第7楽章 果てなき計算(下)
自分の子は救えなかった。けれど、まだ見ぬ親たちには、間に合うかもしれない。
歳月は、容赦なく過ぎていった。
一年が二年に、二年が五年に、五年が十年になった。
表は少しずつ厚みを増したが、終わりは、いっこうに見えてこない。橋の隙間は、埋めても埋めても、また新たな隙間を口を開けた。彼は、ほとんど一ずつしか違わぬ比を、何万回となく掛けつづけ、その一つひとつに目盛りを刻んだ。気が遠くなる、とは、こういうことだった。
幾度、すべてを焼き捨てようと思ったか知れない。
ある冬の夜、彼は積み上がった紙束を暖炉の前に運び、炎を見つめた。これを燃やせば、楽になる。誰も、私にこれを命じてはいない。報酬も、名誉も、待ってはいない。私は、来もしない未来のために、ただ自分の老いを、すり減らしているだけではないか――。
だが彼は、紙束を、燃やさなかった。膝の上にそれを抱えたまま、夜が明けるまで、座っていた。
その頃、彼は海の向こうへ、幾通もの手紙を書いた。大陸の名だたる数学者たちへ。自分の見つけた橋のこと、掛け算が足し算になる仕組みのことを、たどたどしいラテン語でしたためた。
誰か一人でも、この考えに応えてくれはしないか。だが、返ってくるのは、沈黙ばかりだった。海は広く、彼の言葉は、波の彼方へ消えていった。世界のどこかに、同じ歌を聴ける者がいるはずだ――そう信じることだけが、支えだった。彼はまだ、その一人が、いつの日か自分の戸を叩くことを、知らない。
ある日、城に、ひどく腰の曲がった老人が訪ねてきた。ヘンダソンだった。少年の日、厨房の隅で、一つの掛け算に蝋燭を一本燃やしていた、あの会計の老僕である。すっかり目を悪くし、もう数字は見えぬのです、と彼は笑った。
「坊ちゃま……いえ、殿さま。あの夜、足し算なら間違えぬのに、とおっしゃいましたな。私は、あのお言葉を、ずっと覚えておりました」
ジョンは、老人の節くれだった指を見た。生涯を、掛け算の苦役に費やした指だった。「ヘンダソン。私はいま、それを作っている。掛け算が、足し算で済む道具を。お前のような者が、もう、ひと晩を一本のろうそくで燃やさずに済むように」
老僕は、見えぬ目に、うっすらと涙をためた。「では、私の苦労も、無駄ではなかったのですなあ」――その冬、ヘンダソンは静かに世を去った。ジョンは、自分の表が間に合わなかった、もう一人の名を、胸に刻んだ。
そして、もっと間に合わなかった者がいた。
ヘレンの咳は、年とともに重くなっていた。父の机のそばで星の名を尋ね、数の歌をせがんだあの子は、もう、起き上がる力もなかった。ある春のこと、湾に、東方から帰った船が入ったという報せが、城に届いた。薬を積んでいるかもしれぬ、という噂だった。ジョンは馬を出させ、みずから港へ走った。
彼が、息を切らして戻ったとき。
ヘレンの枕もとでは、アグネスが、その手を握っていた。そして、いつかの夜とおなじように、娘の息を、数えていた。一つ……二つ……。父の足音に、アグネスは顔を上げた。けれど、何も言わなかった。言葉は、要らなかった。彼が港で握りしめてきた、ひと包みの乾いた薬草は、もう、間に合わなかった。
その夜、彼はふと、自分のしていることの皮肉に気づいて、ペンを置いた。私は、世界の終わりは一六八八年より後だと、自ら計算した。私はその年まで生きられぬ。この子は、見てのとおりだった。なのに私は、なぜ、この先の世のための道具を、作り続けているのか。
答えは、すぐに、静かに返ってきた。私の時も、子の時も、足りなかった。だが――私の数は、まだ見ぬ誰かの子の、その親の、時を増やすことができる。
それは、報酬のためではなかった。名誉のためでもなかった。それは召命だった。神に与えられた賜物を、地に埋めたまま死ぬことは、彼にはできなかった。救えなかった双子の、そしてヘレンの、あの小さな手が、彼を机に縛りつけていた。悲しみは、行き場を見つけた。そして奉仕に変わったのだ。
彼は、自分の架けた橋に、名を与えた。ギリシャの言葉で、ロゴス――比――と、アリトモス――数――をつなぎ、「比の数」、ロガリズム。対数。二つの世界の対応を測る数。彼は、静かな誇りとともに、その名を記した。
子を葬った夜から、さらに幾年。表は、ついに、完成した。涙は、もう、頁を濡らさなかった。彼はとうに、泣くことを、別の何かに変える術を、身につけていた。この表は、私の子は救えなかった。けれど――と、彼は思った――世界中の、まだ見ぬ親たちには、間に合うかもしれない。それを神の摂理と呼ぶなら、私は、その摂理の手の中の、一本のペンであろう。
一六一四年、『驚くべき対数法則の記述』が、世に出た。
彼が初めてこの机に向かってから、およそ二十年が経っていた。半生にひとしい歳月を、彼はこの一冊の表に注いだのだ
続く




