別れ
翌朝、朝からまるで足が地に着いていないようにふわふわしていた。
だるさこそないものの、高熱を出した時のように頭はぼんやりとして、体が上手く操縦できない。
とりあえず出勤はしたものの、これは仕事にならんと早退した。
マンションの近くの公園のベンチで、思う存分呆けた。
小さな子供達が遊んでいて、その母親らしき若い女性が固まって立ち話に花を咲かせていた。日陰のベンチで新聞を読む、老眼鏡のおじいさんもいた。
絵に描いたような、平和で日常的な風景。
その中で、僕は昨夜の非日常的な出来事に思いを馳せていた。
今でも体の中心には疼きのようなものがあって、それがじんわりと全身に広がっている。
昨日の事を分析してみようと試みるも、ピンク色の脳味噌ではほとんど役に立たない。
僕は男なので想像するしかないわけだが、女性がオルガズムに達するとこんな感じになるのかもしれない。
まだ半日ほどしか経っていないのに、もうユキに会いたかった。
会って、昨日の出来事を二人で話したい。共有したい。
そして、あのすさまじい歓びと幸福感をまた味わってみたい。
あの時、僕達は一体となって、まるで一つの生命体みたいだった。
いつまでもそこでぼーっとしていられたが、不審者疑惑をかけられないうちに僕は家に帰った。
全く何もする気になれない。
テレビをつけようとも思わないし、本を読んだところで頭に入りそうにないし、満たされ過ぎていて食欲も湧かなかった。
ただただ、彼女の事を想いながらのんびりと日が傾くのを待った。
時がたち、ピンクともオレンジとも言えないような夕日が空と雲を色付けした。
いつもより少し早いけど、今日はもう離脱してしまおうと僕は思った。
ローテーブルにビールとグラス、そして背後にクッション。
ルーティーンと化しているいつもの儀式。
まず一杯目のビールを飲む。
異変はここで起こった。いつもと同じような、痺れるような感覚がやってこない。
続けてもう一杯。
それでも何も起こらなかった。本来なら、ここで完全に力が抜けているはずなのだ。
仰向けに横になってみる。
まったく離脱感覚はなかったし、その気配すらなかった。
昨夜の体験が何か関係しているのだろうか?と僕は思った。
三杯目のビールを飲む。
それから四杯目。
駄目だ。これ以上飲んだら酔ってしまって元も子もない。
何が起きているんだ?
身にまとっていた幸福感は雲散霧消していた。
時刻が早すぎた?
夕食をとっていないから?
いや、そんな事は前にもあったはずだ。
ビールボトルの日付ラベルが目に入り、
「まさか……」
最悪の想像が浮かんだ。
実は、僕が一番最初に仕込んだ自ビールは昨日が最後だった。今日飲んだのは、二度目に作ったものである。
「そんなはずはない」と僕は自分に言い聞かせた。
同じ銘柄を同じように仕込んだはずだ。何も変えていない。
仮に何かが違っていても比較のしようがない。昨日までに全て前回のものは飲んでしまっていたのだから。
「もう離脱できない……?」
それの意味することを考えると、ぞっと毛が逆立つような恐怖が僕を襲った。
こんなことはまるで想定していなかった。
どうしよう……。
いや、絶対に何か方法はあるはずだ。もう会えないなんて事があるはずない。
冷静に考えれば、焦れば焦るほど離脱からは遠ざかっていくのだが、とても平静ではいられなかった。
いつもならユキがやってくる時間になった。
僕はベランダに出て、目を凝らす。
昨夜、ユキは今日も来ると言っていた。だから絶対に来るはずなんだ。
どれだけ夜空を見続けても、彼女の姿を探すことが出来なかった。
肉体が恨めしかった。この目はなんて役立たずなんだ。
ユキはまだ待ってくれているだろうか。
早く行かなくては。
僕はテーブルに戻ってビールをグラスに注いだ。
意識さえちゃんと保てればいいのだ。
今のところ、他に手はないように思えた。
僕はビールを飲み続けた。
味だって変わらない。大丈夫、行けるはずだ。
どれくらい飲んだのか。
いまだにこの日の記憶はない。
よくじつは最悪の気分だった。
ひどい二日酔いと絶望感。
仕事は休んだ。
前日は早退していたから、会社だって特別不審には思わないだろう。
何度か吐くと、体は少し楽になった。
そして夜。
正直、ビールの匂いを嗅ぐだけで胃がムカムカしたが、それでも飲まないわけにはいかなかった。
それしか手がないのだから。
いつものように二杯。
小刻みに震える手で無理矢理に流し込む。
やはり何も起こらなかった。
「ユキ、怒ってるだろうな……」
何とか今の状況を伝えなければと、メッセージを書いてベランダのガラス戸に貼った。
多分、見てくれるだろう。
どんきのように重だるい頭を、ガラスに押し付けるとひんやりとした。
それからというもの、僕は幽体離脱関連の本を買い漁り、毎日挑戦した。
自ビールも新たに仕込んだ。たまたま二回目だけが上手くいかなかっただけなのかもしれないのだから。
1週間経っても、自力での幽体離脱は成功しなかった。成功の兆しさえ感じられなかった。
深い喪失感とともにベットにはいると、泣くつもりはなかったのに涙が自然と出てきた。
感情の泡みたいなものがぽこぽこと胸から湧きあがってきて、突き上げられるように僕は嗚咽した。
しまいには声を上げて泣いていた。
「ユキ……」
後悔もあった。
どうして無理にでも彼女の事を訊かなかったのか。
それが分かっていれば、離脱は出来なくても生身のユキを探すことが出来たかもしれないのに。
もし、僕がちゃんと彼女に会いたい気持ちを伝えていれば、状況は何か変わったのだろうか?
それでどうなるというものではないだろうけど、少なくとも後悔のリストは一つ減っていただろう。
僕に出来ることは限られていた。
さしあたっては、離脱のれんしゅうを続けることと、ビールを作り続ける事だ。
三度目の自ビールも、僕の期待を壊すだけで終わった。
なぜ上手くいかないのだろう。
どれだね考えても、初めて作ったビールとその後のビールとのちがいが分からない。
たまたま初めのビールの原材料にだけ何か特別な物が混じっていたのだろうか?
それとも発酵中のタンクに、妖精が魔法の粉でもふりかけたか?ピノキオみたいに。
そんな妄想すら浮かぶ。
ともかく、それでも僕は作り続けないわけにはいかなかった。
幽体離脱が出来るというCDも取り寄せてみた。
が、いくらやっても何も効果がなかった。
僕は、床に叩きつけてプレーヤーを破壊した。
幽体離脱記録は、引き出しの奥底にしまいこんだ。
書くことは何もなかったし、そこに綴られた日々を読み返すなんて事は、僕の精神を破壊するに等しかった。
一つだけ希望があった。
ユキは僕の住まいを知っているわけなのだから、訪ねてきてくれるのではないかというものだ。物理的に。
しかし、その願いもいっこうに叶わなかった。
ドアを叩くのは、宅急便の業者と新聞屋、それにシュウキョウノ勧誘だけだった。
届く郵便は、光熱費の請求者と領収書、封を開けることもなくゴミ箱に直通のダイレクトメール。
おかしな話だけど、今では前の灰色の日々が懐かしかった。
今は暗闇の日々だ。あの、深海みたいに。
光が強ければ強いほど、そこに生じる影もまた深い。
まるで、僕の体は半分になってしまったみたいだった。
残りの半分はどこかに消えてしまっていた。
そう、ユキが持っていってしまったのだ。無用のものと捨ててしまっていなければいいけど。
アルコールの量が増えていき、反比例するように食欲は減った。
体重は目に見えて減り、よるもよく眠れなくなった。
よくぞ壊滅的な精神疾患にならなかったものだと思う。
僕は、まるで服役者に課せられた責務のようにビールを飲み続けた。
この地底深くに伸びる、底知れない穴が埋まるときは来るのだろうか。




