帰郷
季節が巡り、また夏が来た。
僕が初めてユキに会ってから一年が過ぎていた。
どれだけ時間が経っても、僕は彼女がいない生活に馴染めなかったし、受け入れられなかった。
街行く女性にユキの姿をいつも探していたし、テレビに映る芸能人たちにも彼女の面影を見ていた。ああ、この目はユキに似ているなといった風に。
八月に入り、母親から電話があった。
「あんたいい加減、たまには家に帰った帰ってきなさいよ」と母親が言った。
いつも何かしら理由を付けて、実家にはほとんど帰っていなかった。
別に両親と不和があるわけではないのだが、なぜか否かに帰りたいとは思えなかったのだ。
それでも母親がしつこく言うので、コトワルノモ面倒になり、
「お盆休みに帰る」と僕は言った。
何年かぶりに地元に帰った。
駅からタクシーに乗る。
すっかり都心での生活に慣れていたので、そこは秘境の地みたいに見える。
うっとおしいくらい緑に溢れていて、道は細く、セミやら蛙やらがやかましく騒いでいる。
街の中心地から離れた山間の集落。そこに僕の実家がある。
掛け値なしのど田舎。
懐かしくはあるけれど、これといった感慨もない。
どこにでもある古びた一軒家の前でタクシーを降りた。
古民家というほどの趣もない。
軒先には玉ねぎが数珠つなぎにぶら下がり、庭では夏野菜がふんだんに実をつけていた。
久しぶりに僕の顔を見た母親は、
「あんた、ちゃんとご飯食べてるの?」と、心配するというよりは怒ったように言った。
「夏バテかな」と僕は答えた。
一人息子の僕が村を出ていったので、両親は二人で住んでいる。
僕が使っていた自室も、そのまま残されていた。
夕食には、僕があまり食欲がないんだと言っておいたにも関わらず、ごっそりと皿が並んだ。
そのほとんどが夏野菜だったけれど、父親が釣ってきた川魚もあった。
あまり量は食べられなかったけれど、久しぶりの魚の塩焼きは美味しかった。
「あんたも明日は釣りでもしてきたら?」と母親が言った。
「釣りか……」
近くの渓流を思い起こすが、気が乗らなかった。
「やっぱりまだ川が苦手かい」と母親。
「やっぱり?やっぱりって何?」
「ほら、昔溺れかけたことあったじゃない」
「そうだっけ?」
憶えていない。
父親が、冷蔵庫から瓶ビールを出してきた。
「飲むか?」
「ああ、うん」
そう言えば、自ビール以外を飲むのはずいぶん久しぶりだった。
きりっとした苦味がうまかった。
実家で夏休みとはいえ、娯楽があるわけではなく、要するに手持ち無沙汰だった。
ずっと家にいても仕方ないので、散歩に出ることにした。
思えば、仕事以外ではずっとマンションに引き込もっていたから、たまには体を動かさないと。
ちょっと坂を登っただけで腿がだるくなった。末期的な運動不足だ。
右手には田んぼがずらっと広がり、左手は山。まったく、驚くほど変わっていない。
まるで、時が止まっているようだ。
大して歩いていないのに、息があがる。
僕はガードレールに寄りかかって、しばし休憩をとった。
下には小さな川が、気持ち良さそうにさらさらと流れている。水が冷たそうだ。
昨日母親に言われたことが、なんだか頭に引っ掛かっていた。
そう言えば、小さい頃は近所の子供達とよく渓流で遊んでいた。
夏と言えば、毎日のようにそこに飛び込んで涼をとったものだ。
それが、いつしかまったく訪れなくなっていた。もしかして、溺れかけたというのがその原因かもしれない。
昨日は行きたいとも思わなかったが、ふと見てみようかという気になった。
さらに道を登って、今度は山岸を少し降りる。
いつも遊んでいた沢に着いた。
よくあの辺の岩からダイブしたっけ、と思い返すと懐かしい。
それにしても、と思う。溺れるような水量でもないけどな。
水の流れは穏やかで、一番最初に深いところでもせいぜい子供の腰くらいのものだ。
現場に来てみても、やっぱり何も思い出せなかった。
でも何かが引っ掛かっていた。
何だろう?分からない。
記憶の裏側で、何かがガリガリと引っ掻いているような、そんな感じだった。
そして、その夜に不思議なゆめを見た。




