第10話 羽柴充――出会う前④/その後
「バイバイ」
無邪気を装ってそう言い残し、部屋のドアを開け放つ。
ホテルの経営に絡んでいたのか、鍵は掛からない仕様らしい。
廊下を歩きながらシャツを着て、ナイフを刺した右手を握る。
無理矢理に肉を突き刺した感触は、中々忘れられそうにない。
「――ああ、うぜぇな」
誰が、とは思わなかった。何もかもがうざったい。
けれどひとまず片が付いた。煩わしい龍も酒田も、これで口を閉ざすだろう。
入れ違いで入って来た数人の男は奴等の関係者と思わしき出で立ちで、俺に目もくれず中に走って入って行った。
風に靡く前髪を、くしゃりと掻き上げ溜め息を吐く。
――生きてんのか。
濁った瞳は視界を汚して、見るものがどす黒くなっていた。
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二度目の再会は、ふらりと立ち寄ったファーストフード店だった。
頬を染めて近付いてきた千歳はアドレスの交換を申し出る。
「この間は起きたら居なかったから……」
久住の店に置き去りにしたことを持ち出して千歳は唇を尖らせた。
「急に知り合いから呼ばれたからさぁ」
適当な嘘を吐いて、トレイをテーブルの上に置く。
こんな事なら外で食うんだったと辟易としながら、まるで夢物語を見る千歳の話に付き合った。
「貴美子がね、充くんと、その……」
もじもじと言い淀む仕草は、いかにも愛らしい少女で龍の好きそうなタイプだと思ったのも束の間、妹限定のタイプだったと思い直す。
「……シたって、言うの」
恥ずかしそうな顔をして俯き、千歳は上目使いに見上げた。
「貴美子ってだぁれ?」
そういや名前も聞いてねぇ。
予想はついたものの、千歳はその返答だけで満足したらしかった。
「……羽柴くん」
「んー?」
「いま、彼女とかいる?」
「居なぁい。まぁ、誰かと付き合ってみるのもイイかもねぇ」
「あの、ね、わたし、」
眼鏡の向こうで目を伏せて、千歳はおずおずと話を切り出す。
「羽柴くんは、ほんとは良い人じゃないかなって思ってる」
「どういう意味ー?」
「わたし、噂に惑わされたりしないよ!だって、その、酔わせて何かするとかもなかったし……」
お前とヤってねぇだけだろ。冷めた目で見る俺に千歳は全く気が付かない。
「だから、良い人だなって」
「……そーなんだ」
「うん!」
この女の思考回路が可笑しいと思うのは、俺の方が可笑しいからか。
今一掴めない不可思議な女に、一ヶ月も付きまとわれることになるとは――思ってもみなかった。
それよりも、一ヶ月後。
千歳を捨てようとしていた1週間の間に、まさか忘れられない女ができるなどとはこの時全く予想だにしていなかった。
「結局さ、何だかんだ当たり散らしながらもみーくんって、タキとか龍とか酒田さんとか槙原さんが好きだったってことだよね」
「お、りんごよく分かってんな!」
鈴子の瞳が怪しく光る。
「サイテー。酒田さんが一番悲惨」
「うわーりんちゃんに褒められたー」
「いやいや褒めてないし」
誰が始めたのか、終業後に語られた過去の話に鈴子はジト目を向けて来る。
その目に囚われるようになってから、1年が過ぎていた。
「みんなが心配したから一人で何とかしたんでしょ」
当時を振り返ってみても、それは肯定できそうにない。
「次の日になって酒田が話聞いて来た時はマジでビビったぜ!みっつん探してた奴等が急に大人しくなっちまって」
「あれは確か、まだ未成年だから下手に手出しできないってことじゃなかったか?」
久住が横から口を挟む。
組との繋がりが一時期あった久住は、奴等が手出ししなかった理由を知っていたらしい。
「え、じゃあ今は?」
鈴子の顔色がさぁっと変わる。
安心させようと腕を伸ばして、背後から抱き締めた。
もぞりと動いた鈴子を無視し、腹部に腕を回して捕まえる。
温もりが伝わる小さな背中を抱き締めて、前屈みになり鈴子の肩に顎を乗せた。
「だいじょーぶ。精算済み」
鈴子を手に入れてから、周囲の恨みは潰して来た。
打てる手は全て打ち、大地にも協力を要請して。弱味だとは思っていない。
守れないのは男が不甲斐ないからだ。
「……暑苦しい。しかも見てる、酒田さんとか酒田さんとか酒田さんが見てる」
「見んな酒田」
「いやぁ、そんな羽柴さんを目に納めておきたくて」
にやにやと笑う酒田へ、鈴子のアイスティーが入ったグラスを投げ付ける。
反射的に避けたグラスをぱしりと受け止めたのは龍で、その表情は相変わらず冷めていた。
「あっぶな……みーくん危ない」
「りんちゃんに当たんないよーにちゃんと考えてるってばぁ」
「そういう問題?」
「そういうモンダイ」
呆れて溜め息を吐く鈴子がそれでも大人しく腕に納まったままで、じわりと滲む幸福感。
手に入れたことよりも、自分に馴染んだことの方が妙に気分を浮上させる。
「何か前のままのみーくんに会ってたら、私ポイ捨てされそうだよね」
「それはナイ」
「出た即答」
グラスに新しいアイスティーを注いで、酒田が鈴子の前に置いた。
「羽柴さんが『彼女』にしたのって鈴子さんが初めてなんですよ」
余計なことばかりを口にする酒田に、タキは首を縦に振る。
「みっつんが連れてきた『本物』なだけあるぜ。捨て身だしな!」
「まだそれを言うか……」
「捨て身だから付き合えたんだろう。羽柴も最初は扱いにくかっただろうしな」
滝川兄弟の言葉に苦笑いをして、鈴子は首を捻り俺を見上げた。
「ねぇ、みーくん」
「なぁに?」
「出逢う前に死んで無くて良かったと思うんだけど、これってどうなの」
「んー……アリ!」
「ナシだってば。どんな危険な彼氏」
「えー。もう危険じゃないしぃ」
小さな頭も小さな身体も、全てが愛しくて堪らない。
触れたら少しだけ身動ぎして、咎めるような一瞬戸惑いを浮かばせる。
それでも止めずに放置する冷たさと、赤く色付いた耳が愛おしい。
だからつい、噛みたくなるのは
「わー!また噛まれたっ!耳!ちょ、耳だってそれ!」
仕方がないことだろう。




