4. キセルの煙 - 男たちの嫉妬
第4話:キセルの煙 - 男たちの嫉妬
一九〇〇年の秋、パリの街に吹きつける風は、万国博覧会の閉幕が近づいていることを告げるように、どこか寂しげな冷たさを帯び始めていた。
だが、その喧騒の最中にある「ロイ・フラー館」の帳場だけは、未だにどろどろとした金と欲の熱気が渦巻いている。
万博のステージで大爆発的な成功を収めた川上音二郎一座の前には、文字通りフランス金貨の山が築かれていた。
そこへ、一座をアメリカの地獄から救い出し、このパリへと直々に『招待』したプロデューサー
―近代ダンスの祖でありアメリカのやり手興行師でもあるロイ・フラーが、新たな欧州ツアーの契約書(英文とフランス文が並ぶ、分厚い文字の書類)を卓に叩きつけたのだ。
「さあ、音二郎、秋雄。万博の次はロンドン、そしてベルリンよ。この専属契約書にサインをしなさい。費用も劇場のセッティングも、この私がすべて持ってやる」
一座の公式通訳である若き書生の磯野秋雄は、提示された書類の『文字(直訳)』を必死に追いながら、「貞さん、音さん……これは万博後の我々の知名度を考えれば、西洋のビジネスの極めて正当なルールです」と納得の表情を浮かべた。座長の川上音二郎もまた、「これでヨーロッパ中を興行できる!」と大喜びで万年筆を握り、サインしようとする。
だが、ソファーでキセルを燻らせる貞奴の吸い込まれるような漆黒の瞳だけは、冷徹に光っていた。
「秋雄、音さん。紙の上の文字に騙されちゃいけないよ。その万年筆を置きな」
「な、何を言うんだい貞さん。これはフラーさんが僕たちのために……」
「ふん。お上品に文字を並べるだけのアメリカの魔女が、よお喋るねぇ」
貞奴は、あえて言葉の分からぬ『神秘の東洋の妖精』の皮を被ったまま、
カラスの濡れ羽色の美しい黒髪を妖艶にかき上げた 。
そして、フラーが隣に座るフランス人の興行マネージャーと目配せしながらボソボソと交わしていた、早口のフランス語の密談(本音)を、耳からダイレクトに手帳へと毟り取っていったのだ。
フラーたちのフランス語の本音:「文字の契約書を少し書き換えておいた。この東洋の珍獣どもを安値の専属契約で縛り、欧州ツアーでの数万フランの売上は、すべて私のアメリカの口座に送る。どうせあいつらはフランス語はおろか、横文字の法律なんか読めやしない」
すべてを見透かした貞奴は、懐の手帳(『ヌ・パニケ・パ = 騙し倒して金を分捕る合図』)を指先でなぞると、強引に卓のインク瓶を奪い取ってフラーの前にドンと突き放した、
「お言葉ですがね、フラーの旦那。あんたが隣のフランス人と『東洋の珍獣を安値で縛る(好騙)』なんて、生のフランス語で笑い合ってりゃ世話ねえな。英語の契約書の上ではもっともらしい数字を並べてるが、欧州興行の本当の裏の取り分は、その倍だってことを、俺のこの手帳(耳)はちゃんと聴き取ってんだよ!」
フランス語の生の音声(本音)を完璧にまくしたててフラーたちの不正をその場で暴露し、契約の主導権を完全にひっくり返してみせた貞奴の知性の前に、ロイ・フラーは顔を真っ赤にして戦慄した。
文字の奴隷になりかけていた音二郎と秋雄は、呆然と腰を抜かすばかりだった。
――だが、タフな交渉に完全勝利し、オフィシェ・ダ・アカデミー勲章(フランス学士院勲章)のウワサ話が、楽屋に流れる中、日本から届いた最新の新聞や文芸誌を開いた秋雄と音二郎の顔が、今度は別の意味で青ざめた。
誌面には、東京の帝国大学(現・東大)などで西洋の小難しい演劇(文字の学問)を必死に翻訳して真似ようとしている、日本のインテリ男たちによる、凄まじい貞奴への誹謗中傷と黙殺が書き連ねられていたのだ。
『サダヤッコの舞台など、本物の芸術ではない。未開の見世物がエキゾチズムで西洋人にウケただけだ。あんな元芸者を、日本の近代化の象徴にしてはならない』
お上の政府もまた、公費で留学させた品行方正な良家のお嬢様(津田梅子や山川捨松)たちを近代の主役にしたいがために、元芸者である貞奴の圧倒的なファクト(成功)を歴史の年表から綺麗に消し去ろうとしていた。
「へっ、東京の文字の学問に溺れる馬鹿どもが」
貞奴は文芸誌を一瞥すると、冷徹に吐き捨てた。
「自分の足元にある宝(肉体の芸術)の価値も分からず、西洋の真似事(張り子の文明)に浮かれてる奴らを見ていると、反吐が出るほど浅ましいね。お上の作った綺麗な歴史の文字(年表)なんかに、私の命を値踏みされてたまるかい」
貞奴は不敵に笑い、夜空へ向けてキセルの煙を吹き出した。日本の男どもの器の小さい嫉妬すらもすべて飲み込んでいった。
川上貞奴の誇りは、お上の作った歴史に抗いながら、次なる時代へと激しく動き出すのであった。




