2. 聖なるサラ-Bonsoir, Mademoiselle
第2話:聖なるサラ-Bonsoir, Mademoiselle
パリ万博の会場内、「ロイ・フラー館」を震わせていた地鳴りのような歓声が、薄暗い楽屋の防音の壁に遮られて、遠い地響きへと変わる。
舞台『芸者と武士』の幕が下りた直後、ステージの上で凄絶な悶絶死を演じきった川上貞奴は、汗の滲む首元を緩め、特注の最高級の着物の襟を静かに整えていた。
廊下からは、「今日のパリジャンたちの熱狂は昨日以上だ!」と公式通訳の磯野秋雄が声を上ずらせ []、座長の川上音二郎が「これでフランスの金貨は俺たちのものだ!」と相変わらず無邪気に気炎を上げる声が響いている。高田や磯野が激しい殺陣で使った太刀を片付ける金属音が、トントンと小気味よく響く。
だが、貞奴の目はどこまでも冷めていた。彼女は鏡の前でキセルに火をつけると、内ポケットにある、あのカタカナと漢字で埋め尽くされた秘密の手帳を指先でそっと撫でた。
彼女の耳は、狂乱する観客の拍手の裏で動く、「別の傲慢な足音」をすでに捉えていたのだ。
――コン、コン。
乾いた、しかし容赦のないノックの音が楽屋の木扉を叩いた。
次の瞬間、扉が大きく開き、室内に冷徹な夜の風が流れ込んできた。
「……ッ、サ、サラ・ベルナール様!?」
お茶を運ぼうとしていた磯野秋雄が、その姿を見た瞬間、ガタガタと膝を震わせて腰を抜かさんばかりに息をのんだ。音二郎もまた、その人物が放つ圧倒的な威圧感に、喉の奥を完全にロックされたように硬直する。
入ってきたのは、黒い毛皮のベールを脱ぎ捨てた一人の高慢な白人女性――フランス演劇界の絶対女王であり、のちにこの国で国葬されることになる『聖なるサラ』こと、サラ・ベルナールであった 。
彼女は自身の名前を冠した大劇場を持つ演劇の神であり、パリの文化そのものを支配する絶対権威である。
サラは、変装して客席の闇から貞奴の舞台を完璧に偵察し終えていた。
自分の劇場の客を根底から奪い去り、パリの貴婦人たちの胸元を着物の合わせを模した『カシュクール・ドレス』に変えちまったこの東洋の女を、サラは上から冷徹に値踏みするように見下ろした。
そして、不敵で優雅な笑みをその唇に浮かべ、鈴を転がすような、しかし刃のように鋭いフランス語を楽屋の空間に響かせたのだ。
「Bonsoir, Mademoiselle.(こんばんは、お嬢さん)」
女王としての完璧な挨拶。サラはそこから一分の隙もなく、剃刀のような皮肉へと流れるように言葉を繋げた(実際の一次資料に遺された、歴史的対面の一言である)。
「Votre jeuはお見事ね、サダヤッコ。でも、貴女のそのしぐさは、洗練された『演劇』の文字ではないわ。ただの野蛮な、本能の叫び(ダンス)よ」
サラの取り巻きのフランス人のプロモーターどもは、「さすがサラ様だ、東洋の女を格の違いで黙らせた」と裏でフッと冷笑を浮かべた。
公式通訳である磯野秋雄は、「ボンソワ」の挨拶の後に続いた優雅なフランス語の専門用語の嵐に顔を青ざめさせ、「貞さん……最初の挨拶しか分からない。何か、難しい演劇の批評をされているようだが……」とオロオロと狼狽するばかりだった。紙の上の英語の文字しか知らない彼の死んだ耳には、今まさに目の前の女王が放ったフランス語の「刃(本音)」が届かない。
だが、貞奴はあえてフランス語が一文字も書けない、言葉の分からぬ「東洋の神秘の妖精」の皮を被ったまま、不敵にキセルの煙をふぅとサラの顔に向けて吹き出してみせた。
(『ボンソワ、マドモワゼル』ときたかい。お上品に文字を並べるだけのお偉い女王様が、よお喋るねぇ――)
激しい舞台を終えたばかりの、カラスの濡れ羽色の美しい黒髪を、貞奴は細い指先で妖艶にかき上げた 。
かつて横浜の『長い浜』のお座敷で、フランスの兵隊や強欲な貿易商たちの生きた声を耳から毟り取って手帳に蓄積してきた彼女にとって、このフランスの女王の言葉の裏にある「焦りと敗北感」を『解釈』することなど、赤子の手をひねるより容易かったのだ。
『ヌ・パニケ・パ(心配するな・焦るな) = うちの舞台のせいで、あんたの劇場の客席が今夜もスカスカになってる焦りの裏返し』
貞奴は懐の手帳のカタカナの文字を指先でそっとなぞりながら、心の中で完璧なハッキング(逆転のカタルシス)を完了させていた。
(演劇じゃなくて『本能の叫び』だって? へっ、綺麗に着飾ったフランスの国葬女優さんが 。言葉の通じない東洋の女に、パリ中の客も、ピカソもロダンも全部奪い取られたのが、そんなに悔しいかい。あんたのその高慢な言葉はね、ただの負け犬の悲鳴なんだよ)。
アリストテレスが『詩学』で説いた、観客の感情を洗い流す悲劇のカタルシス。
だが今、この薄暗い楽屋の空間で起きているのは、西洋演劇の絶対女王のプライドが、文字を持たぬ日本の女の野生の知性によって、内側から完璧に「浄化(粉砕)」されていくという、最高のカタルシスであった 。
貞奴はあえて何も言い返さず、フランス語で「Merci」とだけ、その吸い込まれるような漆黒の瞳でサラの足元を完全に見透かした不敵な微笑みを返してみせた 。
「――っ」
サラ・ベルナールは息をのんだ。
自分の放った傲慢な皮肉が、この東洋の女の圧倒的な知性と、一分の隙もないカラスの濡れ羽色の黒髪、そして漆黒の瞳の威圧感の前で完全に無力化されたことに気づき、戦慄したのだ 。
言葉で言い返さないからこそ、貞奴の沈黙の微笑みは、サラのプライドを完璧にへし折る決定打となった。
サラはそれ以上何も言えず、無言のまま、敗者の背中を見せて楽屋から足早に立ち去っていった。
「す、凄い……貞さん、一体何が起きたんだ?」
秋雄と音二郎が唖然として呟く中、貞奴は再び着物の袖を翻した。
楽屋の窓の外、一九〇〇年のパリの夜空には、フランスの古い権威と文字の文明をすべて飲み込もうとする巨大な『オリエンタルの雲』が、静かに、そこで美しく渦巻いていた。
二人の天才女優の最初の決戦は、サダヤッコの圧倒的な勝利によって、静かに幕を閉じた。




