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午後の早い時間、まだみんながランチから戻ってこない頃に、私は小宮山さんのおばあさんと男の子を応接室にお通しした。そして、さあこれから最後の報告をしましょうという間際になって、予期せぬ人が現れた。吉田金型製作所の吉田社長が、突然やって来たのだ。
吉田さんは私たち三人がいる応接室に、ずかずかと乗り込んで来てこういった。
「なんてことしてくれるんだ、あんたたちは!」
突然の怒声に、男の子はびくっとして身をすくめている。
「なんですか、いきなり」
「あんたこの間、うちが訴えなければそっちも訴えないっていっただろう」
吉田さんの一件は、この前きっちりと話が付いたはずだ。吉田さんも訴状を撤回したし、クライアントも訴えたりしていない。
「ええ、その通りに処理しましたが」
「訴えの方はな、確かに訴えられることはなかったよ。でもそのあとだ。金型の製造コストを三十パーセント下げろっていってきたんだぞ。三十パーセントだぞ、三十パーセント。出来なきゃ取引打ち切りだって脅された!」
吉田さんの身体は怒りでわなないている。
「初めからそのつもりだったんじゃないのか。うちに訴えを取り下げさせておいて、取引打ち切るつもりだったんだろう。三十パーセントなんて、出来るわけないじゃないか。社員を食わせていかなきゃならないからあんな道理外れなことを飲んだのに、その仕打ちがこれか!」
「落ち着いてください」
私が担当するのは訴訟を取り下げるかどうかという部分までであって、そのあとコストや取引を云々というのはまったくもってあずかり知らないところだ。
「落ち着けるか!」
吉田さんは私とおばあさんの間の机を思い切り蹴った。茶碗とコップが中身をまき散らして転がった。
早めに事務所に戻って来ていた他のスタッフが、騒ぎを聞きつけて応接室に入って来る。しかしみんな私より若く、こういう場面でどう対処していいかわからない。
「こうなったらもう一回訴えてやる」
「そんなことしたってだめです」
私も立ち上がって、吉田さんを真正面から見据えた。
「いいですか、前回吉田さんが訴状を取り下げることが出来たのはなぜだかわかります?それはうちのクライアントがまだ応訴していなかったからです。今度吉田さんが訴えたら、クライアントは即座に応訴しますよ。そうなったらクライアントが同意しなければ、吉田さんは取り下げ出来ません」
スタッフが、おずおずとおばあさんと男の子を部屋から連れて出て行った。
「今度は取り下げる気はない」
私も一歩も退かない。
「吉田さんが取り下げる気になってもクライアントは応じません。万が一、吉田さんが一審で勝ったとしても、クライアントは必ず上訴します。その裁判だけで年間数億円かかりますけどいいんですか」
コストダウンはどの業界でもあたりまえだ。そのために工夫したり技術開発したりして、ついて来られる企業が生き残って発展し、ついて来られない企業は消え去るのみ。それは生物の生存競争と変わらない、自然の摂理だ。自然淘汰なんだ。
「さらに先日も申し上げましたとおり、クライアントは吉田さんの会社を特許侵害で訴える用意があります。いまのところは二件のみですが、今後の推移次第ではその数が増えないとも限りません」
私だって吉田さんの会社に潰れて欲しいわけじゃないし、社員の皆さんが路頭に迷えばいいなんてこれっぽっちも思っていない。吉田さんに個人的な恨みなんてないのだ。
だけどうちのクライアントに牙をむき、その利益を阻害するというのであれば、私は容赦しない。それが私の仕事だ。
「侵害訴訟に無効審査請求、それをいくつも抱えてやっていけますか。もちろん吉田さんが訴え出た時点でクライアントとの契約は打ち切りになるでしょうから、吉田金型製作所の売り上げもいくらか減少すると思いますが」
その減少額は、実際にはいくらかなどという生やさしいものではない。モデルサイクルの短い携帯電話の金型は、金型製作工場にとっては主要な収入源であり、しかもうちのクライアントは業界きっての大手なのだ。
新しい携帯の金型製作依頼が来なくなれば、それだけで吉田さんの会社は窒息する。
「よくお考えになった方がいいですね」
三十パーセントだろうが四十パーセントだろうが、カットしてみせるしかないのだ。それがクライアントの要求であり、時代の要請なのだから。
吉田さんはもう一度机を蹴ると、ドアを叩きつけるように閉めて出て行った。
なんで私がこんなことをしなくちゃならないんだ。こんなの私の仕事じゃないじゃないか。
仕事の契約内容そのものについてはクライアントと直接やり合ってくれ。その結果として吉田さんの会社が潰れようが、社員が仕事を失おうが、それは勝手だ。
私は、「ふんっ」と鼻を鳴らして、勢いよくソファに腰を下ろした。しばらく落ち着かないと、小宮山さんとまともに話が出来そうにない。
外ではまだ、吉田さんが当たり散らしている物音が聞こえている。
そこへ、そっとドアが開いて、あの小さな男の子が入って来た。確か、慶ちゃんっていったっけ。
「あのおじちゃんは、どうして泣いてたの?」
吉田さんは泣いてなんかいないわよ。怒り心頭に発して、わめき散らしていたんじゃない。知ってた?心頭に達するじゃなくて、心頭に発するっていうのよ。あなたも大人になったらちゃんとした日本語が使えるように覚えておきなさい。ちゃんとした日本語が使えるってことは、それだけで競争相手に対して有利な立場に立てるのよ。人生なんて、いつだって競争なんだから。
「おじちゃんはね、お仕事がうまくいかなくて困っちゃったの。それを誰かに聞いてほしかったのよ」
その競争に負けるのは、自分がそう望んだからだ。人は自分がなりたいと思う自分になるのだと、このあいだ読んだ「自己啓発本」に書いてあった。それがどんな自分であれ、自分が望む自分になるのだと。競争に負ける人間は、自ら負ける道を選んだのだと。
慶ちゃんは、「ふうん」といって私の横に座ると、私の顔を覗き込んだ。こんな小さな子の体重でも、ソファはぐっと沈み、私の身体は少しだけ彼の方に傾いた。
「お姉ちゃんは、どうして泣いてるの?」
なにをいってるのよ、この子は。
吉田さんとのやりとりで多少興奮してはいるけど、私は泣いてなんかいないし、むしろクライアントを訴えるんだと息巻いている相手をやり込めて満足しているところだ。ましてや今回は上級職員もいない中、突然の訪問者をその場でねじ伏せたんだから、褒めてもらってもいい。私は私が望んだとおり、勝利への道を突き進む。
「どうして?」また、男の子はいった。
だから、なんなのよ。
顧問弁護士として、いいえ、それ以上のいい仕事をしたのよ!
私は!
たったいま!
あれでまだ吉田さんが訴えて来るなんてことは考えられない。仮に本当にコスト削減出来なくて仕事を失うことになっても、裁判費用まで抱え込むような愚を犯すはずはない。
私はこうやって自分の職務をまっとうし、クライアントの期待に応え、事務所に認められて、上級職員になって、ゆくゆくは独立して自分の事務所を構えるの。
そのために高校でも大学でもロースクールでもたくさん勉強したんだし、こうやってひとつひとつ仕事をこなしてきたんだし、いいたくもないことをいって、やりたくもないことをやって、会いたくもない人に会って、下げたくもない頭を下げて、楽しくもないのに笑って、飲みたくもないお酒を飲んで、おいしくもない食事をして、誰かの弱点を見つけ出して、ほじくり返して、痛めつけて、血を流させて、腸を引きずり出して、二度と立ち上がれなくなるまで叩き潰しているのよ!
私はこんなことをするために勉強してきたんでも、弁護士になったんでも、弁理士になったんでもない。もっと誰かの役に立つためだった。もっと誰かを笑顔にしたり誰かを幸せにしたり弱い人を助けてあげてへとへとになってもありがとうっていってもらってうれしい気持ちになってまたがんばろうって思ってその力で誰かを支えてあげるためだったのにごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
おばあさんを部屋に入れるのは、もう少しあとにしてください。




