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第8楽章 沈黙の十五分

生涯ただ一度、彼は深く理解された。ひとことの言葉も、ないままに。

 書物は、海を越えた。


 ロンドン、グレシャム学寮の幾何学教授ヘンリー・ブリッグスは、その薄い一冊を手にして、講義も食事も忘れた。彼は同僚に語ったという。「私はまだ、これほど私の心を動かし、驚かせた書物を見たことがない」。

 掛け算を足し算に変える――天文学者と航海士を、計算の終わりなき苦役から解き放つ――そんなことが、本当に可能なのか。可能だった。表はそこにあった。


 ブリッグスは、いてもたってもいられなかった。彼はロンドンを発ち、馬を駆り、幾日もかけて、はるばるスコットランドの北、エディンバラのメルキストン城を目指した。著者に、この目で会うために。


 城の一室に、二人は通された。


 扉が開く。ブリッグスは一歩入って、足を止めた。窓辺に、痩せた白髪の老人が立っていた。ネイピアも、客のほうへ向き直る。


 二人は、見つめ合った。


 そして――どちらも、口をきかなかった。


 炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。外で、風が鳴っている。ヘンリー・ブリッグスは帽子を手にしたまま、動けなかった。何か言おうとするたび、言葉が喉の奥でほどけてしまう。ジョン・ネイピアもまた、ただ客の顔を見ていた。

 この男は、はるばる海を越え、幾日も馬を駆って、ここまで来た。私の薄い一冊のために。私の、二十年のために。


 長い沈黙が、部屋に降りた。後の世に「十五分の沈黙」として語り継がれることになる、その時間である。

 二人は、ただ互いを見つめつづけた。一方は、生涯の二十年を、孤独な机の上で、誰にも理解されぬまま燃やしてきた老人。一方は、その孤独の果てに生まれたものの値打ちを、ただ一人、骨の髄まで分かった男。言葉にすれば、こぼれ落ちてしまう何かが、二人のあいだに、静かに満ちていく。


 やがて、ブリッグスが、ようやく口を開いた。声は、かすれていた。


「閣下。……私は、ただ、これを、お訊きしたかったのです。どうして、あなたに、見えたのですか。誰にも見えなかった、この道が」


 ネイピアは、ほんの少し、目もとをゆるめた。村人が魔術と呼んだもの。妻も子も、ついぞ聴くことのなかった、二つの数の列の歌。それを、この遠来の客は、聴くことができた。聴くどころか、同じ旋律を、自分も口ずさめる男だったのだ。

 生まれて初めて、ネイピアは、理解されるということの意味を知った。それは、長く暗い廊下の奥に、ようやく一条の光が差し込むようなことだった。


 堰を切ったように、二人は語りはじめた。ブリッグスは一つの提案をした。対数の基準を、十に揃えてはどうか。人は十本の指で数える。十を底とすれば、桁の扱いがいっそう易しくなり、航海士も商人も、誰もが使えるようになる。ネイピアは深くうなずいた。我が生涯の仕事を、より多くの手に渡すために。二人は、世界に贈る道具を、さらに磨きあげる相談を交わした。

 それは後に「常用対数」と呼ばれるようになった。


 ネイピアは客に、もう一つの工夫も見せた。骨か象牙に数を刻んだ、何本かの細い棒。これを並べ替えるだけで、掛け算が機械のように行える――後に「ネイピアの骨」と呼ばれる計算具だ。

 彼はまた、数の整数と端数とを、小さな一つの点で区切る書き方を、熱心に勧めた。

 小数点である。それまで、端数の書きあらわし方は人によってまちまちで、決まった流儀がなかった。彼が広めたこの一粒の点のおかげで、大きな数も、ごく小さな数も、同じ一筋の物差しの上に、見通しよく並ぶようになった。

 ――いま、誰もが当たり前のように打つ「3.14」の、あの点。それが当たり前になるよりずっと前に、こうして根気よく広めた人がいたことを、知る者は、そう多くない。


 すべては、同じ一つの願いから出ていた。人の手から、計算の苦役を取り除くこと。人に、時を返すこと。


 ブリッグスは、翌年も、その翌年も、メルキストンを訪れた。二人の老人は、火のそばで、数の話をした。それは、ネイピアの生涯で、最も穏やかな冬だったろう。

続く

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