散文詩 103 「悪人正機」
日々、心に残ったことを文字にしてみた
「悪人正機」
「善人ですら極楽浄土へいくことができるのだから、ましてや悪人が極楽浄土へ行くのは当然のことである。しかし、世間の人は常にその反対のことを言う。悪人ですら極楽へ行けるのだから、ましてや善人が極楽へいくのは当然ではないかと」『歎異抄』
親鸞は善人ですら救われるのだから、悪人が救われて当然と言っている。
悪人正機説は誤解されやすい。
私はずっと間違った理解をしていた。
「善人ですら」というのは、善人は自力で物事が解決できると思い込み
他力の気持ちを持っていないものである、
そんな他力の心に欠けた「善人ですら」助けてくださいと言うのなら
阿弥陀様は助けて下さるということだ。
阿弥陀様は助けてくださいと言う人すべてを救ってくださる。
それは悪人だろうと善人だろうと関係がない。
日本では他力にあまり良いイメージはない。
他人任せにしないで、自分の力でやりなさいと小さい頃から教えられてきた。
それが世間一般の価値観である。
しかしここでいう他力の他とは、隣にいる人ではなく
もっともっと大きな眼に見えない力のようなものである。
神様、お釈迦様、阿弥陀様、イエス様、マリア様・・・
私の幼稚な表現力や宗教観では言葉にできない
大きな大きな尊い有難いものである。
物事は自分の意志で引き起こせると思っていたが、
親鸞は物事は起こすものではなく、起こるものなのだと言う。
他力とは無為自然になり起こるに任せること。
自然とはおのずと起こること。
阿弥陀様に身を任せて生きる「自力を捨てた生き方」。
決して、努力せずに他人に仕事をやらせて
自分はなにもしないということではない。
長く生きてくると本当に自分の力など取るに足らないちっぽけなものだと思う。
もちろん自分なりに頑張ってきたが、人生は大きな力で動かされている。
自分は何もしていない、何もできない、無力だと気付く。
来し方を振り返ると、必要な時に必要なことが起き、出会うべき人に出会い、
すべてが精密な計算の元に流れているように見える。
それは決して私の計算ではない。
他力で生きることの有難さを噛み締める。




