押さえつけた記憶
僕は山道に浮かんでいた。
お馴染みのあの感じ、幽体離脱だ。
でもそれは本物ではない。
これは夢なのだとなぜかはっきり分かっていた。
あの沢へと続く道。
なぜここにいるのだろうと思っていると、子供が二人歩いてきた。
あっと思う。
一人は子供時代の僕だった。そしてもう一人は……。知らない女の子だった。
「雨が続いていたから、水かさが増えているだろうって」と僕が言っていた。「気を付けろって父ちゃんが言ってたよ」
「大丈夫よ、そんなの」と女の子が答えた。
やがて二人は、例の渓流に着いた。
村の子供達の遊びスポット。
「ほら」と少女が言った。「全然平気じゃない」
いつもの沢だった。
それから子供達は水着になると、川で遊び始めた。
僕は川上に注意を向けた。嫌な感じがする。
僕は上流に向けて飛んだ。
「これは……」
そこでは、流木が重なりあって水の流れをせき止めていた。その天然のダムに溢れんばかり水がたまっている。
水圧で、今にもその流木のダムは決壊しようとしていた。
まずいぞ。
一本の木がぎしっと折れたかと思うと、それは一気に崩壊した。
鉄砲水だ。
押さえつけられていた水の流れは、まるで意思を持った怪物みたいに子供たちに襲いかかった。
「逃げろ!」と僕は叫んだ。
それが聞こえたのかどうか分からないが、子供の僕が顔を上げ、押し寄せてくる水流に先に気が付いた。
「わぁ!」と叫んで河岸に走る。
間一髪のところで、上半身は水を逃れ岩にしがみつくことができた。
振り返ると、飲み込まれた少女の頭が見えた。
手を伸ばして届くような距離ではない。
水龍は、一瞬で少女を連れ去った。
浮かんでは消え、消えては浮かぶ少女の頭を見ながら、子供の僕は泣き叫んだ。
夢はそこで終った。
僕の胸も張り裂けそうだった。
そうだ。これだ、この記憶。
はっきりと思い出した。
どうしてこんなに衝撃的な事を忘れていたんだろう。いや、それがあまりに強烈な記憶だったからか。
だから封印した。自分を守るために。
ここが元凶だったのだ。
記憶は閉じ込めたけれど、思いまでは消せない。
何も出来なかった、助かられなかったという思いだけが残った。
それ以来、僕には何も出来ないというその思考だけが僕の人世を作ったのだ。
あの少女はどうなったのだろう?
僕は朝が来るなり、母親をつかまえた。
「この前の、僕が溺れかけたって話なんだけど」
朝食の支度をしていた母は、とうとつな質問に明らかに戸惑っていた。
「なんだい、急に」
「その時、一緒にいた女の子がいたでしょう」
「ええ」
「その子はどうなったの?」
「流木に引っ掛かったおかげで一命はとりとめたって話だったけど」
それを聞いて、僕はほっと安堵した。
よかった。
「その子はそれからどうなったか知らない?」
「さぁねぇ、その後引っ越してしまったのよ、その一家は。もう家も取り壊されているねぇ」
「そうか……」
「それがどうかしたの?」
なんでもない、と僕は言ったけれど、どうにも気になっていた。
まだ大切な何かを忘れているような……。
「名前!」と僕は言った。
「わ、何よ、大きな声出して」
「その子の名前分からない?」
とんでもない事を思い付いてしまった。全く根拠はない。そうなんだけど……。
「その子ってさ、"ユキ"って名前じゃなかった?」
「ええ?覚えてないわねぇ」
「なんとか思い出してよ」
「そんな事言われてもねぇ。……あ」
「なに」
「母さん、あんたが子供の頃にね。毎日育児日誌つけてたのよ。そこに書いてあるかもしれない。当時、毎日のように遊んでいたからね」
でかした、母よ!
「それ、今見てくれない?」
「ええー?」
母親は面倒くさそうに顔をしかめた。「ご飯の後でいいでしょ?」
「頼むよ、ご飯ならやっとくから」
僕のごり押しに、母親はしぶしぶと台所を離れ、しばらくしてから一冊の古ぼけたノートを手に戻ってきた。
No.3と書いてある。
「多分、この辺だと思うけど」
母親が椅子に座ってぱらぱらとページをめくっている間、僕の心臓は早鐘を打っていた。
ただの勘だ。
だけど、それがもし正しければ……。
「ああ、あったあった。書いてある。その子の名前ね……しおりちゃん」
冷静に考えてみれば、あの少女がユキのわけはなかった。
それなら僕の事を知っていたはずなのだから。
それを隠す必要はない。きゃー久しぶりー、で済む話だ。
しかし、どうしてもあの女の子の事が気になっていた。
しおりちゃん。
僕の人生の基板となっていた無力感を作り出したエピソードに同席していた少女。
会ってみたいと思った。
朝食後に庭の草むしりを手伝っていた折りに、何気なくちちおやに尋ねた。
「父さんは、僕と一緒に川で溺れた子の消息なんて知らないよね」
「しおりちゃんのことか」
「え……?」
鎌を動かず手が止まった。「どうして名前知ってるの?」
「忘れないさ」と父親が言った。「俺が病院に運んだ」
「父さんが?」
「ああ。救急車を待つより早かったからな」
父親は立ち上がると、ぐいっと腰を伸ばした。それから、胸ポケットからタバコを取り出して火を付けた。
「それだけじゃない。それからも何度も会っている。今も定期的に」
「そうだったんだ……」
最初から父親に名前を聞けばよかった。「で、元気にしてるの?しおりちゃんは」
父親はすぐには答えず、ぷかぷかとタバコをふかした。
「なぁ、ヤマト。これはほんとうはお前に言いたくなかったんだ」
「…………」
「しおりちゃんな、あれから目が覚めていないんだよ」
絶句した。
そんな……。
「ずっと……?」
「ヤマト、あの事故はお前のせいじゃない。だけど……お前はそうは思わないだろ?だから言わずにいたんだよ」
なんてことだ。
僕は彼女が眠っている間、事故の事を忘れて、のうのうと生きていたわけだ。
「どうして今は教えてくれたの?」
父親は首を捻った。
「なぜかな。今は言ってもいいような気がした」
「あの子の居場所、知ってるんだよね」
ああ、と父親は言った。「隣町の総合病院にいる」
僕は鎌を置いて立ち上がった。
「車貸してくれないか」




