第16話 羽柴充――Anxiety
よく見るんだ。
あの時の夢を、リンが俺を直視して真っすぐに言葉をぶつけたあの時の夢を。
笑顔で俺と直美――女を送り出して、リンが何も言わなかったあの日――まるで黒色に塗り潰されたみたいに俺は直美を強く抱いた。
柔らかくしっとりとしていて洗練された直美の身体は、渇いた俺に水をくれて表面だけを潤した。
「ねぇ、充。あの子は新しい子なの?」
直美の新しい子、というのは俺がそういう関係を持っている中での新しい子という意味だろう。
「私と、どっちが良いのか教えて」
肩に頬を寄せて甘えてくる直美は年上らしからぬ幼い声で、自分とリンを比べようとした。
……うん、分かってるよ。
言うべき言葉は決まっている。
今日は直美を選んだんだから、直美しか見えな――
「そんなの、直美が一番に決まって……」
「羽柴が誰かに手を下したら、あんたどうする?」
「――どうもしません」
凛々しく咲く花が脳裏をちらつく。
真っ黒な瞳は躊躇わず、寸分もぶれずに俺のことを肯定した。
そういう、子じゃないんだ。
俺なんかが好きに振り回して良い女なんかじゃない。
あれは、扱いが難しくて――とても気高い女だから。
「そういう子じゃないから、比べようがないかも」
「……充?」
直美の怪訝な双眸を避けてウェーブの掛かった髪を撫でる。
直美はそろそろ仕事の時間で、先にホテルを出るだろう。
それでなくとも抱いた後は一人になりたくなるんだから、俺を割と知っている直美は素直にホテルを後にするはずだ。
「――疲れちゃった。最近は遊んでばっかだからさぁ」
「……そう、なの」
滑らかな素肌に触れると自然と頭からリンは消えた。
軽薄で最低で、それでも俺は有り余る程に秘めている愛情を誰かに注ぐことしかできない。
受け取れよ、解消しろよ。
罪という名のどす黒い愛情を俺はまた押し付けた。
それだけで終わっていたら、恐らく俺はいつもみたいに羽柴充で居られたのだろう。
柄にもなく、馬鹿みたいに走った。
濡れた髪も湿った身体も気にする余裕がないくらい、頭は驚愕でいっぱいになって感情のまま駆け出して。
バイト終わりの少し疲れた顔。
恐る恐る見上げる瞳。
けれど決して揺るがない、確かな意志が窺える。
「与えたいなら、私にちょうだい」
鈴の音が聞こえた気がした。
リィン、と鳴る高い音。
「みーくんの持て余してる愛情は、私が全部貰ってあげる」
嘘偽りのない言葉がどうしようもなく頼もしい。
誰かに赦して欲しかった。
誰かにそう言って欲しかった。
けれど、誰も言わないから。俺の全てを負うことは誰一人としてしなかったから。
期待してはいなかった。
それでも彼女は――リンは、俺を受け止めると視線で訴えた。
抱き締めて、閉じ込めて、俺は心底安堵して。
リンは俺に勿体ない。
それは言われなくても分かっている。
でも――一体誰が、こんなイイ女を簡単に手放せる?
「私が、許してあげる。みーくんが私に良い子にならなくていいって思わせてくれたように、私もみーくんを許してあげる」
ねぇ、りんちゃん。
あの時の言葉はきっと一生忘れられない。
逞しくて凛々しいきみが、俺に放った赦しの台詞。守ってくれたのはリンだから、俺もリンを守りたい――
「……ん」
幸せな夢だ。
何度見ても幸せだ。
リンに気付かれないように、気を付けながらベッドを抜ける。
クローゼットから着替えを出してシャワーを浴びるために部屋を出た。
今日、あの夢を見たことは何かを意味しているのだろうか。漠然とそう思うと、またしても胸にもやが溜まる。
りんちゃん、リン、鈴子。
リン――俺を、助けて。
流れっぱなしのシャワーの下で、唇を噛むと端が切れた。小さく縮こまった俺は、どう見ても情けなくて。
大きくもない。されど、小さくもない音がした直後――ドシンッ、と身体に重みが掛かる。
踞った俺の背中に、いや、俺の身体に腕を回して思い切り抱き締める相手。
「リン。濡れる、から」
「……泣いてると思ったの」
「泣いてねぇよ、それより離れ――」
「泣いてよ」
まるで、それは懇願で。
リンの掠れた小さな願いが俺の鼓膜を震わせる。
「みーくん」
「ん……」
「行き場のない感情はどこにやったら良いんだろうって、私ずっと思ってた」
「……リン?」
「思い出したの。最近のみーくんを見てて私、思い出したから」
流れっぱなしのシャワーの音より響くリンの涼しげな声。
それは心地好くて、溶けてしまいたくなる程に耳触りが良い。
「行き場のない感情も抑えられない衝動も全部私が貰ってあげる。みーくんはそうしてくれたでしょう?」
「……何で」
「うん?」
「何でいつも、リンは……」
――ああ、駄目だ。
「泣いて良いよ。見てないから」
いつもリンが気付いた。
いつもリンの前で泣く。
いつもリンは頼もしい。
いつもリンと、踏み出した。
嗚咽が激しくなるにつれて、リンは抱き締める力を強めた。
おれは、なんで、変われねぇの。
リンの前で、泣いてばっかで。
「変わろうと、してくれてる。みーくんは私のために……変わろうとしてくれてる。だから、それを支えたい」
いやになる。
敵わなくて、寛大で、俺を一番に考えるリンはどこまでも逞しくて、弱い自分がいやになる。
夢を見たのは求めたからだ。
リンに背中を押して欲しいと――いや、本当は守って欲しかったんだと、それを求めたからだと思う。
その証拠に、俺は泣いて、こんなにも幸せになれて。
1時間が過ぎてしまっても、リンの服が全て濡れてしまっても、リンは一度も離れずに俺が泣き止むまで傍にいた。




