3. パリの熱狂 - 貞奴とオードリー・ヘップバーン
第3話:パリの熱狂 - 貞奴とオードリー・ヘップバーン
パリ万博の熱狂が頂点へと向かう中、セーヌ川のほとりにある豪奢な芸術家サロンは、異国から現れた「サダヤッコ」という名の巨大な磁場に引き寄せられたインテリたちの熱気で、酸欠寸前の状態にあった。
豪奢なシャンデリアの下、タキシードを纏った文化人たちが、着物の合わせを真似た『カシュクール・ドレス』を着こなす狂乱の貴婦人たちとシャンパンを傾け、東洋の新たな美の女神について口高々に激論を交わしている。
そのサロンの最奥、最高級のベルベットのソファーに特注の着物の裾を優雅に翻して座る川上貞奴の前に、一人の大柄な白人老人が、周囲の目を気にも留めずに突進してきた。
オーギュスト・ロダン。
西洋の彫刻界の頂点に君臨する、あの『考える人』を生み出した偉大なる巨匠である。
「おお、サダヤッコ! 貴女の『静と動』の肉体は、ギリシャ彫刻の伝統すら超越した真の芸術だ!」
ロダンは興奮のあまり、白髭を激しく震わせながら貞奴の足元へ狂気的に五体投地せんばかりに迫った。
「お願いだ、サダヤッコ! その美しい衣服を脱ぎ捨て、私の前で裸婦モデルになってくれ! 貴女のその完璧な脚をそのまま私の手で触らせてくれ、粘土にさせてくれ!」
周囲のフランス人たちが「巨匠ロダンにそこまで言わせるとは!」と息をのむ中、貞奴の目は冷め切っていた。彼女はキセルを優雅に指に挟み、ふぅと白い煙をロダンの頭上に吹きかけた。
公式通訳の磯野秋雄が、そのフランス語の熱烈な芸術論に「貞さん、ロダン先生が君の肉体を不朽の彫刻に残したいと、涙を流して熱望されている……!」と声を震わせてトランスレート(直訳)するが、貞奴はフンと鼻で笑っただけだった。
「秋雄、うろたえるんじゃないよ。紙の上の学問しか知らないお前には、このジジイの『欲のありか』が視えないかい。……おい、お雇い彫刻家先生」
貞奴はフランス語が一文字も書けない「神秘の東洋の妖精」の皮を被ったまま、カラスの濡れ羽色の黒髪を建前に妖艶に揺らし、心の中でロダンの剥き出しの芸術的本能を冷徹にハッキング(インテリプリート)していた 。
(ギリシャ彫刻がどうしたって? へっ、気味の悪い、頑固な西洋のジジイがよく喋る。私をモデルにしたいんじゃない、西洋の硬っ苦しい理屈(文字)に行き詰まったあんたが、私の身体を都合のいい『未開のカンバス(型)』にして、自分のスランプを埋めたいだけだろ。冗談じゃない、私のふくらはぎはあんたの粘土細工のためにあるんじゃないよ)
貞奴は、ロダン美術館にのちの世まで一級の一次資料として遺されることになる彼の熱烈な要請を、吸い込まれるような漆黒の瞳の一閃で、冷淡に「フンス」と突っぱねてみせた。
ロダンが拒絶に戦慄して呻く横で、今度はサロンの壁際から、一枚のキャンバスを抱えた、目のギラギラとした若者が近づいてきた。パブロ・ピカソ、十九歳。貞奴の舞台『芸者と武士』を観るために金を工面して劇場に通い詰めていた、未来の怪物の若き姿である。
「サダヤッコ、これを観てくれ」
ピカソが差し出したのは、まだ乾ききっていない油彩画(のちの一次資料『La danseuse Sada Yacco』)だった。
その絵画の熱気を取り囲むように、サロンの主役たるパリの「ミューズ」たちが、カシュクール・ドレスのシルクの胸元を揺らして貞奴の周りに集まってきた [,,]。ロートレックのミューズであるキャバレーの女王ジャンヌ・アヴリルが溜息を漏らす中、一人の目の眩むほどに知的な二十七歳の女性が、貞奴の黒髪を食い入るように見つめていた。
のちに小説を書き上げ、映画『恋の手ほどき(原題:Gigi)』の原点として世界を魅了することになる天才作家、コレットである。
「見てごらんなさい、ヤッコ」
コレットは、手に持ったシャンパングラスを貞奴に傾けた。
「パリ中の大富豪を手玉に取る、あの生意気な『恋の手ほどき(ジジ)』のような娘たちでさえ、今や貴女のそのカラスの濡れ羽色の黒髪と、漆黒の瞳の残影を追いかけて、コルセットを脱ぎ捨てて着物の合わせ(カシュクール)にひれ伏しているわ 。貴女こそが、このパリの新しい夜のミューズよ」
そのコレットの言葉を、上品なセーラー服を着た十一歳の美少年――ジャン・コクトーが、身を震わせながら聴いていた。
西洋の過去の巨匠、現在の絶対女王、そして未来の天才たち(ピカソ、コクトー、コレット)。
彼らは誰もが、貞奴の肉体を「東洋のエキゾチズム」と勝手に勘違いし、自分たちの都合のいい美の型に当てはめて熱狂し、ひれ伏していた。
だが、貞奴はキセルの煙の向こうで、彼ら西洋のインテリたちの美意識の足元を、完全に冷徹に見透かしていたのだ。
「へっ。おませな坊やに、貧乏な絵描きさん、そして綺麗な物書きのお姉さんかい。まぁ、いい服を着こなしてるじゃないか」
貞奴は手帳のカタカナの文字(『ハオ・ピエン = 綺麗にハメてやった』)を指先でそっとなぞった。
言葉は通じなくとも、彼女が仕掛けた「黒の熱病」のハッキングは、完璧にパリの脳髄を支配していた 。
「お前たちのその澄んだ耳で、消えゆく東洋の音をよお聴いておきな。……サラさん、終わりじゃないさ」
貞奴は、サロンの壁際から嫉妬の瞳を向けてくるサラ・ベルナールを漆黒の瞳で見据え、心の中で静かに予言を告げた。
「私がこのパリのドブ板に植え付けた東洋の『黒』はね、これからやってくるエコール・ド・パリの若い絵描きども(モディリアーニやフジタ)の脳髄に消えない絵の具として残り続ける。
それだけじゃない。コレットさん、あんたが五十年後にニューヨークの舞台の上で見つけ出すことになる、あの世界一美しく気高い『黒髪と黒い瞳のハリウッド女優』の脳髄にまでね。
西洋の金髪の常識をひっくり返すその黒い美の血脈は、今夜、私のこのカラスの濡れ羽色の黒髪から始まってるんだよ!」
貞奴は不敵で妖艶な微笑みを彼らに投げかけ、特注の着物の裾を翻してサロンを後にした。
サロンの窓の外、一九〇〇年のパリの夜空には、西洋の古い権威と巨匠たちの美意識をすべて飲み込み、新しい世紀の芸術を支配しようとする巨大な『オリエンタルの雲』が、美しく、そして不穏に渦巻いていた。
小説『ジジ』を原作者のコレット自身が舞台化(1951年・ブロードウェイ初演)する際、当時まだ無名だったオードリー・ヘプバーンを直々にスカウトして主役に抜擢しました。
そして、オードリーの最大のチャームポイントこそ、西洋の金髪の常識を覆した、あの気高く美しい「黒髪と漆黒の瞳」です。
1900年のパリで、コレットが川上貞奴の「カラスの濡れ羽色の黒髪」と「漆黒の瞳」に脳髄を撃ち抜かれ、その50年後、自分が生み出した『ジジ(恋の手ほどき)』の主役として、黒髪のオードリーを世界へ送り出した。




