第4話 柏木海――哲学
幼い頃はただ面倒で兄弟なんて存在をロクに大事にしなかった。
好き勝手やって、人生一度きりなんて分かったような口を利いて、挙げ句の果てには家族さえ疎ましく思うようになっていた。
仲間と過ごす一分一秒が楽しくて、女との新しい出会いを求めては面倒になって切り捨てた。
しつこい女はウゼェだけ、干渉する親も面倒臭ぇ。
放っておけ、俺は俺の人生を楽しむ。
そんな気持ちで走り抜けた。それが俺の生き方だった。
いつしか親は諦めたし、重い女は寄ってこなくなった。
楽、楽、楽だ。
こんなもんじゃ物足りねぇ。
刺激的なことを求めては走り回り、快感に溺れて自由をさ迷う。
その裏で――取り返しの付かないことをしていただなんて誰が思う?
詩音は普通とは違う。
守ってやるべき存在だと口煩く母親に言われていた。
高校を卒業すれば、自ずと理解ができるようになった。
障害者、自閉症に知的障害。
意味を調べて絶句したのは卒業してから1年後。
それまで全く興味すら抱かなかったくせに、途端に詩音が不憫になった。
俺の中で庇護する対象として認められた詩音はそりゃあ可愛いもんだった。
高校を卒業して真面目に働き出して、目についたのは鈴子の暗い顔。
俯いてばかりの妹に、
ちょっとしたアドバイスでもしてやるかと呼び止めたその瞬間――
「近寄らないで……っ!」
悲鳴を上げるような金切り声で、鈴子は俺から走って逃げた。
衝撃を受けて思わず仰け反ったのは今もしっかり覚えている。
真っ青な顔をして逃げ出した鈴子を見て、俺はようやく気が付いた。
――話すのは、いつ振りだ?
鈴子と会話をした記憶はほとんど残っていなかった。
何かを言われたとしても、マトモに取り合わなかった記憶はある。
あの頃は俺の全盛期、兄弟や親の話なんて下らない物だとしか思っていなかった。
鈴子の反応は寝耳に水、全く意味が分からないもので、当時の俺には理解すらできないものだった。
気が付けば、鈴子は俺を避けていて。
思い返せば、いつも鈴子は俯いていた。
そんな鈴子と顔を合わせる度、苛立ちは増して行くばかりで。
一体俺が何をした?
そんな気持ちを抱きながら、鈴子を掴まえたある日のこと。
「何で避けんだよ」
「……自分の胸に聞いてみたら?」
「……あ?」
「思い当たらないなら真性の馬鹿だってことなんじゃない」
「お、前……!」
「また殴るの?苛々したらすぐ手が出るよね。いつだってそう、人に当たって自分はすっきりした顔して」
冷めた瞳に心臓が掴まれたような気になった。
鈴子はこんな顔だったか?
鈴子はこんな態度だったか?
思い出せる程に記憶がない。
興味を持たなかったという痛いくらいに切ない事実だった。
ある程度金が貯まったら、俺は家から出ることに決めた。
鈴子が原因とは言えなくても、鈴子の態度が気に触ることは一因だった。
時には海外、それも見知らぬ土地で一人で過ごしたこともある。
地方で親切な人に世話になったり、短期のアルバイトでリゾート地に行ったこともあった。
家族のことなんかすっかり忘れ、楽しんでいた俺に北海道で出会った男は言った。
『血の繋がりは一生消えないもんだ』
確かにそうだ。――ああ、そうだった。
この言葉を聞いてから、漠然と俺は思い出した。
鈴子が生まれ、初めてその手に触れたとき、妹を守ってやるんだと幼いながらに意気込んだことがあった。
いつしかそんな気持ちも消えて、鈴子を守るどころか自分のことばかり考えるようになった。
何が、一度きりの人生だ。
何が俺の生きたいように生きるだ。
鈴子も、詩音も。
譲だって両親だって、たった一度きりの人生を生きてる。
俺だけが我慢をしなかった。
それどころか、俺の人生を周りに押し付けるように生きてきた。
柏木海はこう生きる。
だから邪魔をするな、だから黙って言うことを聞け。
――いじめに、あってる。
ぼそりと呟いた言葉が、悲しそうに呟いた言葉が。
鈴子の泣き出しそうな顔が、
脳裏に浮かんで染み付いた。
助けてやろうともしなかった。
振り返ってみれば酷い兄貴だ。
嫌われるのも当然だった。
仲直りがしたい。
今更でも、嫌われていても。
鈴子ともう一度、話がしたい。
情けない兄貴だと思うだろ。視界にも入れたくねぇんだろ。
それでも俺は――。
気付いた時にはもう手遅れだった。
深く抉るようにして出来上がった溝は、
一生埋まることはない。




