異変
幽体離脱という特別な旅を始めて、およそ八十日が過ぎた。
その日のユキは少し様子がおかしかった。
どことなく生気が薄いような、会話の端々にもちょっとした違和感、それはよく見ていないと見過ごしてしまうような微かなものだったけれど。
何かあったの?とは聞かなかった。
ルールを破るのは気が引けたし、多分彼女は尋ねてほしくないだろうと思ったから。
いつの間にか待ち合わせの定位置になっていた僕の住むマンションの屋上で、僕達は夜景を見ながら静かな時を過ごしていた。
こんなにも毎日話をしているのに、話尽きるということがなかった。
どんなに小さな事にでも、僕らはそこに何かしら哲学めいたものを見出せたし、探究できた。
ユキはどこかに行こうと言わなかったし、僕も今日はそういう日なんだろうとただ会話を楽しんでいた。
ユキとのおしゃべりは面白い。
僕らは驚くほど似ている所もあったし、逆に全く相容れない感性もあった。
いっせーので答え合わせするみたいに、僕はその両方をどちらも心地よく感じた。
今日僕が引っ掛かっていたのは、ユキが話に熱中するというよりは、何だか先延ばしにしているように思えたことだ。
「今日は……」
僕は少しだけ探りを入れた。「怒らないね」
「へ?」
「ほら、ユキってすぐ怒るでしょ?僕が不甲斐ないこと言ったり、その……ユキの事を褒めたりすると」
「はぁ?いつ私が怒ったのよ」
ユキの目がきらりと光って、少し眉が上がる。
「そうだね、多分今かな」
ユキはむーっと黙りこんで、ひとしきり何かを考えていた。
それから、
「そんなにいつも怒ってた?」となんだか心配そうに訊いてきた。
そんなユキの顔を見ていたら、何だか可笑しくなって笑ってしまった。
「なによ」と、またユキの眉が上がる。
「ごめん」
僕は笑いを噛み殺しながら謝った。
人って、かわいいものを見るとわらってしまうんだなと思った。
「ねぇ」
ユキが体を僕の方に向けて、まっすぐに僕の顔を見た。「私に言いたいことある?」
あまりの直射に、僕はひるんだ。
「言いたい事って……そりゃあ……」
たくさんあるよ、そんな事。
ありすぎて困るくらいある。
一番伝えたいのは……。
手を伸ばしかけて、僕はそれを引っ込めた。
もしそれを言ってしまったら。
この気持ちを伝えてしまったら、今みたいな楽しい時間が消えてしまうかもしれない。
彼女が消えてしまうかもしれない。
そう思うと怖くて、僕は言葉を飲み込んだ。想いに錨を付けて沈めた。
「……特にないよ」と僕は言った。
「そう」
ユキの表情は平坦で、僕はそこから何も読み取れなかった。
「あのね」
ユキは不穏な空気をかき消すように言った。「幽体離脱マスターの私なんだけど、まだ試したことがないのがあるの」
「へぇ」
僕は興味をそそられて身を乗り出した。
他の星にも行ける、過去にも行ける。そんなユキが試してみたいことって何だろう。
「幽体合体をしてみたいのよ」とユキが言った。
幽体合体?
意味がよく分からなかった。ふと頭に浮かんだのは、子供の頃に見た戦隊ものの合体ロボだ。
「何いってるの?」と僕は尋ねた。
「つまりね、幽体と幽体を合わせて一つにするの」
「僕とユキを合体させるってこと?」
僕はイメージしてみた。「それはつまり……ドラゴンボールのフュージョンみたいなやつかな」
「それは知らない」
「だよね」
幽体を合体させるだって?
どういう事になるのか、完全に想像の域を越えていた。
「ユキがやりたいならやろう」と僕は言った。
「ありがとう」
ありがとう……?
思えば、ユキの口からそのワードを聞いたのは初めてな気がした。
この時の僕は知らなかった。
そのはにかんだようなユキの笑顔を見るのが、これで最後なのだということを。




