第13話 羽柴充――春の嵐
――春の嵐。
春先に起こる暴風雨のことを春の嵐と呼ぶ。久住が言うにはヘルマンヘッセの小説のタイトルでもあるらしい。
でも、だからそれが何だって話だ。
ヘルマンヘッセの作品を読んだことのない俺にとって『春の嵐』は単なる暴風雨。
春はのんびりできる季節だろ?
あったかくて眠たくて、リンに怒られながら眠気を誤魔化して仕事して。
急に肌寒くもなるから、そういうシチュエーションを思いっきり利用する季節。
そのはずだろ?
突き詰めて言えば、全てのことの発端は久住の馬鹿が放った『鈴子に無茶をさせるな』という一言だった。
リンのことは俺が一番良く知ってる。
知らないことの方が少ない。
それなのに、知ったような口振りで久住は俺に意見した。
「なぁに?なんか文句でもあんの?」
そう返した俺に、久住は深い溜息を吐き出す。次いで、リンは心配そうに俺へとゆっくり視線を向けた。
分かってる。別に、久住をどうこうしようなんて考えてない。――考えて、ない。
安心させようと微笑んだはずなのに、その表情は妙にぎこちなくなってしまって、それを見ていた久住は更に深く溜息を吐き出した。
最近の俺は、少し可笑しい。
バランスが上手く取れていない。
久住もリンもそれに気がついていて、俺自身もそれに気が付いている。
幼稚な、とても馬鹿馬鹿しい理由で、俺は少しだけ躓いた。
『思い通りにいかない』ことに腹を立て、『好きなようにやれない』ことに苛立って、まるで子供みたいに、苛々を解消できずにいる。
当たり前のことができない。
手を出すな、過剰に反応するな。
自分に言い聞かせているつもりで、全然言い聞かせられていない。
リンを見つめる無遠慮な視線、リンに語りかける煩わしい口、リンに触れる汚い手。
全てを壊してやりたくて、全てを消し去ってしまいたくて仕方がないのに、リンはそれを嫌がった。
「大人になれ」
そう久住が俺に注意をするその口でさえも壊してしまいたくて仕方ない。
暴力じゃ何も解決しない。けれど、それじゃストレスの捌け口がない。
リンのために、自分のために、してきた我慢が限界だった。
リンも久住もそれに気がついていて、リンはいつも以上に俺を受け止めようとした。
泣きながらでも大丈夫だと笑って抱き締めてくれるリンに、俺は要求し続けた。
それでも、リンがそれを受け止められない程辛く感じているなら俺はそれに気が付ける。――と、思っていたはずなのに。
「みーくん」
「……ん?」
「――羽柴、新しいバイトを入れる。鈴子の出勤は減らす」
「……久住ィ。今さぁ、りんちゃんが喋ってるよねぇ?――何で邪魔すんの?」
「鈴子を少し休ませてやれ。新しいバイトは今週から募集する」
「聞けよ」
「自分でも気が付いてるだろう。余裕が無さそうに見えるが」
リンと久住が話し合って、そういう結果になったのは分かる。
俺を休ませると言ったら俺は頑なに納得しないだろう。そこまで理解していて、リンを休ませることにした。
俺のせいで、俺のために。
「リン」
伝えたいことは山ほどあるのに言葉が上手く出てこない。
情けなくリンを見つめると、リンはうっすら微笑んだ。
「これでやっとお帰りって言える。一緒に働いてるとあんまり言えないから」
そうじゃねぇだろ。
本当は働きたくて、人に頼りきりになるのが怖くて、だから俺と変わらないくらいの日数で出勤してんだろ。
――本当は嫌なくせに。
「ちょっと出てくる。すぐ戻る」
「ああ」
何で上手くいかないんだろうな。
簡単なはずなのに、当たり前のことなのに、今まで好き放題やってきたせいで思い通りに行かないとすぐに頭に血が上る。
店を後にして近くの自動販売機まで頭を冷やすつもりで歩いた。
買った飲み物はアイスティーで、渡す相手がいないのに――くせになってしまっていることに、乾いた笑いが出そうになる。
ばぁーか。リンに期待すんな。
こんな時までリンに負担をかけんな。
胸の内に溜まった不快感の塊が、どうしようもなく痛かった。
叩いても、殴っても、無くならないその塊がもどかしくて吐きそうになる。
「クソが……ッ」
いっそ、全て滅茶苦茶にしてしまって。
リンを連れてどこかへ行って二人だけで生きて――死ぬまで俺とリンだけで、居られたら。
隔離したって閉じ込めたって、リンは幸せにはならなくて、苦しめるだけだと分かっているのに歯痒くて堪らない。
「――みーくん」
なぁ、イイ女だろ?
いつも見付けてくれるんだ。
俺が駄目になりそうで、俺が泣き叫びそうになったとき。
リンだけが物怖じしないで、迷わず俺を抱き締めてくれる。
「何でそんな怖い顔するかなぁ」
「……してた?」
「うん。龍が不機嫌になった時よりもずっと怖い顔してた」
「そっか」
このまま抱き上げて二人だけで生きようって言ったら。
――リンは着いてきて、くれる?
「みーくんが帰って来るのを待つ間、私は凄い楽しいんだろうなぁ」
「なんで?」
「え、分からないの?」
きょとん、と目を丸くしながらリンは俺を見上げる。外灯に照らされた瞳がきらりと小さく光を放った。
「じゃあ、逆に考えてよ。家に帰るまでの間、みーくんは楽しみじゃな」
「楽しみ」
「……早いね。うん、えっと、だからそういうこと」
考えなくても分かる。
リンが家で俺の帰りを待ってるなら、走ってでも早く帰りたい。一秒でも早く帰ってリンに『ただいま』と告げたい。
「りんちゃん、待っててくれんの?」
「うん。ご飯作って待ってるよ」
「玄関で?しかもエプロンで?」
「……そういう可能性も、まぁ、なきにしもあらず、かな」
引き攣った笑みを浮かべて、それでもないとは言わないリンにどうしようもなく嬉しくなる。
リンが俺の無茶に一生懸命応えようとするだけで、こんなにも俺は嬉しいのに――俺はリンを困らせることばかりで。
「……分かった」
「うん」
久住に従うのは癪で無性に腹が立つけれどリンのために、自分のために、少しは受け入れることを考えよう。
――なんて。
新しく入るアルバイトが女だと知っていたら、俺は絶対に頷かなかった。
言い訳にしかならないが、女だと聞いていたなら久住をぶん殴ってでも反対したと言わせて欲しい。
「――おい、久住。リンには」
「……言っていない」
春の嵐。
歓迎していない嵐が、唐突にやって来た。




