第15話 羽柴充――Horrible
「――ただいま」
閉店してからすぐ、店を出る時、マンションのエントランスに着く少し前。
連絡は三回入れた。
その度にリンは、仕方がなさそうに苦笑を漏らして通話を切る。
何度連絡を入れても、これから起こるであろう嵐に憂鬱な気分が拭えない。
俺のせいではないのに、久住の間違いなのに、きっとリンが怒る先は俺になるんだろうと思う。
それだけ俺に心を許していると考えたら嬉しいが、もし泣かれてしまったら心はひどく痛みそうで。
「おかえり。ごめん、玄関で待ってようと思ったんだけど洗濯物畳んでて……」
帰宅して靴を脱いでいると、リンが早足に駆けてくる。
ぱたぱたと足音を鳴らして迎えてくれたリンはエプロンをつけていて、不覚にも泣きそうになった。
「ううん。ありがと」
「みーくん?」
抱き締めて腕の中に閉じ込めたリンは小さくて、どうしようもなく不安が募る。
傷付くだろうか。
怒るだろうか。
嫉妬してくれるだろうか。
様々な感情が入り混じる。
「なんかあった?」
恐る恐る問い掛けたリンはいまだに『聞く』ことに慣れていない。
今までのリンなら、間違いなく無言で抱き締め返すだけだった。
変わろうとしてくれている。その姿勢は誰にも見せたくないくらいに美しい。
「りんちゃん。ごはん、なに?」
「ビーフシチュー。じゃがいも沢山」
「人参は?」
「入れました。ちゃんと食べて下さい」
「えー……」
「えーじゃない。みーくん年中野菜不足でしょ。人よりいっぱい野菜食べなきゃ」
「野菜よりもりんちゃんが食べ」
「はいはい」
手を引いて歩いてくれる、きみの凛とした後ろ姿。
か弱いきみが前を歩いて、俺に道を教えてくれる。
「りんちゃん」
「なに?」
「……あのね」
「うん」
――今でも無理を、させてるのに。
「肉多めにして」
言える訳がない。
リンの抜けた穴を埋めるために女の従業員が入った、なんて。
俺のために、俺のせいで。
リンは出勤日数を減らした。
それなのに、その時間――リンがいないその間、俺は別の女と一緒に仕事をしているだなんて。
信じることは難しい。
只でさえリンの前で他の女と消えたことがあるのに、リンを利用して女と手を切った過去があるのに、これ以上リンに何を我慢させる?
あの時のリンの強張った顔を、固まった身体を、俺は鮮明に覚えている。
ほんの一瞬――例え少しの時間でも、俺は腕に抱く女を愛して自分が赦された気になっていた。
あの夜の言葉と、リンの表情が鮮明に蘇る。
「――いつも、本気で言ってる」
「え?」
「相手した女をその時は本気で愛してる。リンのことだって頭から抜けてんだよ」
驚きでもなく、悲しみでもなく、リンはただ無表情に固まって俺をじっと見つめた。
責めもしない。言葉も発しない。
その場で硬直したリンはそっと目を閉じて眠りに入った。
「……言える訳、ねぇだろ」
呟いた言葉は風になって消えた。
リンには決して届かない小さな声。
負担を掛けたくないと思えば思うほどに雁字搦めになって行く。
もう傷付けたくはなかった。
懸念ですら抱かせたくない。
リン以外に興味はなくて、リン以外を抱きたいとは思えない。
それでも、それを信じて貰うのはリンに負担でしかない。
もしも逆の立場になったら俺は迷わずその相手に怒りを燃やす。
リンを信じてないからじゃない。
リンを独占したいから。
誰にも触れさせたくない、誰にもリンを見せたくない。
そう思うから嫉妬する。
それはリンを信じていない訳じゃなくて、ただの醜い嫉妬の様だ。
問題があるのは俺。
リンには何一つ問題はない。俺には勿体ないくらいの――本当にイイ女だと思う。
リンが次に出勤するのは、今日を除いて4日後だ。
それまでに何か――してくれたら。
佐伯が何か問題を起こせば、久住も考え直すだろう。それなら、俺が何かしたということにもならない。
卑怯で良い。汚くて良い。
リンが悲しまなくて済むなら、俺は何だってする。
「美味しいね。りんちゃん」
「……サラダよりビーフシチューの感想が欲しいかなー」
「んー、美味しいよ?じゃがいもがなんか固いけど」
「やっぱり?私もそう思った……入れるタイミング完全に間違った」
「もっと煮込んだら分かんなくなるよ」
「うん」
固いじゃがいもを一生懸命噛む姿は可愛くて。
洋食より和食が得意、たまに小さなミスをしてはひどく落ち込む俺のリン。
小さな嵐も大きな嵐も俺が防いであげるから、何も心配しなくて良い。
「りんちゃん。今日、一緒に風呂入ろ」
「嫌」
「……」
「イ、ヤ」
「なんで」
「今日は一人で入ってゆっくりしたい」
「二人でゆっくりしたらイイじゃん」
「……ゆっくりできないからやだ」
「えー、もしかして何か期待して……」
「してない!何でもない!とにかく嫌」
「はーい」
――胸の内にある不快感は、どうやって消せば良いんだろう。
リンに触れている間だけしか消えてくれない、この不快感は。




