——別の気配が、遠くから応えた。
背中が地の底を離れていく。
「ほぅ、来たか……拾うものが」
強い力が、陸を引き上げる。
「ならば、示してみよ——己が威を」
陸の体はさらに上昇する。その時、手のひらに柔らかいが芯のある毛が触れていた。
(見える……)
陸の瞳は、月明かりの反射する水面を捉えている。
やがて——陸は水中から、勢いそのままで飛び出した。
肺が空気を吸い込む。肌がその冷たさを思い出す。
そして、硬い感触がする土の上に体を投げ出された。
「ぐっ……!」
顔に触れる土や草の感触。
「俺は……生きている、のか……」
体が重力を取り戻し、動くだけで力がいる。
だが——動く。
意識は明瞭で、思考が廻りだす。
そして、開いた目に飛び込んだのは、銀色の狼——
月に照らされ全身が輝く。雄々しく立つその姿は覇気を纏っている。
陸は荒い呼吸の中、その声を聞いた。
「我は、縁に従いしもの」
「お、まえは……神、か?」
「畏れ多い。我が種は山犬」
その言葉は、すんなり陸に入ってくる。
「俺を、助けて、くれたのか?」
「否」
その時、牛鬼が山犬の背後から、腕を振るった。後ろを見ずに、山犬は跳躍する。
「我は、汝の魂と共にある——」
山犬は回転しつつ、後ろへ柔らかく着地した。
「それが翳らぬ限り」
牛鬼は動かない。やがて、頭から真っ二つに裂けた。そのまま、地面に溶けていく。
陸は自ら立ち上がり、左手を胸に当てる。そこにはもう、何もない。だが、温もりだけは残っている気がした。
「……そうか、ならば俺は——」
陸の足元から風が巻き起こる。そして、霊気が全身を包み込む。
理解ではなく、ただ確信だけがあった。
迷いはない。
——護る。
それだけでいい。
霊気が光となり、陸を中心にして結界が広がる。
「それだ」
山犬が表情を崩した。
結界は辺り一面を覆うほど広がっていた。そして、結界内の光が靄を消していく。
「この程度の瘴気、塵芥よ——さて」
山犬は海斗の方へ顔を向け、一足飛びに駆け寄った。
今や海斗は、陸の結界に護られている。だが、目を覚まさない。傍に立つ澪が顔をのぞきこんでいた。
「そこな人間、これを返そう」
山犬は口に含んでいた小石を、海斗の胸へ丁寧に置いた。
(あの石は……)
すると、その石は小さく輝き、海斗の胸の中に落ちていった。
その瞬間、澪の気配が大きく揺れた。石と同じ輝きが体を包む。
そして、海斗が目を開けた。陸の肩が僅かに落ちる。しかし、海斗の瞳が、石と同じ光を放ったように見えた。
「くそっ、気失ってたんか! 陸、澪、大丈夫かっ!」
海斗は体を起こして、矢継ぎ早に声をあげる。
「おわっ! なんや、この犬!」
「黙れ、小僧。ひとまず、この蟲どもを滅する」
「な、なんや分からんけど、分かったで!」
山犬に一喝され、海斗は慌てて立ち上がる。そして、あたりを睨みつけた。
「小僧、半分任せるぞ」
「半分でええんか?」
海斗は不敵な笑みを浮かべる。
「ふっ、我は今気分が良い。久方ぶりに暴れたい」
「同感や!」
山犬も笑みを浮かべる。
そして、双方の霊力が体から立ち昇る。霊気が渦巻き、二本の柱となる。
「汝よ、我が真名を呼ぶが良い」
「こっからリベンジや」
牛鬼の群れがたじろいだように、動きを止める。
「我が名は——」
「いくで——」
「——狼鬼!」
「——澪!」
狼鬼の体毛が逆立ち、顔は悪鬼のごとく。
澪が海斗の背中に乗り、海斗の表情はまさに鬼。
そして、二本の柱が左右に散った。
泉の淵に沿って、黒い嵐が周囲を巻き込みながら周回する。
海斗の拳が牛鬼の胴を貫く。
狼鬼の爪が首を刎ねる。
陸の結界が全てを弾き返す。
牛鬼は群れで押し寄せる。強烈な力を込め、その腕を振り抜く。
しかし、陸の結界は破られない。
二度、三度——それでも結界はびくともしない。
海斗と狼鬼は左右から挟み込む。逃げ場はない。
一方的な蹂躙だった。
再び、泉から牛鬼が這い出てくることもなかった。溶けていく牛鬼たちは、数を徐々に減らしていく。
やがて、最後の一体が闇に溶けていった。
淵より出し鬼は、鬼により淵に帰る——
陸は、全体を見渡すように視線を巡らせる。
「これで、全て……護れた」
そして静寂が戻った。
陸はゆっくりと結界を閉じる。光は収束し、陸へと還っていった。
「陸、助かったで! 何や、あの技!」
「さっき出来るようになった」
「お前はいつもそうやな!」
大きく口を開けて笑う海斗に、陸の表情も緩む。だが、確かめておきたいことがある。陸はすぐ真顔に戻った。
「海斗、あの石はお前のなんだ」
海斗は呆けた顔をした。だがそれは一瞬のことで、眉を顰めて腕を組んだ。
「俺にも、よくわからへん。ただ——」
「ただ?」
「力が戻ったんは事実やし、なんていうか、その……」
頭の中から言葉を探しているようで、忙しなく手が動いている。
「なんや、懐かしく感じたわ」
その言葉に、陸は僅かな引っ掛かりを覚える。
「何かが……中におるような感じや……」
柊木は神のかけらだと言った。それが今、海斗の中にある。
陸は目を閉じ、意識を集中させた——だが、何も感じない。
「それより、その犬はなんや? 普通に喋っとんで!」
「……小僧、お主も引き裂かれたいか」
狼鬼が牙を剥き出しにする。海斗は半歩後ろに下がった。
陸は狼鬼を見つめる。
銀の毛並み、真紅の瞳。
(これが、俺が縁を結んだもの……)
「海斗、犬じゃない。俺の守護者、山犬の狼鬼だ」
「人間……いや、陸よ」
狼鬼は陸の足に、自らの尻尾を絡めるようにまとわりつく。
「陸は、我の嫁よ」
「……なに?」
「狼鬼、陸は男やで?」
狼鬼はふん、と鼻を鳴らした。
「そうか、人間は性にこだわるものだな」
「……普通、そうやろ……」
「ふむ、ならば——」
銀の毛並みが揺らぎ、輪郭が崩れていく。獣の形は溶けていき、月光を纏うように——人の形をとった。
銀の長い髪、妖艶な口元。そして、全てを溶ろけさせるような紅い瞳。
——人ではない、美しさだった。
「これでよかろう」
すでに声も女性のそれだった。
「そう言われてもな……」
陸は頭を抱えたくなった。海斗は口を大きく開けたまま、固まっている。
「我と共にある幸せを噛み締めよ」
「あぁ、よろしくな……」
その姿で言われると、陸ですら心臓の鼓動が早くなる。それに笑っていたが、目は一切笑っていない。陸は軽く深呼吸をした。
「せ、せや、澪。お前結構やられてたけ、ど……え?」
我に返った海斗の言葉が、変なところで途切れた。陸も澪へ視線を移す。そして目を見張った。
「顔が……」
「澪、お前の顔が、視えるで……」
今までずっと顔がぼやけていた。まるでピントが合っていないように。だが、今ははっきりと目や口が視える。
「お前、そんな顔してたんやな……」
海斗は右の手のひらで、澪の頬を包み込んだ。澪の気配が震えた。穏やかに微笑む海斗を一瞬見上げたが、すぐに目を伏せてしまった。
「な、何や澪……変な感じになるやんけ……」
——まるで、初めて触れられたみたいに。
「ほぅ、小僧もなかなか……」
「どういう意味だ?」
「ふふっ、色々な意味で、じゃ」
狼鬼は怪しい笑みを浮かべた。月に照らされたその横顔は、人が触れてはならない美しさがあった。
——不思議な夜だ。
思考は闇に溶けていく。陸は泉へと視線を落とした。
もう何も感じない。そこにあったはずの何かは、完全に消えていた。
水面が、ただ月を映しているだけだった——
同じ夜、数時間後—
柊木の小屋を訪ねる者がいた。ノックもなく、いきなりドアを開ける。
「久しぶり、柊木のおっさん」
「……八十藏か」
柊木も特に何も注意しない。それどころか、コーヒーの準備をし始める。
「報告は読んだ。これでお役御免だな」
「あぁ……長かったで」
「あいつら、何か言ってたか?」
柊木は不意に振り向いた。その目は笑っている。
「もう心配ないでって言っとったわ」
「そうか」
「ワシの事まで心配しおって」
今度はクックッと声を出した。ふと、コーヒーの香りが八十藏の鼻をかすめた。
「けど、最後にええもんが見れたわ」
「そのようだな」
「あれほど愛されるとは、驚きやで」
ようやくコーヒーが出てきた。八十藏は早速その味を確かめた。一口含んで、頬を緩ませる。
「これから、どうする?」
「もう、好きにさせてもらうで」
「他にも危険な場所はあるんだが」
「分かっとる、他のもんに任せるわ」
八十藏は一瞬口を開きかけたが、コーヒーを啜った。
「老兵は去るのみ、やで」
「まだまだ、やれると思うけどな。一流だったんだし」
「ワシはただの一流止まりよ。お前とは違うわ」
静かな夜に、二人のコーヒーを啜る音だけが流れている。外から感じる気配はもうない。
「ただ……」
柊木が言葉を止めた。八十藏は口を挟まずに、続きを待っている。
「あの金髪小僧には、気をつけてやれ。あいつは——魅入られとるぞ」
八十藏はゆっくりとコーヒーカップを置いた。
「やはり、そうか」
「……分かってるなら、ええんや」
柊木は椅子から立ち上がった。ドアの近くには年季の入ったリュックが置いてある。
「ほな、ワシはもう行くわ……元気でな」
「あぁ、コーヒーいつも美味かったよ」
「今、言うんか……じゃあの」
笑いながら柊木はドアを開け出ていった。
小屋に一人残された八十藏は、最後に残ったコーヒーを飲み干す。
一人きりの静かな時間。柊木が毎日過ごしていた時間——
八十藏は、静かに声を出して笑った。
「確定だ……見つけたぞ」
——ようやく、揃った。
闇夜に八十藏の声が消えていく。
これより後、柊木の行方は誰も知らない——




