第六九七話 ナニか
ダミーとなっていた柱の触手を取り込んだことで、ブラットがダミー──イカの王だと異界に誤認させることができている。
しかし呑気にしていると、その誤魔化しも修正されてしまう。
「その前に終わらせるよ──マリン、アデル」
「はーい」
「ええ」
マリンの種族超位職技能による水世界創造は、この深海世界と相性もいい。
それにクロミアの夢の干渉力とアデルの魔力が籠った大量の血液をスフィアが融合させ、マリンと一緒に上書きするように広げていく。
クロミア、アデル、スフィア、マリンの四人合わせても、完全に奪うには時間がかかる。けれどそんなに時間をかけていたら、相手に付け入る隙を与えることになるだろう。
そこで時間短縮に必要な出力を補うために、スフィアによって他のメンバーの出力も借り受け、一気に『沈没都市』をクロミアが奪い取っていった。
「成功した。これでここは私の管理下に入ったよ」
「あの気味の悪い見られている感覚が無くなったかも?」
ファフニールはキョロキョロと周囲を見回すような仕草をしながら、少しだけ脱力したようにピンと張っていた尻尾が弛緩する。
「確かにあのウゼー感覚はなくなったな」
「じゃあもうここは兄ちゃんの制御下にあるってことだよな? じゃあ、俺たちは外に出ることもできるのか?」
「結論から言うと、この契約を誤魔化すような術を用意しないと無理だろうね。それに少しでも離れたら、せっかく手に入れた領域も手放すことになる。
元は向こうの領域だったんだから、無人の場所を取り戻すなんて簡単なはずだから。
けどいざというときの避難先にはなると思う。ここはもうイカの王にも簡単には操作できない場所にはなったから、こっそり侵入したり妙な仕掛けもないと思っていいよ」
これで完全勝利などということはないが、安全地帯を作れたというのが大きい。
ここならば一歩でも支配領域に踏み込めば、今度はクロミア側が手に取るようにイカの王の居場所が分かるようになる。
たとえここで戦闘になったとしても、クロミアたちに有利な状況だって作れる。そんな場所に相手もわざわざ入ってこないだろう。
「それとこの領域を掌握したことで、ここがどんな場所だったのかも理解できた。イカの王が何をしていたのか、しておきたかったのかも判明したよ」
「えっと、クロミアちゃん。今していた……って言ったよね?
ということは、もう何かしら私たちは被害を受けてたってことなのかな?」
「うん。記憶を読まれてたみたい」
「記憶!? 記憶かぁ。それはちょっと私も予想外だったかなぁ。それって大丈夫なの?」
「イカの王が想定していたよりも早く対処できたから、実害が出るレベルでの情報漏洩はなかったはず……と思いたいな。
正直、ここまでの探索でどんな記憶を盗み見られたかまでは分からないから」
「盗み見られてしまった記憶に関してはもうどうしようもないのでしょうし、ここは敵の想定を上回る速度で対処できたことを喜ぶべきかしら」
一気に雰囲気が暗くなるが、アデルのその言葉が場を少し明るくしてくれる。
クロミアはイカの王がここにきて奪い返されないよう、深淵の方で記述に干渉して手を出せなくするための書き換えを行いつつ、話を続けていく。
「私たちもある程度抵抗できるから、自分が知られたくないと強く思ってるような情報にまでは踏み込めていなかったはずだよ」
「ちなみに抵抗できていなかったら、どうなってたか聞いてもいいか?」
「私たちがイカの王の格下だった場合は、記憶を盗み見られるんじゃなくて、完全に奪われてたね。取られた情報は忘却する。かなりエグイよ、この領域って」
「でも俺たちはそこまでじゃないんだよな?」
「うん。たださすがに年単位でここに居続けたら、そのときは記憶が虫食い状態になってただろうけど。
さすがにこの時間じゃ、表層の記憶を多少盗み見るくらいのことしか私たちにはできないから安心して」
自分たちは大丈夫であったが、もし記憶を略奪されていたらと思い皆が肝を冷やす。
この沈没都市は記憶を海水で溶かすように奪うような法則が敷かれていた。
奪うことまではできないクロミアたちのような同格以上の相手でも、海水を通してこの異界では話したことも見せたこともないような記憶をコピーされ、イカの王に流されていく。
またあちこちに遺棄されていた遺骨もトラップだった。あれを視認するほど、記憶の流出を促すような法則が敷かれていたのだ。
普通の感性からして人間の遺骨が落ちていたら、思わず視線が向くものだ。
実際にクロミアたちも、視界の端に骨が映ると無意識的に目のフォーカスを合わせてしまっていた。
その度にデバフのように記憶の流出力とでもいうべき力がストックされていたのだから、人間の心理をつく上手いやり方だとクロミアも思わず参考にしてしまいたくなる手口である。
またずっと付きまとっていた視線。あからさまなほどに視線を感じさせていたのも、不愉快にさせて感情を波立たせることで、より記憶を読み取りやすくしていた。
「つまりここは情報収集のための場所ってわけだね。逆に言えば、記憶っていう繊細なものに干渉するなんて難しい法則を作ったから、私たちに攻撃できるような戦力を送り込むリソースは残ってなかった。
だからここは攻撃もされずに、ずっと静かだったってわけだね」
「他の領域で危険になったら、ここは安全だったって戻ってくる可能性もあっただろうしね。
そうしたらまた、私たちの記憶の流出が再開するって感じでループしてたのかも」
スフィアのその言葉で、あえて戦力を置かないことすら逆手に取ろうとしていたのだとイカの王の狡猾さを皆もより強く理解させられた。
クロミアと互角に戦えるかもしれない実力がありながら、そんな搦め手まで使いこなす。どおりで海の覇者としてずっと君臨し続けられたわけだと、同時に納得もしてしまう。
「んじゃあ、ここはそういう場所だったってことでいいけどよ。他の場所はもう記憶は取られねぇって思っていいのか?」
「それはまだ何とも言えないかな。けど記憶を読み取る法則は理解した。もし、しようとしても、その領域を掌握する前に事前にこっちも気づけるから対処もできると思うよ」
魔法式のようなあからさまな情報は表側にはないが、深淵領域の観測ができるものからすれば、情報はそこら中に転がっている。
まだ新米深淵領域使いであるクロミアでは、未知の力の流れを初見で見抜くことはできなかったが、ちゃんとこの領域で学ぶことはできた。もう次はない。
その干渉を夢の力で打ち消す方法も、既に頭の中に出来上がってきている。
「人間を舐めるなってね。とまぁ、この領域について語れることはこれくらいかな。
もうここにはイカの王がいないことは分かったし、ここの魔法陣の改竄も終わった。さっさとこの沈没都市を出て次に──っ!?」
クロミアは会話の途中で強い視線を感じ、教会の地下祭壇の斜め上を睨みつけた。
それは他のメンバーも同じだったようで、反応速度に違いはあれど全員が同じ方向を見ていた。
「イカの王が、我々を見ていたノでしょうカ?」
「いや……そんなわけない。ここはもう私の領域だ。イカの王がそんな近くに来てたら、さすがに気づけるから……」
「じゃあいったいナニかって、クロミアちゃんは分かるかな?」
「分からない……外に行ってみよう」
それは一瞬だけだった。射貫くような力強い視線、それでいて他人にいきなり顔を舐められたかのような嫌悪感があった。
気づけばクロミア含め、全員の肌に鳥肌が立っていた。アイゼンについては、肌はないのでそういう感情を持った──というだけだが。
いったいナニがいたのか。クロミアたちはもう用はなくなった地下祭壇を後にして、急いで階段を駆け上がり視線を感じた境界入り口付近へと辿り着く。
だが当然のように、そこには何もいない。入り口に立って周囲を見渡しても、何者かがいる気配すらない。
……だが、痕跡はあった。
「こコに何かが這ったヨうな痕跡が残されてマすね」
「だとすると大きくない? マリンの何倍もありそう」
入り口の手前の道には巨大で重い〝ナニか〟が、地を這うようにして移動したであろう跡が残っていた。
それはクロミアたちの後をつけてくるようなルートで分かりやすく残っており、視線を向けてからは別方向へ移動したようだ。
「イカの王ではない……というか、私の領域で私に気づかれずに行動してるナニかがいるみたいなんだけど、どうする? 追ってみる?」
「気持ちわりぃし、正体を確かめておこうぜ」
「何か分からないモノに、ずっと付け回されるのは私も嫌ね。追ってみましょう」
皆も気になっていたようで、去っていったであろう方角に続く痕跡を追ってみることにした。
隠す気はないようで、辿るのは簡単だ。この領域のコンセプトとして、戦うような存在は配置できない。だがそもそもクロミアが掌握したのだから、この領域が及ぼすマイナス効果は全て対象外にしてあるはずだ。
なのでイカの王が何か仕掛けてきているとは考え難い。
(もしも私に気づかれずに歩き回れるような存在だとすると、桃色真君並みの干渉力があるってことになるよね)
敵なのかすら分からないが、その存在の戦力があまりにも未知数過ぎた。
全力で追いつくような速度で走るのではなく、相手を観測できる程度にこっそり近づこうと慎重に追跡していく。
「コこで途切れてイますね。これだケの質量の存在が、突然消えタということになりまスが」
「あの時の視線といい、気味が悪いな……」
どこかから飛び掛かって来るのではないかと、盾をずっと突き出したままのグリードは、その謎の存在へ、そんな言葉を投げかける。だが向けられたナニかは、どこにもいない。
行きついたのは沈没都市の袋小路の行き止まり。そこで痕跡は途切れていた。
ナメクジのように壁を登っていったのかとも思ったが、周囲の壁や建築物にそのような跡はついていない。
行き止まりに到着した瞬間、まるでワープしたようにどこかへ消えてしまったという他ない状況だった。
戻って確認してみても、やはり別の場所にいったような痕跡は見当たらない。
確実にこの袋小路に入って、その奥まで進んだところで消えたのだ。
「あるいは空を飛んだのかも?」
「さすがにこの幅の痕跡を残せるのが空を飛べば、私たちは気づいていたはずだよ、スフィア」
「だよね。でもそうなると、このナニかはお姉ちゃんに捕捉されることなく、自由にあちこち移動できるってことになるよね。こんなに大きくて目立ちそうなのに」
まるでそんな存在など最初からいなかったかのように、どこにも見当たらない。
だというのに確かにいたという痕跡だけが、地面に分かりやすく残されている。だからこそ余計に気持ちが悪く、気味が悪い。
「ワオ~ン?」
理解できない現象に見舞われ、立ち尽くしていたクロミアたちに空気を読まずに幻狼が「まだ行かないの?」とばかりにせっついてきた。
確かに次の居場所に案内するぜと張り切っていたというのに、全く違う場所へ連れていかれたのだから、そう言いたくなる気持ちも分からなくもないかとクロミアは彼の頭を撫でた。
すると心なしか鼻の下が伸びたような気がした。
(やっぱりブラットでいたときより、なんか嬉しそう……? BMOじゃこんな反応なかったけど、実は狼王って女好きだった? それともこの幻狼にそういう要素があって、それと混ざったとか? なんかスケベな感じがして嫌だなぁ)
とはいえ有能なので、狼王の意識を使わないという選択肢はない。
女性相手だと少しデレデレするだけで、仕事はちゃんとこなしてくれる。これくらいの性質は大目に見てやろうと、諦め受け入れることにした。
「放置っていうのも気持ち悪いのは分かるけど、これ以上ここで探しても見つからない気がする。
だから私はここで追跡は切り上げて、次のイカの王がいる場所に向かったほうがいいんじゃないかって思ったけど、皆はどう思う?」
「くそっ。けど、しゃーないか。俺らも呑気に時間を無駄にできるような状況じゃねーしな」
一番追跡に乗り気だったイグニスも異論はないようで、満場一致で〝ナニか〟の追跡は断念し、イカの王の追跡の方を進めることにした。
幻狼に案内してもらい、沈没都市の北側にある門までやってきた。この門の向う側は、クロミアが手に入れた領域の外──つまりイカの王の領域となる。
ここから先は、またどんな法則が敷かれた場所なのか全く分からない。
「これって自分で決めてるのかな? だとしたら趣味悪いね」
「まぁ、良いとはとてもじゃないけど言えないね」
マリンの抉るような言葉のナイフに、クロミアは苦笑してしまう。
だがそう言われるのも無理はない光景が目の前に広がっていた。
一言で言えば、サンゴの森。それだけ聞けば、なんて素敵そうな場所なんだと思うかもしれないが、そんな可愛らしいサンゴではない。
まるで巨大な食虫植物のような見た目のサンゴ礁で、色は深海の闇に溶け込むような漆黒。完全に迷い込んだ存在を食べる気満々、殺意マシマシな場所である。
試しに沈没都市に落ちていた遺骨を拾って投げてみると、触れた瞬間バクンとハエトリソウに似たサンゴが呑み込み、骨をバリボリと砕くような音が不気味に響き渡った。
「けど目に見えるものが全てじゃないっていうのは、沈没都市の仕様で理解したと思う。
できるだけ私も深淵領域で観測して、ヤバそうなのはないか確認はしてみるけど、あんまり期待しないでね。ただ記憶の収集はなさそうではあるね」
「勝手に僕たちの記憶を取られるって聞いたときは気持ち悪かったし、それならまだこっちのほうがマシなのかも」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。油断だけはするなよ、ファフ」
「分かってるよ。グリード兄」
どんな領域なのか、まったく分からない。だがイカの王のこれまで見てきた性格からして、今見えている範囲での脅威は単なる注意を引きつけるブラフである可能性が高い。
マジシャンのようにいかにもなサンゴに意識を向けさせ、本命を裏で動かして事をなす。それがイカの王にはできるということは、嫌というほど既に理解させられている。
「でも行くしかない。幻狼、道案内は頼んだよ。あと食べられないでね」
「ワン!」
そんなヘマするかよと少しキザに口元をニヤリと歪ませた幻狼は、誰よりも先にサンゴの森へと足を踏み入れていく。
数歩遅れてクロミアたちも、未知の領域──『サンゴの森』へと侵入していった。
次は火曜日更新予定です!




