1. パリへの招待状
『ふたりの天才女優』公式登場人物紹介
(川上音二郎一座)
川上貞奴
実在の背景: 元・東京新橋の伝説的トップ芸者。伊藤博文ら明治の元勲たちを手玉に取った美貌と知性の持ち主。
本作における役割: 主人公。 アルファベットやフランス語の文字(契約書)は一文字も書けない。
しかし、かつて横浜のお座敷で、フランスの兵隊や貿易商たちの生の声を耳から毟り取って蓄積した、驚異的なマルチリンガルの「聴覚」を持つ。
懐の「カタカナと漢字で埋め尽くされた秘密の手帳」を武器に、西洋の成金や巨匠たちの欲の本音を完璧に解釈する、夜と舞台の野生の表現者。
川上音二郎
実在の背景: 一座の座長。貞奴の夫。「オッペケペー節」で一世を風靡した自由民権運動の壮士上がりの破天荒な興行師。
本作における役割: 舞台の上では堂々たるサムライを演じ、「パリに日本の芸術を轟かせる!」と熱い理想を語る。しかし舞台裏では、借金と詐欺にまみれ、西洋のプロモーターが提示する「文字の契約書」を前にオロオロと震えるお調子者。妻である貞奴の知性に裏から完全にコントロールされている。
磯野秋雄
実在の背景: 音二郎の若き書生(弟子)。アメリカ・フランスの地獄の困窮旅を生き抜いた実戦メンバー。
本作における役割: 一座の公式な「通訳」として表に立つ。旅の中で必死に身につけた英語を操るが、文字の直訳に縛られるため、フランス人たちが裏で交わす早口のフランス語の密談や、サラ・ベルナールのような大物の優雅な皮肉(本音)を聴き落として騙されそうになる 。
本作における「死んだ文字の学問」の限界を示す、前作の書生ポジション。
高田実 / 磯野秋雄(殺陣師として兼任)
実在の背景: 一座の若き実力派俳優・書生たち。
本作における役割: パリ万博の頑丈な舞台裏で、大道具の設置から、息をのむような「激しい剣劇(殺陣)」をフィジカルでこなす男たち。フランスのヤッコ(観客)たちが「日本の武士の肉体はなんて強靭なんだ!」と目を剥く、劇場の圧倒的な戦闘力を支える存在。
西洋の怪物たち(劇場の支配者)
サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)
実在の背景: フランス演劇界の絶対女王。のちにフランスで国葬されることになる「聖なるサラ」。
本作における役割: 最大のライバル。 西洋演劇の伝統とプライドの塊 。
パリ万博で突如現れたサダヤッコに自分の劇場の客を根底から奪い去られ、激しい焦りと嫉ケートを燃やす [,]。お忍びの偵察の後、貞奴の楽屋へ直接乗り込み、優雅なフランス語の皮肉でマウンティングを仕掛けるが [,]、貞奴のハッキングによってそのプライドを内側から粉砕されることになる、もう一人の天才女優 。
ロイ・フラー(Loïe Fuller)
実在の背景: アメリカ出身の伝説的ダンサー・興行師。近代ダンスの祖 。
本作における役割: アメリカで飢死寸前だった川上一座をその圧倒的な眼力でスカウトし、自らの特設劇場「ロイ・フラー館」へ直々に招待した、サダヤッコ・カンパニーのプロデューサー兼ボス 。最新のカラー照明を操る「アメリカの魔女」であり、ビジネスにおいては冷徹な天秤(搾取の契約書)を突きつけてくる、もう一人の西洋の怪物。
パブロ・ピカソ(19) / オーギュスト・ロダン / ジャン・コクトー(11)
実在の背景: 20世紀のフランス・パリを支配することになる、芸術界の巨匠たち。
本作における役割: 貞奴の「静と動」の迫真の演技に脳髄を撃ち抜かれ、楽屋に押し寄せ、明日の絵の具代を削って舞台に通い詰める狂気のファンたち。彼らが「東洋のエキゾチズム」と勝手に勘違いしてひれ伏す横で、貞奴は彼らの流行の足元を見透かしてコントロールしていく。
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一九〇〇年、パリ万国博覧会。
世紀の変わり目に沸く芸術の都で、高級社交界の貴婦人たちを狂乱させる衣服があった。
着物の合わせの美を盗み取った最新モード
「カシュクール・ドレス」
この空前の着物ブームをたった一人の肉体で巻き起こしたのは、アメリカでの飢餓地獄から奇跡のスカウトを受け、フランスへ渡った元・日本一の誉れ高き居留地芸者、川上貞奴であった。
西洋の巨匠ロダンや若きピカソが「東洋の神秘」と勝手に勘違いしてひれ伏す舞台の裏側。
フランス演劇界の絶対女王であり、のちに国葬されることになるサラ・ベルナールが、激しい嫉妬を胸に変装して客席に潜んでいた。
公式通訳の磯野秋雄が「文字の契約書」に目を凝らし、座長の川上音二郎が理想を語る横で、アルファベットすら書けない貞奴の目は冷め切っていた。
彼女の武器は、かつて横浜の『長い浜』で耳から毟り取った生のフランス語の響きと、秘密のカタカナ手帳。
西洋の怪物たちが放つ傲慢な皮肉の裏にある「本音と焦り」を完璧にハッキング(解釈)し、世界の知性を手玉に取った、文字を持たぬ天才女優のプライドを描く知的大衆エンターテインメント。
第1話:パリへの招待状
明治三十三年、一九〇〇年。
世紀の変わり目を迎えたフランス・パリの街は、万国博覧会という名の巨大な文明の化け物に熱狂していた。
世界中から集まった最新の機械、極彩色の電灯、そしてあらゆる人種の欲がどろどろに渦巻く万博会場の喧騒の中、高級社交界の貴婦人たちの間で、ある「異様な衣服」が爆発的な大流行を見せ始めていた。
カシュクール・ドレス。
フランス語で「胸(心臓)を包み隠す」という意味を持つそのドレスは、従来のコルセットで締め上げる西洋の常識をあざ笑うかのように、しなやかなシルクの布が胸元を優雅に交差する、まさに日本の『着物』の合わせの美をそのまま盗み取った最新のモードであった。
そのカシュクール・ブームを、文字通りたった一人の肉体で巻き起こした女が、万博会場の一角にそびえる「ロイ・フラー館」の薄暗い舞台裏に立っていた 。
川上貞奴。
かつて新政府の総理大臣たちをも手玉に取った、元・日本一の誉れ高き居留地芸者である。
「――さあ、サダヤッコ! 最高の照明を用意したわ。あの高慢ちきなフランス演劇界の連中を、あんたのその身体でめちゃくちゃに叩き潰してやるのよ!」
舞台袖の闇から、ぎらぎらとした魔女のような目を光らせて声をかけたのは、近代ダンスの祖であり、万博に自らの劇場を持つアメリカの天才興行師、ロイ・フラーであった。
ほんの前年までの彼らは、地獄の底にいた。夫である座長・川上音二郎率いる一座は、最初からフランスを目指していたわけではない。アメリカ興行で詐欺に遭い、言葉も通じず、シアトルの街を無一文で餓死寸前で彷徨うほどの箱をなめていたのだ。
だが、命を繋ぐために泥臭く続けた演目『芸者と武士』の舞台――。前半は美しい芸者として優雅に舞い、後半は恋人を奪われた怒りで髪を振り乱して刀を抜き、男たちと大立回りを演じた挙句、畳の上でのたうち回って「悶絶死」する貞奴の凄絶な迫真の演技に、ロイ・フラーが脳髄を撃ち抜かれた。
フラーはその場で多額の金貨の袋を叩きつけ、彼らをこのパリの最高峰のステージへと直々に「招待」したのである。
「おい、音さん、秋雄。何をおろおろしてやがるんだい」
貞奴は、鏡の前で特注の最高級の着物の襟を正しながら、冷めた目で男たちを鏡越しに見据えた。
舞台の上では堂々たるサムライを演じる夫の音二郎は、フランスのプロモーターたちが提示してきた「文字の契約書」を前に、借金への恐怖からオロオロと震えている。一座の公式通訳である若き書生の磯野秋雄が、必死に英文の辞書をめくって「トランスレーター(直訳通訳)」の顔をしようとしているが、紙の上の文字に溺れる彼らには、廊下で行き交うフランスの役人たちが吐き捨てる生の「フランス語の音声(本音)」が全く聴き取れていない。
「秋雄、紙の上に並んだ綺麗な文字なんか信じちゃいけないよ。奴らが身内同士のフランス語で『どうせ言葉の分からぬ東洋の未開人だ、売上を不当に誤魔化してやろう』と密談しているのが、私のこの耳には全部お見通しさ」
「な……何を言うんだ、貞さん。君はフランスの横文字なんか一文字も書けないじゃないか」
「ふん。文字なんか書けなくたって、言葉ってのは耳から毟り取るもんだよ」
貞奴は懐から、カタカナと漢字でびっしりと埋め尽くされた秘密の手帳を取り出した。
彼女の教科書は、かつて『長い浜』のお座敷で、フランスの兵隊や貿易商どもが『シャッポ(帽子)』を飛ばして『パン』を貪り、身内同士で客の足元を見て囁き合っていた生の本音の響きだった。
『ヌ・パニケ・パ(心配するな) = 騙し倒して金を分捕るための合図』
「高田! 磯野! 大道具の準備はいいかい。次の『芸者と武士』、いつもより三倍激しく刀を振り回しな! 西洋の成金どもが『東洋の神秘の悲劇だ』と勝手に勘違いして涙を流している横で、彼らの知性と財布を完璧にハッキングしてやるんだよ!」
――だが、貞奴の目は、そのさらに遥か遠く、故郷である日本の東京をも見据えていた。
今頃、東京の帝国大学あたりで西洋の小難しい演劇(文字の学問)を必死に翻訳して真似ようとしているインテリ男どもは、芸者上がりの自分が西洋で喝采を浴びていると知れば、激しい嫉妬から「あんなものは本物の芸術ではない」と文芸誌で徹底的に黙殺しにかかるだろう [、]。お上の政府だって、公費で留学させた品行方正な良家のお嬢様(津田梅子や山川捨松)たちを近代化の象徴として教科書に載せたいがために、元芸者の自分のファクト(功績)をいつか歴史の年表から綺麗に消し去ろうとするに違いない。
(お上の作った綺麗な歴史の文字なんかに、私の命を値踏みされてたまるかい――)
ブー、と開演を告げる重々しい汽笛のような音が劇場に響き渡る。
最新のカラー照明が舞台を真っ赤に染め上げ、幕が上がると同時に、パリの大衆、そして客席に潜む若きピカソや巨匠ロダンから「サダヤッコー!」という地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
だが、その劇場の最前列の闇。
ベールを深く被り、身分を隠してお忍びで偵察に来ている一人の女の影があった 。フランス演劇界の絶対女王であり、のちに国葬されることになる『聖なるサラ』こと、サラ・ベルナールである。
サラは、自分の劇場の客をすべて奪い去り、パリの貴婦人たちの胸元を『カシュクール』という名の和の合わせに変えていくこの東洋の女を睨み据え、激しい焦りとプライドの炎を燃やしていた。
ステージの中央、貞奴の吸い込まれるような、深く美しい「黒(あるいは黒真珠のような)」瞳が、その客席の女王の影を冷徹に捉える。
そして、激しい剣劇の風に煽られて舞うのは、西洋の金髪どもが逆立ちしても真似できない、日本の夜の闇を溶かし込んだような「カラスの濡れ羽色」の艶やかに、結い上げられた黒髪であった。
その瞳と黒髪の奥で、貞奴は文字の文明に浮かれる西洋の怪物たちの足元を、冷徹に見透かしていた。
窓の外、一九〇〇年のパリの夜空には、西洋の古い権威と、お上の作った死んだ文字の文明をすべて飲み込もうとする巨大な『オリエンタルの雲』が、不穏に、そして美しく渦巻いていた。
二人の天才女優の、命がけ戦の火蓋が、今、切って落とされたのであった。
川上貞奴が日本の歴史に埋もれた3つの理由
明治政府にとって「隠したい存在(元・芸者)」だったから
明治政府は、西洋に対して「日本は洗練された近代国家である」とアピールしたかったのです。
そのため、津田梅子や山川捨松(津軽編で触れた令嬢)のような、「お上の公費で留学した、品行方正な良家のお嬢様」を近代日本の象徴(主役)として教科書に載せました。
ひるがえって貞奴は、いくら世界で大成功したとはいえ、「元・新橋の芸者」です。当時の男尊女卑とお上の冷徹な道徳観からすれば、「芸者上がりの女が、お上の許可も得ずに勝手に海外へ渡って大大ヒットした」という事実は、お上の作った「綺麗な近代化の年表」にとって都合が悪く、意図的に歴史の表舞台から消し去られてしまったのです。
当時の日本の知識人たちが「彼女の逆輸入の成功」を嫉妬し、黙殺したから
貞奴たちがパリで披露した『芸者と武士』は、西洋人が見たい「ハラキリ・ゲイシャ」の型を逆手にとった超スピード路線のエンタメ劇でした。
これに対し、東京の帝国大学(現・東大)などで西洋の「小難しい文学や演劇(文字の学問)」を必死に翻訳して真似ようとしていた日本のインテリ男どもは、「あんなものは本物の芸術ではない、未開の野蛮な見世物で西洋にウケただけだ」と激しく嫉妬し、彼女の功績を国内の文芸誌などで徹底的にこき下ろし、黙殺しました。
彼女自身が「文字(理論)を残さなかった」から
これも伊藤鶴吉と完全に一致するファクトです。彼女は「演劇とは何か」といった小難しい理論書や思想書を一切書きませんでした。彼女が遺したのは、ピカソの絵の具やロダンの粘土、そしてパリジャンたちの脳髄を震わせたという「その場をハッキングした肉体の記憶」だけでした。
本人が自叙伝や思想を文字として残さなかったため、本人の肉声が歴史の表面に文字として残らなかったのです。
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サダヤッコが、パリで着物ブームをおこした、それが、
「カシュクール・ドレス(Robe Cache-cœur)」――。
着物の「合わせ(胸元を包み込む形)」にインスピレーションを得て、当時のパリの高級モード界が狂ったように仕立て、現代のファッションにまで受け継がれている『着物ドレスブーム』のまさに本質(最高峰のファクト)です。
フランス語の cache-cœur(心臓・胸を隠す、包むという意味)という意味の言葉です。
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シカゴの残影と、パリの頂点
本作の背景にあるもう一つのファクトとして、1900年のパリ万博より遡ること7年。明治26年(1893年)に開催された『シカゴ万博』の存在を外すことはできません。
当時、新橋の芸者だった貞奴はまだ日本にいましたが、夫の川上音二郎は、私費を投じて単身アメリカへ渡り、シカゴ万博の会場に立っていました。
そこで音二郎が見たのは、西洋の圧倒的な巨大テクノロジーと、世界中から集まった本物のエンターテインメントの数々。そして、アメリカの興行界が仕掛ける凄まじい金と欲の熱気でした。
音二郎はシカゴの摩天楼を見上げながら、激しい敗北感と共に、心の中でこう誓ったはずです。
「お上の言う『文明開化』の真似事なんかじゃ、この西洋の怪物どもには一生追いつけねえ。だが、俺たちの剥き出しの肉体と、本物の日本の意地を持っていけば、いつかこの世界最高の万博のステージを、俺たちの力でひれ伏させてみせる」
シカゴ万博で世界の広さを肌で知った音二郎の「渇き」があったからこそ、彼はのちにすべてを投げ打って貞奴と共に海を渡り、地獄の困窮を耐え抜き、100%の史実として、1900年のパリ万博での「世界の頂点」へと辿り着くことができたのです。
シカゴでの敗北の残影が、パリでのレジオン・ドヌール勲章の輝きへと繋がる。
男と女の命がけの「リベンジ(復讐)」のドラマが、そこには確かに眠っていました。
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貞奴は夫、川上音二郎が明治44年(1911年)に早逝したあと、貞奴は舞台を引退。そこから彼女は悲しみに暮れる未亡人で終わるのではなく、日本初の水力発電を成し遂げた「電力王」福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)のビジネスパートナーとして、名古屋に「川上絹布株式会社」を設立します。
自ら最先端の電動織機を導入し、パリの貴婦人たちを黙らせたあの「カシュクール」の絹を、今度は自らの会社の手で世界中へ輸出し、国を富ませる本物の大実業家へと変貌を遂げるのです。




